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35 それぞれの思惑

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 乙支文徳ウルチ ムンドクひきいる高句麗コグリョ軍を打ち破った于仲文かん ちゅうぶんは、その勢いをかって遼東城ヨドンソンへと向かい、それを包囲し一気に殲滅せんめつすべく攻撃を仕掛ける……かと思いきや。ある程度高句麗軍に引き離されると追撃をあきらめてあっさり軍を引き、武麗邏ブレイラに戻ってきてしまった。

 なぜ遼東城を攻めなかったのかと詰問きつもんする宇文述うぶん じゅつに、于仲文は平然と首を横に振って見せた。城攻めは難易度が高く、守るよりも攻めるほうが三倍難しいと言われていることから、その場の勢いだけで遮二無二しゃにむに攻撃を仕掛けてもさしたる効果は期待出来ない。まして敵軍の将はあの乙支文徳だ。調子に乗って敵のふところ深くまで攻めこんでいっては、その知謀ちぼうによってどんな手痛いしっぺ返しを食らうか分かったものではないと警戒けいかいしたのだと。

「ふん。つまりはずい軍第二陣総勢四〇万の大軍をもってしても、臆病おくびょうなネズミのように城の中に閉じこもっている二万足らずの兵と正面から戦って勝つ自信がないと言うことですか。隋国一の知将と呼び声も高い次武じぶどのらしくない弱気なことで。それとも此度こたびの戦いを最後に、次武どののほこる知略の泉も最後の一滴までれ果ててしまいましたかな?」

 精一杯のイヤミと悪意をこめて宇文述は憎々しげに口を開いた。だが于仲文は口元を手で隠しながらねっとりとしたわらいを浮かべるだけだった。言葉にこそ出さないが、遼河リョハの戦いで敗北を重ねて六万もの兵の生命を無駄にそこねた司令官なんぞになにを言われても痛くもかゆくもないと、その表情が如実にょじつに語っている。

あせって攻撃を仕掛ける必要なんてどこにもないのですよ、伯通はくつうどの。どうせ乙支文徳は遼東城から出てくることはないのですから。少なくともここしばらくの間はね」

「なんでそんなことが分かるのです! あの食えない男のこと。我々隋軍が武麗邏を占領せんりょうしたことで油断し気を抜いていると思って、少数の遊撃ゆうげき兵を組織し地の利をかしたゲリラ戦を仕掛けてくるという可能性も全くないとは言えないでしょう?」

 普通の武将ならば、堅固けんごな城があるならばそれに頼りきって、そこから出て敵を攻撃しようなどとは思いもしないだろう。だが敵はあの乙支文徳。隋軍きっての名将の一人である宇文述に、遼河で何度もえ湯を飲ませてくれたほどの男だ。あの男なら勝機しょうきがあると見れば城などあっさり放棄ほうきして、隋軍の中枢ちゅうすうに切りこみをかけてくるくらいのことはやりかねない。だがそんな宇文述の懸念けねんを、于仲文はあっさりと笑い飛ばした。

「勝機があるならね。でも現在この武麗邏には七〇万以上の隋軍兵士がいるのですよ? 遼河での戦いで傷つき疲れ果てた第一陣は除いたとしても、四〇万です。対して高句麗軍はわずか二万足らず。たとえ奇襲きしゅうを仕掛けたとしてもこの兵力差では勝つどころかまともな戦いにすらなりません。その程度のことが分からない乙支文徳ではありませんよ」

「だが遼河の戦いでは圧倒的不利な状況にあっても奇策きさくを以て、幾度いくどとなく戦況をひっくり返してきた男だぞ。今回も、なにかとんでもない策略を考えているということも」

「ありえません。遼河で乙支文徳が勝ち続けてこられたのは、両軍の間を遼河という大河が横たわっているという、特殊な地形条件があったためです。障害物のない広い地域を戦場とする場合は兵数かずの差がそのままイコール兵力ちからの差になります。いくら乙支文徳でも、この差を埋めるほどの策などは考えつくことは不可能でしょう」

「しかし……」

「伯通どの。乙支文徳は確かに知略にけ、策をろうするを得意としますが。だからと言ってどんな時も奇謀きぼう奇略を以て物事にあたるという訳ではないのです。真の知将というのはむしろ正攻法を好むもの。それではどうしても勝てないという場合のみ、最後の最後の手段として奇策を使うのですよ。最初から奇策に頼るような知将などは知将の名にもあたいしない、ただの三流将です」

 自称隋国一の知将である于仲文は得々とくとくと語った。

「ぼくちゃんほどではありませんが、乙支文徳もなかなかの知将。その辺のことは当然わきまえているはずです。遼東城という強固な城にって戦うという順当な策があるのに、奇をてらうというだけの理由で城を出て戦うなどという選択をすることはありえません。逆にもしそんな手を打ってくるようなら、乙支文徳など恐るるに足らないということです」

「……なるほど」

 宇文述はほぅとため息をこぼした。

 門閥もんばつ貴族の出身で煬帝ようだいと幼なじみであるという強力なコネを持つ宇文述とは違い、于仲文は自分の力のみをたのみとして、現在の地位までい上がってきた男だ。

 自らの才能には絶大な自信を持ち、その分他人をあなどさげす傾向けいこうが強いから鼻持ちならない高慢こうまんな男だとして毛嫌いする者は隋軍の中にも多い。かく言う宇文述もその一人……と言うか筆頭ひっとうである。

 だが彼の戦略眼や戦術指揮能力が優れていることはさすがに宇文述も(嫌々ながらも)認めざるを得ない。その于仲文が、乙支文徳は城を出て武麗邏の隋軍に奇襲きしゅうを仕掛けてくることはないと断言しているなら、それはその通りなのだろう。

 宇文述は于仲文に気づかれないように、ほっと安堵あんどの息をこぼした。于仲文が遼東城に攻撃を仕掛けなかったことをめた宇文述だが、実のところあのまま于仲文に遼東城を攻略されてしまったら、困るのは宇文述のほうだったのだ。

 宇文述は遼河の戦いで数度にわたって乙支文徳にたたきのめされ、一〇万人を越える戦死者や傷病兵を出してしまっていた。それに対して于仲文はただ一度の戦いで高句麗軍を撃破して乙支文徳を遼東城に退しりぞかせ、武麗邏の占領に成功したのである。

 今回の高句麗遠征えんせいで于仲文に大きく差をつけるつもりが、逆に思いっきり水をあけられてしまった形である。この上さらに于仲文によって遼東城を落とされ、乙支文徳の首級くびが上げられるなどということになったらたまったものではない。于仲文の地位名声が上がり煬帝の信頼が厚くなるのと反比例して、宇文述の評判は地の底まで沈み、必然隋の重臣のイスからも追い落とされて、二度と再び栄達えいだつへの道を這い上がることは出来ないだろう。

 そのため于仲文が隋軍第二陣を率いて、逃げる高句麗軍を追い遼東城に向かった時には正直宇文述は生きた心地もしなかった。いっそのこと乙支文徳が于仲文を撃破たおしてくれないかと本気で願ったものである。だが結果的に于仲文は本格的な戦いに入らずに軍を返し、占領地である武麗邏に戻ってきた。もちろん于仲文なりの思惑かんがえがあってのことだろうが、宇文述としては一度られた首が再びつながってくれたような気分である。

  これで宇文述にはいくらか時間が出来た。伝令からの報告によれば、煬帝率いる隋軍第三陣がこの武麗邏に到着するのは、予定より少し遅れて一〇日後になるらしい。その間に遼河の戦いで隋軍第一陣が受けた被害状況を調査して、戦死者や傷病兵のリストを作成する。その上で戦える人間をかき集めた上で部隊をいくつか統合かつ再編成するのだ。

 そうして宇文述自ら第一陣を率いて遼東城を攻め、今度こそ乙支文徳を打ち破る。遼河で受けた汚名をそそぎ、于仲文を見返すにはそれしか方法はなかった。

「次武どの。小官しょうかんは急用を思い出したので、これで失礼します」

 宇文述は于仲文に向かっておざなりに頭を下げると、回れ右をして自分の天幕テントに向かった。残された時間は短くやるべきことはあまりにも多い。于仲文などと呑気のんきに話しこんでいるヒマはなかった。一〇日以内に軍を立て直して、敵将乙支文徳がひそむ遼東城を落とす。そのためにも可及かきゅうすみやかに軍の威容いよう調ととのえ、出撃の準備をしなければならない。

「ご武運を、お祈りしていますよ」

 半ば早足で于仲文の前から立ち去ろうとした宇文述だったが、後ろからさりげない調子でそう声をかけられると、ぎょっとして思わず立ち止まってしまった。

(この男……まさかオレが抜け駆けして、陛下が到着する前に遼東城を落とそうと考えていることを見抜いたのではあるまいな?)

 そう思って、宇文述は恐る恐る背後を振り返った。だがその時すでに于仲文もきびすを返して、飄々ひょうひょうとした足取りでその場から歩み去るところだった。

 考え過ぎか。そう思って宇文述も再び前を向いて歩き出す。だが去っていく于仲文の背中を見た後から、宇文述は胃の中になにか重くよどんだものを流しこまれたかのような不快感を覚えていた。

 何故だろう。黙って歩く後ろ姿しか見ていないのに、于仲文が全ては計画通りだと言わんばかりに、自分に対してわらい声をあげているように思えて仕様がなかったのだ……。








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