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2章 森の中の生活

2-14.花の香(3)

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 クロエは寝直すこともできずに、起き上がると外に出た。

(ルーク……どうしたのかしら)

 家の外の丸太に腰掛けて、登ってくる朝日をぼんやりと眺める。爪痕のついた臀部でんぶがずきりと痛んだ。

「おはよう、クロエ、早いわね」

 急に声をかけられ、驚いて振り向くと、リーシャがにっこりと笑って立っていた。

「ブルーノはルークと狩りに行ってるみたいね。――私、これから、森に木の実を拾いに行きたいんだけれど、一緒に来てくれない?」

「わかりました。子どもたちは――」

「まだ寝ているけれど、大丈夫よ」

 リーシャは下に広がる里の風景を見回して微笑んだ。

「ここでは、危ないことは何もないから」

 二人は森の中へ入って行った。リーシャは迷う事なく、どんどん前へ進んで行く。ルークと一緒に移動したときのように、草が微かに揺れる方向に足を進めると、周りの木々の種類が変わった。『森を抜ける』という言葉をクロエは頭に思い浮かべた。1人で森の中に入ったことがなかったので、自分にもできるのかわからなかった。

「私、覚えていないくらい小さなころに流行り病になってね。顔に跡が残ってしまったの」

 唐突にリーシャが話し始めたので、クロエはびくりと背筋を正した。彼女は背中を向けたまま、ずんずんと茂みの中を進んで行く。

「こんな顔じゃお嫁の貰い手もないし……、自分の家や村から出ることなんて一生ないと思っていたわ」

 彼女は服の襟元の刺繍を触った。

「妹が収穫のお祭りに来ていくドレスにも刺繍をしてあげたことがあったわ。でも、私はその日は家族の代わりに村長の畑を賦役で耕しに行っていたの。遠くに灯りが見えて、楽しそうな音楽が聞こえてきて、辛かったわ。私は泥まみれで。そのまま、家に帰らずに森に入って行ってね。その先にブルーノがいたの」

「リーシャ」

 クロエの呼びかけに答えず、彼女は言葉を続けた。
 
「ブルーノの混乱した気持ちがさっき、伝わってきたわ。ルークの姿に心を痛めたみたい。最近、彼はルークことを気にかけて、心を乱すことが増えたわ。――ここは、私がようやく手に入れた安息の場所なの。私は、ブルーノの番で、彼と二人で1つで、ようやく自分がこの世界に受け入れられた気がしたわ。その安息を誰にも、荒らされたくないの」

 リーシャは振り返ると静かに言った。

「あなたがルークの番なら――彼を辿って戻って来られるでしょう?」

 それから、前を向いて歩き出す。ざわりと木々が揺れた。

「リーシャ」

 クロエの声はどこまでも続くかに見える鬱蒼うっそうとした深緑の茂みに吸い込まれる。もうそこに、リーシャの姿はなかった。周りを見回すと生い茂った木々で、空も覆われてしまい、日が昇っていると言うのに薄暗かった。ここがどこなのか、全く見当がつかなかった。

 ***

 狩りから戻ってきたルークは、ブルーノと別れ、家に戻った。

「クロエ?」

室内には誰の姿もなく、しんとしていた。

(ブルーノのところかな)

 ため息をついてベッド腰掛け、壁に寄りかかった。夜香花やこうかの香りが鼻先をかすめる。人の姿になれないのも、獣のような衝動に駆られるのも、この花の匂いが原因だということは何となく理解してきていた。

(でも、――この香りを使わないと)

 クロエと繋がることはできない。でもこのまま使い続けたらどうなるだろう。
 昨夜の行動を思い出す。後ろから、相手の顔も反応も気にせず、突き上げる行為は、番との愛情を確かめ合うということからかけ離れた、一方的な欲求の発散だった。そして、気づいた。自分の奥底にはそんなどろどろした欲求があるということに。

(どうしたら)

 頭を抱えて唸る。イライラして拳を振り上げて落とした。どんっと音がしてはっとすると、壁に穴が空いていた。ひやりとして、シーツを剥がすと、その下に引いた枯草ごと、花びらを掴んで外に投げ捨てた。

「クロエと、話さないと」

 呟いて立ち上がると、叔父の家に向かった。家族は朝食を終え、室内でくつろいでいた。

「リーシャ、クロエを見なかったか」

「森に、置いてきたわ」

 ルークの問いかけに彼女は事も無げに答える。

「――森に?」

「――あの子は、お前の番じゃないだろう」

 言葉を失うルークをブルーノがじっと見据えた。

「お前は、人間の姿がとれなくなっているだろう。夜花をたくさん摘んでいるのを見た。あれを全部、使ったのか?」

 返答に詰まるルークに、叔父は銀髪の男の姿に変え、静かに語りかけた。

「ルーク、あの花の香りを無理に使うのは駄目だ。あれは、俺たちを獣に戻してしまう。俺たちを獣ではなく、森の民たらしめるのは、番との愛情だ。番だけを愛し、家族をつくり、それを守る」

 彼の言葉を補うように、リーシャが付け加える。

「番じゃない彼女をここに置いておくことはできないわ」

 ルークは彼らの言っていることを受け止めきれずに呟いた。

「番、かもしれないじゃないか。まだわからない。とにかく、俺は、クロエにここにいてもらいたいと思ってる」

「わからない、なんてことはないんだよ、番は。ルーク、お前だって本当はわかっているだろ」

 ルークは吠えた。会話にならず、イライラする。頭に血が上って怒鳴った。

「リーシャ! 森ってどこだよ! そんな、ひとりで森になんて、何があるか」

「何を騒いでいるの。探せるでしょう、もし、彼女が番だっていうのなら。それに、彼女だって貴方のところに戻って来れるでしょう。それができないなら、番じゃないのなら、ここには置いておけないわ」

 リーシャは落ち着いて、とルークの肩に手を置いて、子どもに諭すように言った。言葉に詰まる。クロエの気配はわからなかったし、後をたどれる自信がなかった。1人で森を彷徨うクロエの姿が頭に浮かんだ。彼女もここに戻ってこれないだろう。
 
 森の中には何がいるかわからない。野生の獣や、場所によっては、彼女と会ったときにいた、外の粗暴な者がいるかもしれない。早く、見つけなければ。

 リーシャの手を払いのける。何てことをしてくれたんだ。怒りで全身の毛が逆立つのを感じた。牙を剥いた。

 「リーシャ」と発音したつもりだったが、口から出たのはぐるるという獣の唸り声だった。気がついたときには、尖った爪を彼女に向かって振り下ろしていた。空中に血が飛散する。

「あ……」

 はっと我に返ったルークの前には、上半身を血だらけにした狼の姿のブルーノが自分の番を庇うように倒れていた。その後ろでリーシャも胸を押さえ、折り重なるようにうずくまっている。番は命を共有する。ブルーノの痛みをリーシャも共有しているのだ。異変に気付いた小さな少女の叫び声と、幼い仔犬の火をつけたような鳴き声が室内に響いていた。

「――こんな、つもりじゃ」

 ルークは叔父に駆け寄ろうとしたが、彼の吠え声で、動きを止めた。

「ルーク」

 爪で裂かれ血が流れる胸をを押さえながら、ブルーノはふらふらと立ち上がり、ルークを見据えた。

「出て行け」

 言葉の意味がわからずに、ルークは視線を泳がせた。
 
「ここに、獣はいらない。本当の番を見つけられたら、戻ってこい。そうすれば、俺たちの言う事がわかるはずだ」

 ブルーノは遠吠えの鳴き声を上げた。それに共鳴するように、遠くから近くから同じような声が上がる。その遠吠えは、『出て行け』『出て行け』と繰り返される共鳴だった。里に外の人間が入ってこれないのは、里の者が受け入れていないからだ。今、この場所は調和を乱すルークを受け入れないと言っていた。

「クソ!」

 ルークは唸ると外へ駆け出した。それよりも何よりも、今はクロエを捜さなければ。
 家に戻るとクロエの着ていた服を手にとり、森へ飛び込む。
 
(匂いを辿たどれ)

 草を掻き分け、走った。
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