上 下
24 / 38
2章 森の中の生活

2-9.きっかけ(5)

しおりを挟む
 あっという間に日が経った。足の傷口を縫った糸をはずすと、そこはすっかり繋がっていた。「跡もそのうち消えるよ」とルークは薬の入った壺を片手に笑った。
 
 元通り歩けるようになったので、家事ができるようになり、一番近いブルーノの家に顔を出すようになった。リーシャに教えてもらい、水汲みの場所や、畑仕事のやり方を教わる。屋敷の中の仕事しかしたことがなかったので、屋外作業は最初は慣れなかった。

「私は、農家だったから、平気だけど」

 リーシャはクロエの手を見て言った。

「貴方は所作が綺麗だものね。どこかお金持ちの家にいたの?」

「辺境伯のお屋敷で働いてた」と答えると、リーシャは目を丸くした。

 しかし、数日教わるうちに、だんだんと里での暮らしに慣れて言った。
 それと同時に、リーシャやブルーノが会うと、クロエの首筋に目を向けることに気付いた。番の証をまだかと見ているのだと思った。

(『いいわ』と言ったつもりだったけれど)

 ルークはそういう素振りは全く見せなかった。

「――クロエはいくつ?」

 食卓を囲んでいた時に、急にリーシャに聞かれてクロエははっとした。日にちの感覚がなかったが、よく考えればここにいる間にいつの間にか、自分が16になっていたことに気がついた。

「――16です」

「そうなのね。私がここに来たのも16の時よ」
 
 ねえ、とリーシャはブルーノに微笑んだ。

「ルーク、怪我も良くなったみたいだし、もういいんじゃないか」

 彼は甥の肩を小突いた。

「ああ」と曖昧に笑うルークを見て、クロエは視線を落とす。

『もういいんじゃないか』は番というものに関わることだと感じた。
 
 ある日、クロエ朝早く目が覚めた。部屋を見回すと、ルークは布団もかけずに、怪我をしていたときと同じように床の隅に布を広げてその上でそのまま寝ている。

 立ち上がると寝息を立てる狼に近づき、背中を撫でた。

「こっちに来てもいいのに」

 何気なく言葉が漏れた。
 それから上着を羽織ると、水を一杯飲んで、桶を持って水を汲みにまだ薄暗い外に出た。
 
 ルークは背中を撫でる手の感触でうっすらと目を開けた。
 
「……」

(さっきのは、どういう意味だ?)
 
 ――寝台の方を使ってもいいということだろうか。

 床で寝ているのは、自分が寝ると寝場所が狭いだろうと思ったからだ。

 彼女の気持ちがわからないのは、番の証をつける行為を行っていないからだろうか。

 自分は、クロエがこの家にいることに居心地の良さを感じている。
 それは確かな気持ちだった。叔父の家に行かなくても、食卓を囲む相手がいるのは暖かい気持ちになったし、彼女の笑顔は居心地が良かった。ただ、番の証をつけるようなそんな衝動的な気持ちは湧かなかった。

(噛みつくなんて、獣みたいじゃないか)

 自分の番に噛み跡を残す。その跡は不思議と消えずに痣になって残る。それがこの里では当たり前のことなので、もちろん知っていたが、クロエの首に牙を立てるというのは想像したくなかった。

 い、と口をめくり自分の牙に触れる。それは尖っていて、彼女の細い首に噛みついたら、大変なことになりそうだった。

(そもそも、何で噛みつくんだろ)

 首を傾げる。

(そのうち、噛みつきたくなるもんかな)

 きっと時期がくれば、自然とそういう気持ちになるものなのだろうか。

 そのときずきん、と股間のあたりに痛みを感じた。

(そういえば、しばらく、してないな)

 ルークはため息をついて立ち上がると、家の横にある納屋に入った。棚から壺をとると、そこに入った乾燥したピンク色の花びらを手でいくらか掴み、壺の中に入った陶器の小皿に置いてそれに火をつける。花びらは黒く焦げて、うっすらと煙をあげ、そこから甘い香りが狭い室内に広がった。燃える花びらに鼻に近づけ、吸い込むと体中の毛が逆立つようなぞわりとした感触が全身に広がり、それと共に体内が熱くなるのを感じた。

(この匂いは、クロエを見つけた時に感じた匂いと一緒だ)

 ルークはのぼせたようにぼーっとする頭で考えた。夜香花と呼ばれるそのピンク色の花の香は、番同士が感じる匂いに似ていると言われていた。それは脳の奥を刺激し、情欲を掻き立てる匂いだった。

 ルークはズボンを下げると、自分の陰茎を握った。番のいない、一定年齢に達した男は、定期的に花の香りで獣欲を刺激し、射精を行わないとならない。番を見つけて一人前と見なされる森の中では、この行為は未熟な証であったので、20歳を過ぎ、周りの同年代の者が番を見つけるにつれ、まだひとりでそれを行っていることに、ルークは微かに羞恥心を抱いていた。

 はぁ、息を吐き、手を動かす。花の匂いが鼻腔を抜けて、頭の中に立ちこめる。それは、普段の穏やかな気持ちをどろどろと溶かしていき、奥底の感情が剥き出しにされるような気分がした。クロエが家にきてから、しばらくこの行為を行っていなかったので、匂いの効き目がいつもより強い気がした。あるいは、狭い納屋で匂いが強く籠るせいだろうか。

 息遣いが荒くなり、頭痛と共に意識が高揚感で包まれる。手を動かすとそこがどくんと脈打った。

 桶に水を汲んで戻ってきたクロエは、どこかから漂ってくる煙の匂いに気がついた。
 桶を置いて辺りを見回す小屋の横の納屋から、細く煙が出ている。火事かと思って焦って扉を開ける。
 
「あ……」

 ルークは焦点の合わない目で扉を開けたクロエを見上げた。

「ルーク……?」

 自然と身体が動いた。彼女に伸し掛かり身体を地面に押し付けると首筋に噛みついた。

「っ」

 クロエは痛みを感じ首を押さえた。手に血がつく。
 どくん、と心臓が鳴った。

(番の、証)
 
 自分の上に覆いかぶさ、狼の背に腕を回すと、背中を撫でた。

 視線を下げると、銀色の毛に覆われた下半身が見えた。それは人間ではなく狼のものだったが、その毛の間にそそり立つ彼の分身器官は肉の色をしていていて、マクシムのものよりも大分大きいが、同じ形をしていた。しかし、禍々しさは全く感じられず、むしろ親しみを感じ、クロエは自分がそれを自然なものとして受け入れていることを感じた。

(だって、私は、ルークが好きだもの)

 狼の姿だろうが、何だろうが彼ならいいと思った。そこに手を伸ばして、柔らかく握った。
 ルークは身体をびくっと震わせると、唸った。
 
(俺は、何をしている)

 頭をぶんぶんと振ると、クロエの手をそこからはずし、ふらふらと立ち上がった。呆然とするクロエを持ち上げて立たせる。それから自分の露わになった下肢に気がつき、納屋に駆け込んで、扉を閉めて呻いた。頭を何度か壁に打ち付ける。

「悪かった」

 ズボンを履く。さっきの自分は獣のようだったと情けなくて泣きたい気持ちになった。
 
 10歳になったころに、一番年の近い親族の男――ブルーノから夜香花の使い方と、射精の方法を教わった。それは、番と出会った時に、交わるための準備で、定期的に行わなければいけないものだと。そして、必ず一人でやらなければいけないもので、特に絶対に女を近づけてはいけない。獣の野蛮な感性を引き戻すものだから。

  外の人間と鉢合わす度に『化け物』だの『獣が』など叫ばれることを思い出す。その度に『どちらが獣だ』と思った。森の中で出会う外の人間は、お互いに争い、獣のように集団で交尾を行っていたりするのに。それに比べれば、自分たち森の民は、お互いに争うこともなく、番だけを愛して、番との関係に支えられた調和した社会で、穏やかに暮らしている。獣の姿をしていても、彼らよりよほど理知的だと思う。

 ふと人の姿になろうとして、身体が変化できないことに気付いた。

 ――この匂いのせいだ。

 ため息をつく。『野蛮な感性』を引き戻すというのはこういうことだろう。
 いつも、この匂いを嗅ぐとしばらくの間、人の姿がとれなくなる。

 燃えた夜香花の灰を壺の中に入れ、蓋をした。扉によりかかりうなだれると、外に向かって語りかけた。

「――その、これからは、このままにしておいてくれると助かる」

「――ごめんなさい」

 クロエは閉まったままの納屋の扉を見つめた。何故彼がそこに閉じこもってしまったのかの理解ができなかった。もっと、マキシムがやったように、服を脱がせて、手を入れて、触って、――それを挿れてくれて、良かったのに。彼なら。

 それを伝えたくて、口を動かした。

「ねえ、ルーク、私は、いいのよ」

 何か、悪い部分があっただろうかと考えて、声が震えた。

「いいって――」

 クロエは声を振り絞った。恥ずかしさで頭に血が上る。

「だから、しても。だって、私たちは、一緒に住んでいるし――番、なんでしょう」

 ルークは納屋の中でしゃがみ込んだ。足の間のそれは、すっかり萎んでいる。

「そうだな」

 彼女を番としてこの里に置いておくなら、それは考えなければいけない。
 番なら、愛情の形として、当然みんな交わるのだから。
 それよりも、外から聞こえてくる震え声が頭に絡みついた。
 どんな表情をしているだろうか。こんな声をさせたいわけじゃない。
 
「きちんとした、やり方があるから、俺たちの」

 頭を抱えながら、だからちょっと待っていてくれ、と納屋の中から外に向かって呼び掛けた。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

婚約破棄したら食べられました(物理)

かぜかおる
恋愛
人族のリサは竜種のアレンに出会った時からいい匂いがするから食べたいと言われ続けている。 婚約者もいるから無理と言い続けるも、アレンもしつこく食べたいと言ってくる。 そんな日々が日常と化していたある日 リサは婚約者から婚約破棄を突きつけられる グロは無し

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

星織りの歌【完結】

しょこら
恋愛
四枚羽根の少女フィリアは幼なじみの少年ランディスと約束をした。「わたし、絶対に星織姫になる!」「じゃあ、僕は近衛になってフィリアを護る」有翼の人々が住む青く美しいエレミアの星には、通常なら二枚の羽根を持って生まれてくるが、まれに四枚の羽根を持って生まれてくる少女たちがいた。彼女たちは星を護る女神となるべく修行し、星杖の選定を受けて女神「星織姫」となる。歌の力で星のバランスを保ち、安定させるのだ。フィリアはランディスの守護の元、もう一人の候補であるクレアとともに星織姫を目指す。だが《セラフィム》を名乗る刺客たちに襲われる中、星織姫を目指す候補の末路を聞かされ、衝撃を受ける。 星織姫を諦めたくない!でもランディスも失いたくない。大きく揺れながら、フィリアは決断していく。

身代わりーダイヤモンドのように

Rj
恋愛
恋人のライアンには想い人がいる。その想い人に似ているから私を恋人にした。身代わりは本物にはなれない。 恋人のミッシェルが身代わりではいられないと自分のもとを去っていった。彼女の心に好きという言葉がとどかない。 お互い好きあっていたが破れた恋の話。 一話完結でしたが二話を加え全三話になりました。(6/24変更)

【完結80万pt感謝】不貞をしても婚約破棄されたくない美男子たちはどうするべきなのか?

宇水涼麻
恋愛
高位貴族令息である三人の美男子たちは学園内で一人の男爵令嬢に侍っている。 そんな彼らが卒業式の前日に家に戻ると父親から衝撃的な話をされた。 婚約者から婚約を破棄され、第一後継者から降ろされるというのだ。 彼らは慌てて学園へ戻り、学生寮の食堂内で各々の婚約者を探す。 婚約者を前に彼らはどうするのだろうか? 短編になる予定です。 たくさんのご感想をいただきましてありがとうございます! 【ネタバレ】マークをつけ忘れているものがあります。 ご感想をお読みになる時にはお気をつけください。すみません。

あなたの1番になりたかった

トモ
恋愛
姉の幼馴染のサムが大好きな、ルナは、小さい頃から、いつも後を着いて行った。 姉とサムは、ルナの5歳年上。 姉のメイジェーンは相手にはしてくれなかったけど、サムはいつも優しく頭を撫でてくれた。 その手がとても心地よくて、大好きだった。 15歳になったルナは、まだサムが好き。 気持ちを伝えると気合いを入れ、いざ告白しにいくとそこには…

引きこもり少女、御子になる~お世話係は過保護な王子様~

浅海 景
恋愛
オッドアイで生まれた透花は家族から厄介者扱いをされて引きこもりの生活を送っていた。ある日、双子の姉に突き飛ばされて頭を強打するが、目を覚ましたのは見覚えのない場所だった。ハウゼンヒルト神聖国の王子であるフィルから、世界を救う御子(みこ)だと告げられた透花は自分には無理だと否定するが、御子であるかどうかを判断するために教育を受けることに。 御子至上主義なフィルは透花を大切にしてくれるが、自分が御子だと信じていない透花はフィルの優しさは一時的なものだと自分に言い聞かせる。 「きっといつかはこの人もまた自分に嫌悪し離れていくのだから」 自己肯定感ゼロの少女が過保護な王子や人との関わりによって、徐々に自分を取り戻す物語。

【完結】少年の懺悔、少女の願い

干野ワニ
恋愛
伯爵家の嫡男に生まれたフェルナンには、ロズリーヌという幼い頃からの『親友』がいた。「気取ったご令嬢なんかと結婚するくらいならロズがいい」というフェルナンの希望で、二人は一年後に婚約することになったのだが……伯爵夫人となるべく王都での行儀見習いを終えた『親友』は、すっかり別人の『ご令嬢』となっていた。 そんな彼女に置いて行かれたと感じたフェルナンは、思わず「奔放な義妹の方が良い」などと言ってしまい―― なぜあの時、本当の気持ちを伝えておかなかったのか。 後悔しても、もう遅いのだ。 ※本編が全7話で悲恋、後日談が全2話でハッピーエンド予定です。 ※長編のスピンオフですが、単体で読めます。

処理中です...