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2章 森の中の生活

2-5.きっかけ(1)

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 暗闇に、月を映しながら流れる川と、その周囲にいくつかの小さな家が見えた。ルークはクロエを抱えたまま、その家の中でもはずれにある小屋に入って行った。

 丸太を組んだだけの簡素な小屋だった。ルークはクロエをいったん壁に寄りかけて置くと「ちょっと待ってろ」と声をかけて奥へ消えていった。

 クロエは壁に寄りかかって天井の木目をぼんやりと見つめた。手足が動かない代わりに、痛みは全く感じなかった。頭はぼんやりと靄がかかったような感じで、現実感がなかった。
 
 やがて、ちゃぷちゃぷと音をさせて、水の入った桶を持ったルークが戻ってきた。彼は、床に布を広げると、クロエを上向きに横たえ爪で服を割いた。それから、水に浸して絞った布で泥のついた身体を拭いた。

 一族の子ども以外の、女の裸を見るのは初めてだったが、綺麗な肌だとルークは思った。自分が人間の姿になった時とも全然違う、滑らかでしっとりした感触の肌は、少し力を入れたら傷ついてしまいそうで、手が強張った。

「足以外に目立った傷はないか……」

 呟いて、身体を裏返し、ルークははっと動きを止めた。背中一面にミミズが中を走り回ったような筋が残っていたからだ。

(最近ついたものじゃないか)

 痛々しさを感じて視線を逸らすと、仰向けに戻した。止血のため縛っていた右足の腿の紐をはずすと、壺から薬を出した。

「傷口を縫う。痺れ草を使うから、そのまま寝ててくれ」

 クロエは足にピリっとした痺れを感じた。ルークは糸と針を手に、姿を人間に戻す
 
(そんなお裁縫するみたいに) 

 大丈夫かしらと思いつつ、痛みが全くないので実感がわかないからか、真剣に針に糸を通す体格の良い男の姿がまた不釣り合いだと妙に面白く思えて、笑みを浮かべて緩やかに意識を手放した。

 次に目を覚ました時には、ざらっとした感触の麻の布団に寝かされていた。視線をずらすと、窓から明るい陽射しが差し込んでいる。目を開ける度に状況が変わるので本当に夢なんじゃないかと思えてくる。視線をずらすと、ベッドを背もたれにして床で寝ているルークのふさふさした頭の横に上向きについた獣の耳が見えた。手を伸ばして触ると、纏わりついた虫を手で追い払うように、ぱたぱたと耳が動いた。

 小さいころ、コディの耳で延々同じようなことを飽きずにやったと思い出した。今脇にいるこの喋る狼は動く気配がない。何度か指で耳をつついて、動きを面白がっていると、不機嫌そうな声が聞こえた。

「――やめてくれ」

 くすぐったさで目が覚めた。ルークは立ち上がると、クロエを見下ろした。
 
 いとこの7歳になる姪っ子を思い浮かべる。その子どもも、遊びで肩車をすると、面白がって耳を触ってくるのだ。

 昨日森から連れてきた、この外の少女は大人びて見えるがいくつなのだろうかと首を傾げる。里では、大人になった女が、男の耳を触ってその動きを面白がるような様子を見たことはない。彼女との接し方がわからず困惑する。

 クロエは改めて狼が話している、と再確認した。

「言葉が、話せるのね」

 ルークは不服そうに言った。

「昨日も話しただろ」

 そうだ、彼と会話をしたんだ、と記憶をたどって、名前を呼んだ。

「――ルーク」

「そうだ。傷は痛むか、クロエ」

 首を振る。

「でも、起き上がれないわ」

「痺れ草の効果だ。害はない。しばらくすれば治るよ。痛いよりましだろ」

 ルークはクロエの身体を布団ごと起こすと壁に寄りかからせた。
 水瓶からコップに水をすくい、口元に持ってくる。

「――水飲むか」

 頷くと、口の中に冷たい水が流れ込んできた。甘味を感じる水は、今まで飲んだことがない美味しさだった。もっとと首を持ち上げすぎて、気管に入り咳き込むと、ふわふわした感触の手で背中をさすられる。

「足を見せてくれ」 

 ルークはクロエの布団をはがすと、姿を人間に変えて、右腿の傷に触れた。
 いきなり目の前の狼が人間の男の姿になったことに驚いたクロエは、咄嗟に裸の身体を隠そうとしてバランスを崩し、横に転がった。さり、と乾燥した草のようなものの上に布を被せた寝台に着地する。

 驚いたのはルークも一緒だった。うわ、と声を上げて、身体を引いた。

「どうした?」

「――」

 クロエは恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。狼の姿だと感じていなかった羞恥心が、相手が知らない人間の男だと認識すると急に湧き出てきた。小声でぼやく。

「なんで、人間になったの」

「いや、細かい作業をするときは、こっちの方が都合がいいから」

「――狼のままでいて」

 ルークは戸惑って頭を掻いた。

(外の人間は、鉢合わせると化け物って言うけどな)

 彼女の見せるこの反応は何なのかが見当がつかなかった。普通の人間だったら、もっと怖がるはずだと思ったし、この妙に親し気な感じはなんだろうか。

(番?)

 首を傾げる。番に出会うと、本能的に何か感じるものらしいと周囲の話で聞いていたが、そのような感覚はなかった。出くわしたときに感じた様な、微かな頭の奥を刺激するような匂いもしない。

「わかった、これならいいんだな」

 姿を狼に戻し、クロエの身体を再び起こすと、傷口を見た。肌にできた深い切れ目は、白い糸で縫合されており、出血はなかったが、周囲は赤く腫れていた。ルークはそこに、どろっとした緑の薬を塗った。

「――これなら大丈夫だ」

「あなたは、お医者様なの?」

「イシャ」

「――病気や怪我を直す人のこと」

「怪我の対応はここでは一番得意だ。俺は、一番怪我するから」

 番を持つ森の民の男は、慎重に狩りをするため、ほとんど怪我をすることはない。痛みや傷さえ共有する番は、自分が傷つくことは大切な番を傷つけることにもなるので、安全な行動をとるようになる。

 里で大きな怪我をするとすれば、ほとんど子どもか、番のいない若者だ。ルークは番がいない時間が長いせいか、向こう見ずに獲物を襲うことが多く、生傷が多かった。そのため、引き継がれている生傷の処理を自分で繰り返すうちに得意になった。

「――それは、得意げに言う事――?」

 クロエは笑い声を漏らした。

「まあ、とにかく、大丈夫そうで良かった」

 ルークは身を引くと、頷いた。昨日の苦し気な彼女の表情を思い出す。
 笑顔になったなら、それは良いことをしたのだと思って、気持ちが良かった。
 クロエの腹がぐぅと音を立てた。ルークは笑った。

「何か持ってくる」
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