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2章 森の中の生活
2-3.森の民
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クロエが出て行った後、しんとした暗闇に包まれた部屋で、ルークは喉の奥から吠え声を上げた。首輪を掴んで砕こうとするが、腕に力が入らなかった。動く度、首輪の裏にある突起が首にあたり痛みを感じた。ジャラジャラと鎖の擦れる音だけが部屋に響く。
「クソ!」
四肢を投げ出し、天井を睨む。
「アメリア」
番の名を口にしてルークは咆哮を上げ、頭を押さえうずくまった。クロエが彼女に直接的に何か危害を加えることはないだろう、それよりも。
(夫といる)
そのことがルークの内側に、身体の半分を引き裂くような目に見えない痛みを与えていた。それと同時に、感じたことのないどろどろとした、怒りと焦燥感が混じったような感情で頭が支配されていくのを感じた。何日も空腹のところで、ようやく捕らえた獲物の肉を目前で奪われるような、そんな感覚だった。そのどろどろとした感覚は、アメリアと一緒にいるというチャールズという男に、何より自分自身に向いていた。
(俺が招いたことだ)
頭の奥底を刺激する微かな匂いを感じ、森の外へ近づいた時のことを思い出す。
そこには、地面に横たわる女とそれに覆いかぶさる人間の男が3人いた。
彼らは、自分たちのことを『野人』だの『獣』だの呼ぶが、どちらが獣かとルークは思う。
ルークたち、森の中に住む彼らは、自分たちのことを『森の民』と呼ぶ。
森の民の社会は、番同士の築く、血の繋がりで構成された、穏やかなーーまるで揺り籠にいるような社会だ。男は狼などの肉食獣の姿をとることができ、女は外の人間と同じ姿をしている。男は森で獲物を狩り、女は里で子どもを育て家庭を守る。それぞれが家族を作るための運命の相手、番を持っており、それは生まれた時から決まっている。森の民は一族ごとに里を形成し暮らしており、ほとんどの場合番は別の里に生まれ、20歳くらいまでに自然とめぐり合うようになっていた。不思議な力が働いているのか、番に出会わないということはなく、子どもも、それぞれ番として見合った数の男女が産まれるようだった。
ただ稀に、番となる娘が森の外からやって来ることがある。それは、外の血を入れるためなのか、理由はわからないが、彼女たちは、その時が来ると森の外からやってきた。彼女たちは『客番』と呼ばれ、有難がられる。なぜならば、穏やかで変わることのない森の中に変化をもたらすからだった。例えば、衣服に色を染めたり、作物を育てたり、寝心地の良い寝具を作ったり。また、新しい言葉や概念が、彼女たちからもたらされることもあった。
「愛している」
クロエの言葉を復唱して、ルークは頭を抱えた。『愛している』という言葉も、客番が森の中へもたらした言葉だ。もともと森の民たちはその言葉を持っていなかった。
彼らは基本的に番に対して以外、性的欲求を抱かない。番に出会うと血が沸くような昂ぶりを感じ、その首筋に男が牙を立てることで、番同士の繋がりが確立する。番は運命を共にする相手であり、片方が傷つけば、もう片方の同じ場所に痛みが生じるほどにお互いの全てを共有し、一生を添い遂げる。そんな安定した、絶対的な関係性の中で、森の中には外の世界のように恋愛というもよが存在しなかった。そのため番に対する感情を改めて表現する必要がなかった。
だが、その昔森の外からやってきた客番は、番の男に『愛してる』と言った。その言葉の響きは男の耳に心地よく響き、それから番同士で愛情を表現するためにその言葉が使われるようになった。
ルークはまた吠えた。
『愛している』という言葉をクロエに使わせ、彼女を焚きつけたのは自分なのだろうか。だが、彼女は自分の番ではない。自分がその言葉を使う相手は、アメリアだ。だが、彼女は今、夫――森の外で言うところの番と一緒にいるという。
森の中では、番同士の関係は絶対的なものだ。誰かの番が別の誰かと過ごすことなどありえない。だから、嫉妬という感情も存在しないし、それを表す言葉もない。
自分の番が、別の男と夜を過ごしているという状況はルークの想像しえないことで、その事実に自分の中に生じるどろどろとした感情をどう表現すればいいのか、彼はわからなかった。
(あの時、里に連れて行かなければ、いや、)
性行為は森の民にとっては番同士でのみ行われる清らかな行為だ。クロエに覆いかぶさり、下半身を露出した外の人間の男に不快感を覚えたルークは彼らをなぎ払った。
外の人間が森を切り開くことで、山賊のようになったならず者が森の奥に足を踏み入れてくることが増え、稀にそういう連中と接触することもあった。里は不思議な力で守られており、外の人間が足を踏み入れることはできない。だが、森の民は森の海を自由に行き来する力を持っており、狩りのときは様々な場所へ足を運ぶので、外の人里近くに行ってしまうこともあった。
客番以外の外の人間を里に連れて行くことはない。だが足から血を流し呻く彼女からは、どこはかとなく微かに、頭の奥を刺激する匂いを感じた。それに彼女は狼の姿の頬を愛おし気に撫でたのだ。普通なら外の人間はその姿を見れば、『野人だ』『化け物だ』などと悲鳴を上げるのに。
ルークは20歳になっても里の中で番に出会わなかった。ルークの叔父のブルーノの番であるリーシャは外からやってきた客番だった。ブルーノは甥に語り掛けた。
「お前の番も森の外にいるんだよ、きっと。時が来れば、わかる。相手とひとめ目が合うと頭が沸騰するような感じがするんだ」
その日狩りに出た先で、ふと鼻先を何か――身体の奥底を刺激するような匂いを感じた。それを辿ったところにクロエがいた。叔父の言っていた『頭が沸騰するような感じ』はしなかったが、自分の頬を愛おし気に撫でる彼女の手の感触と、「コディ」と誰かの名前を呟いたことが気になった。ぐったりした彼女はこのまま放っておいたら死ぬだろうと思い、焦ってそのまま里に連れて帰った。
アメリアが夫といるという事実に、自分が悶えているのは自身が招いたことだ。自分がクロエと関係を持ったのは事実なのだから。
「クソ!」
四肢を投げ出し、天井を睨む。
「アメリア」
番の名を口にしてルークは咆哮を上げ、頭を押さえうずくまった。クロエが彼女に直接的に何か危害を加えることはないだろう、それよりも。
(夫といる)
そのことがルークの内側に、身体の半分を引き裂くような目に見えない痛みを与えていた。それと同時に、感じたことのないどろどろとした、怒りと焦燥感が混じったような感情で頭が支配されていくのを感じた。何日も空腹のところで、ようやく捕らえた獲物の肉を目前で奪われるような、そんな感覚だった。そのどろどろとした感覚は、アメリアと一緒にいるというチャールズという男に、何より自分自身に向いていた。
(俺が招いたことだ)
頭の奥底を刺激する微かな匂いを感じ、森の外へ近づいた時のことを思い出す。
そこには、地面に横たわる女とそれに覆いかぶさる人間の男が3人いた。
彼らは、自分たちのことを『野人』だの『獣』だの呼ぶが、どちらが獣かとルークは思う。
ルークたち、森の中に住む彼らは、自分たちのことを『森の民』と呼ぶ。
森の民の社会は、番同士の築く、血の繋がりで構成された、穏やかなーーまるで揺り籠にいるような社会だ。男は狼などの肉食獣の姿をとることができ、女は外の人間と同じ姿をしている。男は森で獲物を狩り、女は里で子どもを育て家庭を守る。それぞれが家族を作るための運命の相手、番を持っており、それは生まれた時から決まっている。森の民は一族ごとに里を形成し暮らしており、ほとんどの場合番は別の里に生まれ、20歳くらいまでに自然とめぐり合うようになっていた。不思議な力が働いているのか、番に出会わないということはなく、子どもも、それぞれ番として見合った数の男女が産まれるようだった。
ただ稀に、番となる娘が森の外からやって来ることがある。それは、外の血を入れるためなのか、理由はわからないが、彼女たちは、その時が来ると森の外からやってきた。彼女たちは『客番』と呼ばれ、有難がられる。なぜならば、穏やかで変わることのない森の中に変化をもたらすからだった。例えば、衣服に色を染めたり、作物を育てたり、寝心地の良い寝具を作ったり。また、新しい言葉や概念が、彼女たちからもたらされることもあった。
「愛している」
クロエの言葉を復唱して、ルークは頭を抱えた。『愛している』という言葉も、客番が森の中へもたらした言葉だ。もともと森の民たちはその言葉を持っていなかった。
彼らは基本的に番に対して以外、性的欲求を抱かない。番に出会うと血が沸くような昂ぶりを感じ、その首筋に男が牙を立てることで、番同士の繋がりが確立する。番は運命を共にする相手であり、片方が傷つけば、もう片方の同じ場所に痛みが生じるほどにお互いの全てを共有し、一生を添い遂げる。そんな安定した、絶対的な関係性の中で、森の中には外の世界のように恋愛というもよが存在しなかった。そのため番に対する感情を改めて表現する必要がなかった。
だが、その昔森の外からやってきた客番は、番の男に『愛してる』と言った。その言葉の響きは男の耳に心地よく響き、それから番同士で愛情を表現するためにその言葉が使われるようになった。
ルークはまた吠えた。
『愛している』という言葉をクロエに使わせ、彼女を焚きつけたのは自分なのだろうか。だが、彼女は自分の番ではない。自分がその言葉を使う相手は、アメリアだ。だが、彼女は今、夫――森の外で言うところの番と一緒にいるという。
森の中では、番同士の関係は絶対的なものだ。誰かの番が別の誰かと過ごすことなどありえない。だから、嫉妬という感情も存在しないし、それを表す言葉もない。
自分の番が、別の男と夜を過ごしているという状況はルークの想像しえないことで、その事実に自分の中に生じるどろどろとした感情をどう表現すればいいのか、彼はわからなかった。
(あの時、里に連れて行かなければ、いや、)
性行為は森の民にとっては番同士でのみ行われる清らかな行為だ。クロエに覆いかぶさり、下半身を露出した外の人間の男に不快感を覚えたルークは彼らをなぎ払った。
外の人間が森を切り開くことで、山賊のようになったならず者が森の奥に足を踏み入れてくることが増え、稀にそういう連中と接触することもあった。里は不思議な力で守られており、外の人間が足を踏み入れることはできない。だが、森の民は森の海を自由に行き来する力を持っており、狩りのときは様々な場所へ足を運ぶので、外の人里近くに行ってしまうこともあった。
客番以外の外の人間を里に連れて行くことはない。だが足から血を流し呻く彼女からは、どこはかとなく微かに、頭の奥を刺激する匂いを感じた。それに彼女は狼の姿の頬を愛おし気に撫でたのだ。普通なら外の人間はその姿を見れば、『野人だ』『化け物だ』などと悲鳴を上げるのに。
ルークは20歳になっても里の中で番に出会わなかった。ルークの叔父のブルーノの番であるリーシャは外からやってきた客番だった。ブルーノは甥に語り掛けた。
「お前の番も森の外にいるんだよ、きっと。時が来れば、わかる。相手とひとめ目が合うと頭が沸騰するような感じがするんだ」
その日狩りに出た先で、ふと鼻先を何か――身体の奥底を刺激するような匂いを感じた。それを辿ったところにクロエがいた。叔父の言っていた『頭が沸騰するような感じ』はしなかったが、自分の頬を愛おし気に撫でる彼女の手の感触と、「コディ」と誰かの名前を呟いたことが気になった。ぐったりした彼女はこのまま放っておいたら死ぬだろうと思い、焦ってそのまま里に連れて帰った。
アメリアが夫といるという事実に、自分が悶えているのは自身が招いたことだ。自分がクロエと関係を持ったのは事実なのだから。
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