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1章 ことのはじまり

1-14.森の中で

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 ガタゴトと揺れる馬車の木枠に身を委ねてクロエは瞳を閉じた。あのナイフの誰の血だったか、どこへ行く気なのか、何も聞かなかった。マクシムは夜通し馬車を走らせ、夜が明けると、通りがかりの村でアクセサリーと引き換えに、食料をもらってきた。渡されたパンをかじる。彼はまた馬を走らせた。

 整備された道がなくなると、マクシムは馬車を降りて、馬に荷物をくくりつけた。

「このまま森に入る」と彼は言った。

 馬を連れ、獣道を黙々と進んで行く。森の海は深く、どこまでも続いているように思えた。

 日が暮れると、開けた場所で焚火を起こしながらマクシムはぽつりぽつりと語った。

「私とエマは同じ村の出身でね。彼女は村長の四女で……、私の父親はその屋敷で仕えていて……、彼女が奉公に出ることになったと聞いて、私も一緒に出してもらったんだ」

 マクシムはぐいっとクロエの髪を引っ張った。

「君の髪は旦那様と同じ色だね」

 それからクロエを押し倒すと、その上に覆いかぶさった。

「旦那様は私が君と一緒になりたいと言って、喜んでいたね。あいつらは、私たちが何を思っているかなど、考えもしない」

 頭が落ち葉に押し付けられる。視線をずらすと、横を蟻が這っているのが見えた。
 クロエはせっかくのアメリアの綺麗なドレスが泥だらけになってしまったわ、と思った。
 
 ――私は彼女の綺麗なドレスを着て、森の中で地面に横たわり、それを泥だらけにしている。
 
 クロエは苦笑した。マクシムはその胸元に頭を埋めて呻いた。

「こうやって、エマを連れ出せば良かったんだ。私は――、あの時に」

 その時、がさりと茂みが揺れた。焚き木の赤い光に、薄汚れた服装の男が三人浮かび上がった。

「おいおい、こんなところでお楽しみか」
 
 領地の周りを取り囲む森の中には、周辺の村から追い出されたならず者やが潜んでいる。彼らもその類だった。どすっと鈍い音がしてマクシムの身体からナイフの刃先が飛び出し、クロエの顔にびちゃりと生温かい液体が降りかかった。瞬きしている間に、彼の身体はクロエの上にどさりと力を失って落ちてきた。

「――使用人とお嬢様の逃避行か? そのわりに、年がいってんな、男の方は」

 男の一人がマクシムの頭を掴んで、その身体を横に放った。代わりにクロエにまたがると、髪を掴んで持ち上げた。焚火の灯りに、舌なめずりをする髭を伸ばした男の顔が浮かぶ。

「こりゃいいね。こんな森の中で、肥溜めに鶴か」

「掃き溜めだよ。肥溜めって何だよ、汚ねぇな」

 笑い声が響く。逃れようと身をよじると、もうひとりに両腕を抱えられた。
 足をばたつかせると、立っていた男がクロエの足にナイフを突き立てた。身体がびくっと跳ねる。

「大人しくしろ、クソが」

 クロエは宙を見上げた。「やめて」という言葉が意味を持たないことは知っている。抵抗するのを止め、このまま今までと同じように身を任せるだけ、と力を抜いた。ナイフが抜かれ、どくどくと、そこから自分の身体の熱が逃げていくのを感じた。痛みよりも、すうっと身体が冷たくなっていく感覚が大きかった。

 視線をずらすと、マクシムの身体が草木の茂みの中に転がっているのが見えた。

(どこで間違ったかしら)

 マクシムが最初に自分を触ってきたときに、「やめて」と言えば良かっただろうか。そうすれば、彼はそれより先に進まなかった気もする。そもそも、ヴィクトリアに鞭うたれた時に、イアンに泣きつけば良かったのかもしれない。だけど、黙って、やり過ごしていれば、それでいいと思ったから「はい」しか言わなかった。何かを望む気力はなかったから。

 その時、視界の隅を銀色の塊がかすめた。狼が吠え声がして、目前の男の身体が横に吹き飛んだ。「ぎゃあ」という悲鳴が左右から聞こえ、身体を押さえつける力がなくなった。

 気付くと、目の前に狼の顔があった。その青い瞳と目が合う。
 手を伸ばして、その頬の毛並みを撫でた。ほのかに温かいその感触に懐かしさを感じた。
 
「コディ、――森にいたのね」

 呟くと、その狼は喉の奥から低い唸るような声を出した。

「コディ? 誰だそれは」

 ――コディが喋ってるわ。

 クロエは薄れていく意識の中、ふとおかしくなって笑みをこぼした。
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