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1章 ことのはじまり
1-11.諦め(2)
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クロエがずきん、という頭の芯に響くような痛みで意識を取り戻した。周囲は真っ暗だった。呻き声をあげ、転げまわった。背中が燃えているように熱かった。暗闇にたくさん並んだ煌びやかなドレスが見えた。彼女は誰もいない衣装室にそのまま放置されていた。
ずるずるとドアまで這って行く。ドアノブにしがみついてガチャガチャと回すが、鍵がかかっているのか開かなかった。
「う」
呻いて、扉の前に倒れる。痛い、熱い、以外の言葉は頭に浮かばなかった。
その時ガチャリと扉が開いて、ランプの光が見えた。灯りを持ったひょろりと背の高い、執事服の男――マクシム――がそこに立っていた。
「――ひどい」
マクシムは目を見張った。目の前で呻き声を上げている少女の背中はところどころ皮膚が切れ、血まみれで、炎症を起こしているのか背中全体が真っ赤になっていた。額には青あざができている。彼はクロエを抱き起した。体中が熱くなっていた。
彼は急いでクロエを執務室に運ぶと、従僕に水と布を用意させ、傷口を拭いた。
「――この子は私の侍女よ」
そのとき、事態を聞きつけた寝間着姿のヴィクトリアが暗闇から姿を現した。
「治療をさせないのであれば、旦那様がお戻りになったら報告させて頂きます」
マクシムが食って掛かると、ヴィクトリアは顔をしかめた。
「その前に貴方をクビにするわ。マクシム。貴方の仕事は主人に仕えることでしょう。16年もうちで働いてようやく執事になったっていうのに、その仕事を放棄するのね。もうどこにも行けなくしてやるわよ」
「――結構です。旦那様は私と奥様とどちらを信じるでしょうか。この家の主人は、貴女ではなくイアン様なのですよ、奥様」
ヴィクトリアはぐっと唇を噛んだ。
「――――その代わり、イアンに言ったら、どうなるかよく考えるのね」
しばらくすると、アメリアの診察に呼ばれていた医者がやって来て、クロエの傷を見て驚いた声をあげた。医者は急いで壺に入った塗り薬を持ってきた。ぼんやりとした意識の中で、クロエは背中にひんやりとしたものが広がる感触と、「エマ」と母の名前を呟く低い男の声を聞いた。
***
目が覚めると高い光が窓から差し込んでいた。クロエは起き上がろうとして引きつるような背中の痛みを感じてベッドに倒れこんだ。周囲を見回す。見慣れない部屋だった。
「目が覚めましたか」
柔和な笑顔を浮かべた執事がクロエを見下ろしている。
「――マクシムさん、ありがとうございます」
クロエは彼に頭を下げた。マクシムは首を振った。
「今まで、気づかなくて申し訳なかった。奥様がエマの娘である君に、何もしないはずがないのに」
クロエは遠くで聞いた、母の名前を呟く声は彼の声だったと思った。
「あなたは、母を知っていますか?」
「ああ」
マクシムは視線を床に落とすと、悲し気に微笑んだ。かつて、クロエの母親のエマにピンク色の花を一輪送った従僕の青年は彼だった。
「傷が良くなったら、部屋を割り振るよ。荷物を持ってきなさい。君はこれから、奥様付の侍女ではなく、私の管轄で働いてもらうことになるが、いいかな」
「はい」
クロエは頷くと、頭を下げた。それから、たどたどしく聞いた。
「あの、お嬢様と――コディは」
「お嬢様は、問題ないよ。コディ――あの犬は――」
マクシムはいったん口を閉ざしてから、笑顔を向けた。
「息はあったが、家に置いておくことはできないので、山に放したよ」
クロエは「そうですか」と呟いて視線を伏せた。
(コディは――)
息も絶え絶えだったその姿を思い起こして首を振った。コディは山に放されたんだ、そう思う方が救われる気がした。
しばらくすると、袖から白い包帯をのぞかせたアメリアが部屋にやってきた。
「クロエ、大丈夫?」
瞳に涙を溜めながら、アメリアはクロエの手を握った。
「お母さまのこと、ごめんなさい。でも、もうあんなことはないように、するから、お父さまにお母さまのことを言わないでくれる? きっと、そうしたら、お父さまはお母さまを遠くにやってしまって、私はひとりになっちゃうから」
涙を浮かべるアメリアを見て、クロエは思った。
(あんなやつ、どこか遠くで死ねばいいのに)
しかし、無言で頷いた。それを言って何になるのだろう。自分の立場が悪くなるだけだ。それに、とクロエは思った。
(お姉さまが悲しむのは見たくないわ)
あんな女でも、アメリアにとっては大事な母親なのだろうと言葉を飲み込んだ。
「コディは、森に放されたんですよね」
そう呟くとしばらくの沈黙の後、アメリアは「うん」と頷いた。
ずるずるとドアまで這って行く。ドアノブにしがみついてガチャガチャと回すが、鍵がかかっているのか開かなかった。
「う」
呻いて、扉の前に倒れる。痛い、熱い、以外の言葉は頭に浮かばなかった。
その時ガチャリと扉が開いて、ランプの光が見えた。灯りを持ったひょろりと背の高い、執事服の男――マクシム――がそこに立っていた。
「――ひどい」
マクシムは目を見張った。目の前で呻き声を上げている少女の背中はところどころ皮膚が切れ、血まみれで、炎症を起こしているのか背中全体が真っ赤になっていた。額には青あざができている。彼はクロエを抱き起した。体中が熱くなっていた。
彼は急いでクロエを執務室に運ぶと、従僕に水と布を用意させ、傷口を拭いた。
「――この子は私の侍女よ」
そのとき、事態を聞きつけた寝間着姿のヴィクトリアが暗闇から姿を現した。
「治療をさせないのであれば、旦那様がお戻りになったら報告させて頂きます」
マクシムが食って掛かると、ヴィクトリアは顔をしかめた。
「その前に貴方をクビにするわ。マクシム。貴方の仕事は主人に仕えることでしょう。16年もうちで働いてようやく執事になったっていうのに、その仕事を放棄するのね。もうどこにも行けなくしてやるわよ」
「――結構です。旦那様は私と奥様とどちらを信じるでしょうか。この家の主人は、貴女ではなくイアン様なのですよ、奥様」
ヴィクトリアはぐっと唇を噛んだ。
「――――その代わり、イアンに言ったら、どうなるかよく考えるのね」
しばらくすると、アメリアの診察に呼ばれていた医者がやって来て、クロエの傷を見て驚いた声をあげた。医者は急いで壺に入った塗り薬を持ってきた。ぼんやりとした意識の中で、クロエは背中にひんやりとしたものが広がる感触と、「エマ」と母の名前を呟く低い男の声を聞いた。
***
目が覚めると高い光が窓から差し込んでいた。クロエは起き上がろうとして引きつるような背中の痛みを感じてベッドに倒れこんだ。周囲を見回す。見慣れない部屋だった。
「目が覚めましたか」
柔和な笑顔を浮かべた執事がクロエを見下ろしている。
「――マクシムさん、ありがとうございます」
クロエは彼に頭を下げた。マクシムは首を振った。
「今まで、気づかなくて申し訳なかった。奥様がエマの娘である君に、何もしないはずがないのに」
クロエは遠くで聞いた、母の名前を呟く声は彼の声だったと思った。
「あなたは、母を知っていますか?」
「ああ」
マクシムは視線を床に落とすと、悲し気に微笑んだ。かつて、クロエの母親のエマにピンク色の花を一輪送った従僕の青年は彼だった。
「傷が良くなったら、部屋を割り振るよ。荷物を持ってきなさい。君はこれから、奥様付の侍女ではなく、私の管轄で働いてもらうことになるが、いいかな」
「はい」
クロエは頷くと、頭を下げた。それから、たどたどしく聞いた。
「あの、お嬢様と――コディは」
「お嬢様は、問題ないよ。コディ――あの犬は――」
マクシムはいったん口を閉ざしてから、笑顔を向けた。
「息はあったが、家に置いておくことはできないので、山に放したよ」
クロエは「そうですか」と呟いて視線を伏せた。
(コディは――)
息も絶え絶えだったその姿を思い起こして首を振った。コディは山に放されたんだ、そう思う方が救われる気がした。
しばらくすると、袖から白い包帯をのぞかせたアメリアが部屋にやってきた。
「クロエ、大丈夫?」
瞳に涙を溜めながら、アメリアはクロエの手を握った。
「お母さまのこと、ごめんなさい。でも、もうあんなことはないように、するから、お父さまにお母さまのことを言わないでくれる? きっと、そうしたら、お父さまはお母さまを遠くにやってしまって、私はひとりになっちゃうから」
涙を浮かべるアメリアを見て、クロエは思った。
(あんなやつ、どこか遠くで死ねばいいのに)
しかし、無言で頷いた。それを言って何になるのだろう。自分の立場が悪くなるだけだ。それに、とクロエは思った。
(お姉さまが悲しむのは見たくないわ)
あんな女でも、アメリアにとっては大事な母親なのだろうと言葉を飲み込んだ。
「コディは、森に放されたんですよね」
そう呟くとしばらくの沈黙の後、アメリアは「うん」と頷いた。
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