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1章 ことのはじまり
1-10.諦め(1)
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それから、ヴィクトリアは何か気に障ることがある度に、クロエの背中を鞭で打つようになった。たいていそれは彼女の衣装室で行われた。最初のうちは痛みから瞳が潤んだが、だんだんとそれにも慣れていき、ただ無言で彼女が満足するのを待つようになった。
アメリアはコディを連れて、時々クロエに会いにきた。コディの毛が落ちると、またヴィクトリアに鞭打ちの口実を与えることになると思ったが、それでも彼女とその犬と過ごす短い時間は、クロエにとっては唯一の安息の時だった。ただ、もうアメリアのことは「お姉さま」と呼ぶことはなかった。
イアンが別宅に行き留守にしていた13歳のある日、クロエはヴィクトリアにドレスの一着から糸が出てたという理由で、また背中を鞭で打たれていた。その時、扉の外から犬の鳴き声と、アメリアの声がした。
「お嬢様入ってはいけません!」
扉の外待機していた侍女の焦った声が響く。
「何で? 開けて頂戴。お母さまにお話が」
ガチャリと扉が開き、アメリアが顔を見せた。
「おかあ……」
そこまで口に出して、少女は、母親と、その前に幾筋も赤い線がついた裸の背中を晒して立つクロエを瞳にとらえ、言葉を失った。
「……!」
クロエはアメリアに気付くと、羞恥心からその場にうずくまった。
「アメリア!」
ヴィクトリアは娘を怒りの形相で怒鳴りつけた。それは、アメリアが初めて見る母親の姿だった。彼女は微笑むと、口調を整え、語り掛けるように言った。
「――クロエが粗相をしたから、しつけているのよ。ねえ、クロエ、貴女が悪いことをしたから、鞭で打たれているのよね?」
有無を言わさない圧力を感じ、クロエは頷いた。
アメリアはきょろきょろと母親と腹違いの妹を見比べる。
「出て行きなさい。話は後で聞くわ」
ヴィクトリアは、優し気な口調で重ねるように娘に語り掛ける。
アメリアは「でも」と口ごもった。その瞬間、母親は娘に向かって怒鳴った。
「アメリア! お母様は、貴女に出て行きなさいと言っているのよ」
娘はびくりと身体を震わせた。そのとき、扉とアメリアのすき間から、コディが部屋に入り込んだ。灰色の猟犬は、一声吠えるとそのままヴィクトリアに飛び掛かった。自分に向かってくる牙に気がついた彼女は悲鳴を上げる。
「お母さま!」
アメリアはそう叫ぶと、母親と犬の間に飛び出した。母親に向かった牙は割り込んできた娘の腕に突き刺さる。クロエは顔を手で覆った。
「アメリアぁ」
ヴィクトリアの悲痛な声が響く。クロエが手の覆いを外すと、そこには洋服の袖を血で染めたアメリアが興奮状態のコディを抱えた姿があった。
「―――誰か! アメリアが!」
「お嬢様! 誰か!!」
侍女は駆け寄ると、近くにあった椅子を振り上げコディに向かって振り下ろした。
ぎゃん!と鳴き声が響く。侍女は何度も椅子でその犬を殴った。
ぱたぱたと足音が響く。声と悲鳴を聞きつけた執事と使用人が数人部屋に駆け付けた。呆然とその様子を見ていた下着姿のクロエは、近づいてくる足音を聞いて咄嗟に並べられたヴィクトリアのドレスの中に隠れた。
「奥様、何があったのですか」
執事はヴィクトリアに抱かれたアメリアに駆け寄った。
「いいから! この子に手当を!」
そこで、ようやく侍女はコディに向かって椅子を振り下ろすのを止めた。大きく肩で息をするその侍女の足元で、灰色の犬は体中から血を流し、ぴくぴくと痙攣していた。それでも、頭を持ち上げ、ドレスの間にうずくまるクロエを青い瞳で見つめた。
「コディ」
クロエが名前を呟くと、コディは小さく鼻を鳴らした。
執事は従僕とメイドに指示を出し、アメリアとコディを外に運ばせた。それから彼は、衣装の間から顔を覗かせたクロエを見て、眉間に皺を寄せてヴィクトリアを見た。
「奥様、その子――クロエは」
「――マクシム、アメリアをはやくお医者様に見せて頂戴」
マクシムと呼ばれた執事は言い淀んだ。
「しかし」
「早く。この子は私の侍女よ。貴方が何か用?」
「――奥様」
「早く、アメリアを、医者に見せて」
ヴィクトリアは執事を睨むと、一言ずつ強く言った。執事は、もう一度クロエを見てから辛そうに顔を背け、部屋を出て行った。侍女にも外に出るように命じて、バタンと扉が閉まる。部屋にはヴィクトリアとクロエだけになった。
「クロエ、出てきなさい」
言いながら、ヴィクトリアはクロエの髪を掴んで、外へ引っ張り出した。そのまま床に頭を叩きつけられる。
「――あんたのせいで、アメリアが!」
鞭の音が何度も響いて、這いつくばった背中に、鋭い痛みが走った。
「私の、せい?」
痛みで朦朧とする頭で繰り返すと、ヴィクトリアはもう一度髪の毛を掴んでクロエの額を床に叩きつけた。
「使用人は、『はい』以外は口に出すんじゃないわよ」
もう一度、背中に痛みが走る。
「――はい――、奥様――」
朦朧とする意識の中でクロエはぼんやりと呟いた。
アメリアはコディを連れて、時々クロエに会いにきた。コディの毛が落ちると、またヴィクトリアに鞭打ちの口実を与えることになると思ったが、それでも彼女とその犬と過ごす短い時間は、クロエにとっては唯一の安息の時だった。ただ、もうアメリアのことは「お姉さま」と呼ぶことはなかった。
イアンが別宅に行き留守にしていた13歳のある日、クロエはヴィクトリアにドレスの一着から糸が出てたという理由で、また背中を鞭で打たれていた。その時、扉の外から犬の鳴き声と、アメリアの声がした。
「お嬢様入ってはいけません!」
扉の外待機していた侍女の焦った声が響く。
「何で? 開けて頂戴。お母さまにお話が」
ガチャリと扉が開き、アメリアが顔を見せた。
「おかあ……」
そこまで口に出して、少女は、母親と、その前に幾筋も赤い線がついた裸の背中を晒して立つクロエを瞳にとらえ、言葉を失った。
「……!」
クロエはアメリアに気付くと、羞恥心からその場にうずくまった。
「アメリア!」
ヴィクトリアは娘を怒りの形相で怒鳴りつけた。それは、アメリアが初めて見る母親の姿だった。彼女は微笑むと、口調を整え、語り掛けるように言った。
「――クロエが粗相をしたから、しつけているのよ。ねえ、クロエ、貴女が悪いことをしたから、鞭で打たれているのよね?」
有無を言わさない圧力を感じ、クロエは頷いた。
アメリアはきょろきょろと母親と腹違いの妹を見比べる。
「出て行きなさい。話は後で聞くわ」
ヴィクトリアは、優し気な口調で重ねるように娘に語り掛ける。
アメリアは「でも」と口ごもった。その瞬間、母親は娘に向かって怒鳴った。
「アメリア! お母様は、貴女に出て行きなさいと言っているのよ」
娘はびくりと身体を震わせた。そのとき、扉とアメリアのすき間から、コディが部屋に入り込んだ。灰色の猟犬は、一声吠えるとそのままヴィクトリアに飛び掛かった。自分に向かってくる牙に気がついた彼女は悲鳴を上げる。
「お母さま!」
アメリアはそう叫ぶと、母親と犬の間に飛び出した。母親に向かった牙は割り込んできた娘の腕に突き刺さる。クロエは顔を手で覆った。
「アメリアぁ」
ヴィクトリアの悲痛な声が響く。クロエが手の覆いを外すと、そこには洋服の袖を血で染めたアメリアが興奮状態のコディを抱えた姿があった。
「―――誰か! アメリアが!」
「お嬢様! 誰か!!」
侍女は駆け寄ると、近くにあった椅子を振り上げコディに向かって振り下ろした。
ぎゃん!と鳴き声が響く。侍女は何度も椅子でその犬を殴った。
ぱたぱたと足音が響く。声と悲鳴を聞きつけた執事と使用人が数人部屋に駆け付けた。呆然とその様子を見ていた下着姿のクロエは、近づいてくる足音を聞いて咄嗟に並べられたヴィクトリアのドレスの中に隠れた。
「奥様、何があったのですか」
執事はヴィクトリアに抱かれたアメリアに駆け寄った。
「いいから! この子に手当を!」
そこで、ようやく侍女はコディに向かって椅子を振り下ろすのを止めた。大きく肩で息をするその侍女の足元で、灰色の犬は体中から血を流し、ぴくぴくと痙攣していた。それでも、頭を持ち上げ、ドレスの間にうずくまるクロエを青い瞳で見つめた。
「コディ」
クロエが名前を呟くと、コディは小さく鼻を鳴らした。
執事は従僕とメイドに指示を出し、アメリアとコディを外に運ばせた。それから彼は、衣装の間から顔を覗かせたクロエを見て、眉間に皺を寄せてヴィクトリアを見た。
「奥様、その子――クロエは」
「――マクシム、アメリアをはやくお医者様に見せて頂戴」
マクシムと呼ばれた執事は言い淀んだ。
「しかし」
「早く。この子は私の侍女よ。貴方が何か用?」
「――奥様」
「早く、アメリアを、医者に見せて」
ヴィクトリアは執事を睨むと、一言ずつ強く言った。執事は、もう一度クロエを見てから辛そうに顔を背け、部屋を出て行った。侍女にも外に出るように命じて、バタンと扉が閉まる。部屋にはヴィクトリアとクロエだけになった。
「クロエ、出てきなさい」
言いながら、ヴィクトリアはクロエの髪を掴んで、外へ引っ張り出した。そのまま床に頭を叩きつけられる。
「――あんたのせいで、アメリアが!」
鞭の音が何度も響いて、這いつくばった背中に、鋭い痛みが走った。
「私の、せい?」
痛みで朦朧とする頭で繰り返すと、ヴィクトリアはもう一度髪の毛を掴んでクロエの額を床に叩きつけた。
「使用人は、『はい』以外は口に出すんじゃないわよ」
もう一度、背中に痛みが走る。
「――はい――、奥様――」
朦朧とする意識の中でクロエはぼんやりと呟いた。
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