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「ただ、俺がイエローストーン国立公園の話をしたのは、あくまで環境保護と生態系の観念から見れば最善だと思えるケースだが……。畜産業を営む者や、周辺に住む者にしてみればオオカミの再導入なんて、人間にとって害獣や脅威を外部から持ち込むのは、近隣住民の生活や安全を脅かす行為だと非難されても仕方ない提案だろう」

「うん……。そうよね」

 頷きながら同意する。私はここに住んでいないからオオカミを再導入して生態系を元に戻せば解決すると気軽に言えるけど、ここで生活している人にしてみたら部外者が余計な口を挟むなと怒られても無理ない提案だろう。私が肩を落としていると、兄は白い息を深く吐き出し周囲の山林を見渡した。

「ただ、北海道内におけるエゾ鹿との衝突による自動車の交通事故はここ五年で毎年、二千件前後も発生している」

「毎年、二千件!? そんなに鹿と自動車の交通事故って多かったの!?」

「ああ。平成29年にいたっては2430件のエゾ鹿との衝突事故が起こっている」

「2430件!? 本当にエゾ鹿と衝突して起こった交通事故の件数なの? 北海道内であった、普通の交通事故じゃなくて……?」

「間違いなく、エゾ鹿と自動車との衝突事故だけの件数だ。これは北海道警察がエゾ鹿による交通事故の記録をはじめた平成16年以降、最多の数字でもある。そして鹿と衝突した際に自動車を運転していた人間や同乗者が負傷したり最悪、死亡するケースもある。そして、自動車と衝突したエゾ鹿も負傷し死亡するケースも多々ある」

「そんなにも、エゾ鹿と自動車の交通事故が起こってたなんて知らなかった……」

 呆然としながら呟くと兄の目が鋭く細められ、首を横に振った。

「自動車事故だけじゃない」

「え?」

「事故は鉄道でも頻発している。エゾ鹿と電車の衝突事故も毎年、2000件以上起こっている」

「鉄道でも2000件以上の事故が!?」

 自動車事故だけでも毎年、二千件以上と聞いて驚いていたのに鉄道でも二千件以上ということは自動車事故と鉄道事故を合わせれば年間、四千件以上のエゾ鹿による衝突事故が起こっているということだ。あまりの数の多さに愕然とした。

「ああ、これは実際にエゾ鹿と電車が接触してしまった件数で、線路内にエゾ鹿が侵入して衝突事故が起こりかけるケースはもっと数が多い……。電車の運転手は毎日、線路に侵入しているエゾ鹿を撥ねないよう線路上に鹿が侵入しているのを視認すれば、すぐに警笛を鳴らして注意喚起しながら電車の速度を落として徐行運転したりしているが、多すぎる鹿との衝突事故を完全に防ぎきれていないのが現状だ。さらに電車が撥ねてしまった鹿の死骸を目当てにオオワシなどが線路わきに集まることで、死骸に群がっていた猛禽類が電車に撥ねられ死亡するという二次被害も起こっている」

「なんでそんな事故が? オオワシは絶滅危惧種なのに……。防げないの?」

「線路わきに移動された鹿の死骸は、運転手が鉄道会社の列車運行を統括している指令に連絡しても、保線区の作業員によって回収されるまで丸一日から二日ほど時間がかかる。その間、野生の鳥獣が死骸に群がり夢中で食っているため、間近に列車が近づくまで気づけず、気づいて逃げようと飛んだ時には間に合わず列車に衝突するというケースがたびたびあるんだ」

「電車でも鳥獣が死んでるなんて……」

「カラスなどは比較的、身体が軽いからとっさの時でも即座に上空へ飛び立つことができるが、オオワシなど大型の猛禽類は身体が重いからすぐに上空へ逃げることができない。飛び立った後、しばらくの間は低空を飛んでいる状態になる。だから大型の猛禽類は列車が近づいていることに気付いてから逃げ出そうとしても、上空にいくのが間に合わず列車と接触して死亡する事故が起こってしまうんだ」

「それにしても、なんで危ないのに鹿は線路に侵入するの?」

「エゾ鹿が数多く生息している国有林などのすぐ横に線路が敷かれている上、鹿は線路を挟んだ縄張り、エサ場とねぐらを定期的に移動しながら生活している場合がある。そして、エゾ鹿には鉄分を摂取するために線路にひかれているレールを舐めるという習性がある。電車が通過するたびに車輪とレールが摩耗することでレール付近に鉄粉が付着し、鉄分を摂取しやすいためエゾ鹿も危険を犯して線路に侵入しているんだろう」

「鹿肉の鉄分が牛や豚や鶏よりも多いのって、そういう風に鹿が自分から積極的に鉄分摂取していたのも関係してたのね……」
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