上 下
57 / 62

57

しおりを挟む
「鉛弾をなくせば良いって分かりきってるのに……。生態系を元に戻せば少なくとも環境破壊の状況は改善する可能性が高いって分かってるのに……。私には何もできない……!」

「おまえが鉛弾をなくしたい。生態系を元に戻したいと考えたことは、この広い世界の中で小さな蝶が一度、羽を動かした程度の物だ」

「そんな……」

 兄の冷淡な言葉に私はうつむき唇を噛んだ。まだ学生に過ぎない無力な自分が鉛弾や環境について現状を変えるべきだと思ったところで、何も変えられる訳がない。小さな蝶が羽を動かしたからって、世の中は何も変わらないのだ。私は自分の無力さが情けなくて涙が込み上げてきた。

 その時、正面から強い突風が吹いてきて思わず目を閉じた。雪山を吹き抜ける刺すような冷たい風が顔や耳、首元から体温を奪っていった。涙を流した頬が北風に冷やされ痛いほどだと思った時、首元に驚く程のぬくもりを感じた。まぶたを開けて見ると眼前の兄が自分の巻いていた白いカシミアのマフラーを外して、私の首元を温かく包み込んでくれていた。

「……『バタフライ効果』という言葉がある」

「え?」

「遠い場所で起こった『蝶の羽ばたき』は嵐や竜巻になるか? というカオス理論における予測困難性を表した言葉だ」

「悪いけど何を言ってるのか、全く分からないわ……」

 真面目な顔で脈絡もなく『カオス理論』などという聞きなれない単語を持ちだし、語り始めた兄に当惑してしまう。

「つまり……。おまえが今この場所にいることは、本来ありえないことなんだ。神楽坂の探偵社に沖原沙織が訪ねて来た時、偶然おまえが居合わせ北海道行きが決定した。そしてここで 以津真天イツマデと出会って、鉛弾や鹿の食害について知ることも本当ならなかった」

「うん。それは分かるわ」

「おまえが鉛弾やエゾ鹿の増加による環境破壊について知り、このまま現状を放置していてはいけないと思った時点で蝶の羽ばたきは始まっているんだ。そしてその羽ばたきは本来なら、起こることのなかった小さな風をすでに起こしている」

「私が思ったことで、羽ばたきが嵐や竜巻になるの?」

「今、心の中で少し思った程度ではどうにもならないだろう……。だが、ずっと思い続けて知ったことや感じたことを他の誰かに話し、それを聞いた人間が同じような思いを抱き、それが連鎖していって多数の人間が同じように現状のままではいけないと考えれば、小さな蝶の羽ばたきは強い風になり将来、嵐や竜巻になっていく可能性があるはずだ」

「うん……。うん……!」

 私は両目から溢れて来る涙を手の甲でぬぐいながら何度も頷いた。そうだ。今ちょっと思っただけでは、何も変わる訳がない。でも私が知った鉛弾のこと、鉛毒や鉛中毒の恐ろしさ、鉛弾の条例がこのままでは充分ではないということ。

 北海道のみ鉛弾を禁止するだけでは抑止効果が弱いということ。エゾ鹿の増加問題に歯止めをかけないと環境破壊も続いてしまうということ。このままではオオワシやオジロワシのような絶滅危惧種の数が減る一方だということ。

 私が知ったことや感じたことを他の人に伝えて、他の人も同じように思ってくれれば遠い将来になるかも知れないけど、事態は今より良くなる可能性があるんだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

キャンピングカーで往く異世界徒然紀行

タジリユウ
ファンタジー
《第4回次世代ファンタジーカップ 面白スキル賞》 【書籍化!】 コツコツとお金を貯めて念願のキャンピングカーを手に入れた主人公。 早速キャンピングカーで初めてのキャンプをしたのだが、次の日目が覚めるとそこは異世界であった。 そしていつの間にかキャンピングカーにはナビゲーション機能、自動修復機能、燃料補給機能など様々な機能を拡張できるようになっていた。 道中で出会ったもふもふの魔物やちょっと残念なエルフを仲間に加えて、キャンピングカーで異世界をのんびりと旅したいのだが… ※旧題)チートなキャンピングカーで旅する異世界徒然紀行〜もふもふと愉快な仲間を添えて〜 ※カクヨム様でも投稿をしております

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる

よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です! 小説家になろうでも10位獲得しました! そして、カクヨムでもランクイン中です! ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。 いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。 欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・ ●●●●●●●●●●●●●●● 小説家になろうで執筆中の作品です。 アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。 現在見直し作業中です。 変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。

婚約者の浮気相手が子を授かったので

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ファンヌはリヴァス王国王太子クラウスの婚約者である。 ある日、クラウスが想いを寄せている女性――アデラが子を授かったと言う。 アデラと一緒になりたいクラウスは、ファンヌに婚約解消を迫る。 ファンヌはそれを受け入れ、さっさと手続きを済ませてしまった。 自由になった彼女は学校へと戻り、大好きな薬草や茶葉の『研究』に没頭する予定だった。 しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。 彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。 ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。 まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。 ※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。 ※完結しました

異世界日本軍と手を組んでアメリカ相手に奇跡の勝利❕

naosi
歴史・時代
大日本帝国海軍のほぼすべての戦力を出撃させ、挑んだレイテ沖海戦、それは日本最後の空母機動部隊を囮にアメリカ軍の輸送部隊を攻撃するというものだった。この海戦で主力艦艇のほぼすべてを失った。これにより、日本軍首脳部は本土決戦へと移っていく。日本艦隊を敗北させたアメリカ軍は本土攻撃の中継地点の為に硫黄島を攻略を開始した。しかし、アメリカ海兵隊が上陸を始めた時、支援と輸送船を護衛していたアメリカ第五艦隊が攻撃を受けった。それをしたのは、アメリカ軍が沈めたはずの艦艇ばかりの日本の連合艦隊だった。   この作品は個人的に日本がアメリカ軍に負けなかったらどうなっていたか、はたまた、別の世界から来た日本が敗北寸前の日本を救うと言う架空の戦記です。

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

チート薬学で成り上がり! 伯爵家から放逐されたけど優しい子爵家の養子になりました!

芽狐
ファンタジー
⭐️チート薬学3巻発売中⭐️ ブラック企業勤めの37歳の高橋 渉(わたる)は、過労で倒れ会社をクビになる。  嫌なことを忘れようと、異世界のアニメを見ていて、ふと「異世界に行きたい」と口に出したことが、始まりで女神によって死にかけている体に転生させられる! 転生先は、スキルないも魔法も使えないアレクを家族は他人のように扱い、使用人すらも見下した態度で接する伯爵家だった。 新しく生まれ変わったアレク(渉)は、この最悪な現状をどう打破して幸せになっていくのか?? 更新予定:なるべく毎日19時にアップします! アップされなければ、多忙とお考え下さい!

処理中です...