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第六章

第二百八十六話 覚悟

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 五分か、十分か、クレシェンドは案山子となったフォルティシモを殴り続けた。フォルティシモにもダメージが入っているため、時々血を流す。クレシェンドの拳が赤く濡れていた。

 クレシェンドは殴り疲れたか、飽きたか、拳を下げた。

「やはり人間を理解できません。破壊衝動を楽しむなど、度外視難い愚かな生命。神々の創りし失敗作に違わない」
「俺からすれば、棒立ちの敵を嬲るお前のが、醜悪に見えるがな」

 クレシェンドはインベントリから取り出したタオルで拳を拭き、今まで通りの営業スマイルを浮かべる。

「これは私の正統な権利です。ああ、もちろん憲法や法律などと言う、人間が作った不完全で身勝手な法ではありません。神々の創りし大いなる自然の摂理です」
「人質を容認するのが自然の摂理? 初めて聞くな。どこの邪神だ? 名前を教えてくれ。抹殺リストの最上段に加えておく」

 クレシェンドは笑いもせずにタオルをフォルティシモへ投げつけた。

「聖典でさえ語られない、人間の最も醜悪な罪を犯したあなたが邪神と称するなど、無知蒙昧にもほどがありますね」
「お前が何を言いたいかは知らないが、罪なき者はいない、一人もいないというのが聖書の見解らしいぞ」
「それは見解の相違ですね。いえ、ある意味で相違はないかも知れません。そして罪を贖う方法は死しかありません」
「間違いなく相違だ。お前の言っている意味が分からないから、理解し合えないという意味でな。もう少し俺に理解させる努力をしたらどうだ? 一つだけ教えてやる。本当に頭の良い奴は、決して思わせぶりな言葉を使わないし、相手の理解に合わせた言葉を使う。何故なら、相互理解こそがコミュニケーションの絶対の基本だからだ。お前は馬鹿だな。ラナリアを見習え」

 なおフォルティシモの発言は、掲示板でコミュ障魔王と揶揄され続けたフォルティシモの見解であり、思わせぶりなことばかり言うクレシェンドへの文句である。

 フォルティシモはクレシェンドと会話をしながらも、己の思考をまとめていく。

 フォルティシモは異世界ファーアースの【隷従】システムについて、徹底的に調べていた。

 初めてキュウと出会った日、情報ウィンドウに新しい従者のタブが増えた。異世界ファーアースの【隷従】システムは、VRMMOファーアースオンラインとは違う法則システムで動いている。ならば最初から同じだとは考えていない。

 VRMMOファーアースオンラインでは他人の従者や従魔を奪うことは不可能だったが、それが異世界ファーアースでも同じかどうかは特に重要だ。キュウやフォルティシモの従者たちが誰かに奪われるなど、絶対に容認できない。だからそれだけは惜しみなくリソースを割いて調査した。

 今、異世界ファーアースの【隷従】システムに最も詳しいのはクレシェンドではない。

 フォルティシモだ。

 フォルティシモは目を瞑り、溜息を一つ吐く。フィーナたちが何者かのプレイヤーと出会って帰って来ないと聞いた時から、【隷従】によって奴隷にされた可能性は考慮していた。

 つまり奴隷化は作戦の前提に組み込まれている。

 テロリストがクレシェンドやデーモンという敵とは思っていなかったので、むしろ【隷従】こそがもっとも警戒するべきだった。そのためフォルティシモの知識を総動員して、無数の対応作戦を立ててある。

 その対応作戦の中には、敵が奴隷を単なる人質ではなく絶対服従の命令によって操った場合の想定もある。最低に近い作戦が。

 もしもの場合は実行すると、セフェールへ伝えてある。だがフォルティシモの考える作戦には覚悟が必要で、覚悟を決めるのに時間が掛かってしまった。

 フォルティシモは目を開いた。

 覚悟が決まった。

静寂キエト・之死《ムエルテ》」

 そして攻撃を開始する。

 フォルティシモの攻撃の対象は誰であろうフィーナであり、彼女を瞬時に絶命させた。

 フォルティシモはフィーナを即死させる攻撃をした。クレシェンドではなくフィーナを攻撃したのだ。

 彼女を見捨てた訳ではない。フォルティシモの考えた最低の作戦とは、命令のトリガーとなる“クレシェンドが攻撃される時”、フィーナを“死体”にしておくことだった。



 【隷従】とは絶対服従と絶対許諾の両方の側面を持っているものの、奴隷本人ができないことは何を命令してもできない。

 例えばスキルを持たない人間に水の上を歩けと命令しても、水の上を歩く最大限の努力はするけれど、結局はそのまま沈んでいく。当初キュウが【料理】ができなかったのもこれに当たる。

 これが肉体的限界。

 例えば現代リアルワールドの知識を持たない異世界ファーアースの人間に、最新AIに必要な学習データを学習させるためのソースコードを書けと言っても、何が何だか分からずに奴隷は何もしない。

 これが知識的限界。

 例えば奴隷本人が赤ん坊の頃、最初に発した言葉は何か答えろと命令しても、奴隷は答えることができない。奴隷本人が記憶できる範囲でのみ命令を行使するのであり、奴隷本人が知らない事柄は命令されていても実行しない。

 これが記憶的限界。

 例えば奴隷の目の前に箱を置いて、箱の中身を答えろと命令したとする。奴隷はそのまま答えられないため、箱を開けて内容を確認しようとする。

 これが知覚的限界。

 総合して。クレシェンドがした自害命令は、“クレシェンドが攻撃される時”を奴隷たちが知覚しなければ発動しない。

 それならば死体にするまでいかずとも、煙幕で視界を塞ぐとか、気絶させるだけとか、他にも方法があるように見える。だが残念ながらVRMMOファーアースオンラインのシステムがそれを許してくれない。

 フォルティシモがキュウのHPが一ポイントでも減ったらアラートが鳴るように設定しているように、HPの増減を主人や従者へ報せるためのシステムがあるのだ。クレシェンドのHPが一ポイントでも減ったら従者たちに報せが届くようにしている可能性があるため、中途半端な行動不能で留める訳にはいかない。

 戦闘後にセフェールが【蘇生】させるものの、フィーナをフォルティシモ自身の手で殺すことに、かなりの覚悟が必要だった。

 だがフォルティシモは実行したのだ。



「守るために、人質を殺す? 狂気としか思えませんね、お客様っ」
「その人質を取った奴にだけは、言われたくないな」

 フォルティシモは異世界ファーアースへやって来た最初の日に見た、フィーナの顔を思い出す。

 思えばフォルティシモがここ異世界ファーアースが現実だと知っても戦えたのは、彼女の覚悟のお陰だった。

 彼女は、本当の自己犠牲を以て、他の誰かを助けようとしていた。だから今、フォルティシモは彼女の命を奪って、彼女と彼女のパーティメンバーを助ける。あの日の彼女を思い出したから、その覚悟が持てた。

 フォルティシモはクレシェンドを睨み付ける。こいつは絶対に許さない。異世界ファーアースへ来てから二人目の、フォルティシモにとって絶対に許しがたい“敵”だ。

 ここで最強のフォルティシモの力を使い、クレシェンドをPKする。
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