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第1章 長州の風雲児
4 法光院の肝試し
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亥の初刻(午後九時)、法光院の前。
待ち合わせの時刻であった戌の正刻から半刻(約一時間)が過ぎていた。
漆黒の闇が辺りを覆い、真冬の冷たさが体を突き刺す中、秀三郎は姿を現さない晋作を待っていた。
「遅いのう……晋作は一体何しちょるんか……」
手に持っている提灯の蝋燭も半分溶けてしまっているが、晋作はまだ来る気配が一向にない。
秀三郎が諦めて家に帰ろうかと思い始めたとき、片手に提灯を持ちながら何かを担いでいる一人の少年らしき姿が近づいてくるのが見えた。
「遅くなってすまぬ! 寺に忍び込むための梯子を持ち運ぶのに苦労してな……それに家の者の目を盗んで屋敷を抜け出すのにも手間取ってしもうた……」
担いでいた七尺近くの大きさの梯子を脇に置いた後、息を切らしながら晋作が言った。
「家の者とは御父上のことか? それとも爺様のことか?」
秀三郎は晋作の身内の中で、特に父親と祖父が厳格なことを聞いていたので、もしやと思い尋ねてみる。
「父上じゃ! 爺様は今大阪に在勤しておる故、萩には居らん」
晋作は息を整えながら返答した。
「晋作の家もいろいろ大変じゃの! では夜も更けておるけぇ、早う寺の中へ忍び込もうっちゃ!」
その言葉に従い、晋作は刻限を過ぎて門が閉ざされた法光院の塀に、七尺の梯子を架けて中へと忍び込み、秀三郎もその後に続いた。
寺の者がみな寝静まったためか、中は静寂そのものであり、聞こえるのは晋作と秀三郎のかすかな足音だけだ。
彼らは提灯の明かりを頼りに寺の中を進んでゆくと、例の天狗の面がかかっている金毘羅社の前にたどり着いた。
その天狗の面は血のように真っ赤な朱塗りで、口髭や頬髭をぼうぼうとはやし、人をも呑み込めそうなほどに大きな口を開けていた。また金色の目は、まるで盗賊の如く忍び込んだ二人の少年を睨み付けるかのように光っている。
「噂に違わずなんとまあ不気味な面なことか」
秀三郎は面を見てぶるっと肩を震わせながらつぶやく。
「普段からこの面は見慣れちょったが夜に見るとまた違う趣があるのう!」
晋作は感心したように言うと続けて、
「じゃが夜になると天狗の面が笑うなどというのはやはり単なる法螺に過ぎんかったか……」
と言って少し残念そうな素振りを見せた。
「おめぇ等、ここで何しちょるんじゃ?」
後ろから突然声が聞こえてきたので晋作と秀三郎が振り向くと、彼らとそう歳のかわらぬ少年が寝ぼけ眼で立っているのが確認できた。
「お前は確かわしがあの侍と揉めちょったときにその場におった奴じゃな?」
晋作は例の侍といざこざを起こした時、母親とともにその一部始終を見ていたみすぼらしい身なりの百姓の少年がいたことを思い出した。
「わしは松本村の林利助じゃ! この寺の住職とは親戚ゆえ昨日から一時的に預けられてここにおる!」
晋作と再び会えた喜びで興奮したのか、利助はすっかり目が覚めている。
「じゃが何故、かような真夜中に忍び込んできたんじゃ? まさか賽銭でも盗みにきたんか?」
まだ萩に来て日が浅く天狗の面についても何も知らなかったため、利助は再会を喜びながらも、なぜ晋作たちが忍び込んできたのかが不思議で仕方がない。
「無礼な! わしらは賽銭を盗みにここに参ったのではないっちゃ! 夜になるとこの寺の天狗の面が笑うという噂が誠か否か、確かめるためにここに来たんじゃ!」
憤慨しながら晋作が利助の問いに対して答えた。
「それはすまんかった! 許してくれろ! まさかこの拝殿の天狗の面にそねーな噂があったとは知らんかったんじゃ!」
利助は慌てて謝罪をすると気を取り直して、
「それにしてもおぬしは本当に大したものじゃのう! お侍様を負かしたり、噂の真偽を確かめるためだけに真夜中に寺に忍び込んだり、一体何者なのじゃ?」
と再び質問をぶつけた。利助はますます晋作のことが気になって仕方ないといった様子でいる。
「わしは高杉晋作じゃ! 高杉家は元就公以来、代々毛利家に仕えてきた武家の家柄なんじゃ!」
高杉家は毛利元就が安芸国の吉田郡山城の主であったころに毛利氏に仕えはじめ、関ヶ原の戦いに負けて毛利氏が防長の二ヶ国に押し込められて以降も、歴代の高杉家当主たちは重役の一人として、長州藩政に多大な力を発揮し続けてきた。
利助に賞賛されてすっかりその気になったのだろうか、晋作は名前だけでなく自らの誇りとする家柄のこともつい口走ってしまった。
「晋作! 寺の者に名を名乗ったりしてどねーする? 一部始終を密告されでもしよったら一大事じゃぞ!」
有頂天になった晋作を咎めるように秀三郎が言うと続けて、
「それにあまり長居をすると他の者にも気付かれる可能性があるけぇ、早う寺の外に出たほうがええ!」
と言って焦る素振りを見せ始めた。
「大丈夫じゃ! 利助はわしらの事を他言したりはせんよ!」
根拠はないが、晋作は利助が誰かに密告するような真似をしないことを直感で感じている。
「じゃが夜も大分更けてきたけぇ、そろそろこの寺から立ち去ったほうがええのは確かじゃ! さらばじゃ、利助! また会おう!」
晋作は利助に別れを告げると、秀三郎ともに闇夜に消えた。
待ち合わせの時刻であった戌の正刻から半刻(約一時間)が過ぎていた。
漆黒の闇が辺りを覆い、真冬の冷たさが体を突き刺す中、秀三郎は姿を現さない晋作を待っていた。
「遅いのう……晋作は一体何しちょるんか……」
手に持っている提灯の蝋燭も半分溶けてしまっているが、晋作はまだ来る気配が一向にない。
秀三郎が諦めて家に帰ろうかと思い始めたとき、片手に提灯を持ちながら何かを担いでいる一人の少年らしき姿が近づいてくるのが見えた。
「遅くなってすまぬ! 寺に忍び込むための梯子を持ち運ぶのに苦労してな……それに家の者の目を盗んで屋敷を抜け出すのにも手間取ってしもうた……」
担いでいた七尺近くの大きさの梯子を脇に置いた後、息を切らしながら晋作が言った。
「家の者とは御父上のことか? それとも爺様のことか?」
秀三郎は晋作の身内の中で、特に父親と祖父が厳格なことを聞いていたので、もしやと思い尋ねてみる。
「父上じゃ! 爺様は今大阪に在勤しておる故、萩には居らん」
晋作は息を整えながら返答した。
「晋作の家もいろいろ大変じゃの! では夜も更けておるけぇ、早う寺の中へ忍び込もうっちゃ!」
その言葉に従い、晋作は刻限を過ぎて門が閉ざされた法光院の塀に、七尺の梯子を架けて中へと忍び込み、秀三郎もその後に続いた。
寺の者がみな寝静まったためか、中は静寂そのものであり、聞こえるのは晋作と秀三郎のかすかな足音だけだ。
彼らは提灯の明かりを頼りに寺の中を進んでゆくと、例の天狗の面がかかっている金毘羅社の前にたどり着いた。
その天狗の面は血のように真っ赤な朱塗りで、口髭や頬髭をぼうぼうとはやし、人をも呑み込めそうなほどに大きな口を開けていた。また金色の目は、まるで盗賊の如く忍び込んだ二人の少年を睨み付けるかのように光っている。
「噂に違わずなんとまあ不気味な面なことか」
秀三郎は面を見てぶるっと肩を震わせながらつぶやく。
「普段からこの面は見慣れちょったが夜に見るとまた違う趣があるのう!」
晋作は感心したように言うと続けて、
「じゃが夜になると天狗の面が笑うなどというのはやはり単なる法螺に過ぎんかったか……」
と言って少し残念そうな素振りを見せた。
「おめぇ等、ここで何しちょるんじゃ?」
後ろから突然声が聞こえてきたので晋作と秀三郎が振り向くと、彼らとそう歳のかわらぬ少年が寝ぼけ眼で立っているのが確認できた。
「お前は確かわしがあの侍と揉めちょったときにその場におった奴じゃな?」
晋作は例の侍といざこざを起こした時、母親とともにその一部始終を見ていたみすぼらしい身なりの百姓の少年がいたことを思い出した。
「わしは松本村の林利助じゃ! この寺の住職とは親戚ゆえ昨日から一時的に預けられてここにおる!」
晋作と再び会えた喜びで興奮したのか、利助はすっかり目が覚めている。
「じゃが何故、かような真夜中に忍び込んできたんじゃ? まさか賽銭でも盗みにきたんか?」
まだ萩に来て日が浅く天狗の面についても何も知らなかったため、利助は再会を喜びながらも、なぜ晋作たちが忍び込んできたのかが不思議で仕方がない。
「無礼な! わしらは賽銭を盗みにここに参ったのではないっちゃ! 夜になるとこの寺の天狗の面が笑うという噂が誠か否か、確かめるためにここに来たんじゃ!」
憤慨しながら晋作が利助の問いに対して答えた。
「それはすまんかった! 許してくれろ! まさかこの拝殿の天狗の面にそねーな噂があったとは知らんかったんじゃ!」
利助は慌てて謝罪をすると気を取り直して、
「それにしてもおぬしは本当に大したものじゃのう! お侍様を負かしたり、噂の真偽を確かめるためだけに真夜中に寺に忍び込んだり、一体何者なのじゃ?」
と再び質問をぶつけた。利助はますます晋作のことが気になって仕方ないといった様子でいる。
「わしは高杉晋作じゃ! 高杉家は元就公以来、代々毛利家に仕えてきた武家の家柄なんじゃ!」
高杉家は毛利元就が安芸国の吉田郡山城の主であったころに毛利氏に仕えはじめ、関ヶ原の戦いに負けて毛利氏が防長の二ヶ国に押し込められて以降も、歴代の高杉家当主たちは重役の一人として、長州藩政に多大な力を発揮し続けてきた。
利助に賞賛されてすっかりその気になったのだろうか、晋作は名前だけでなく自らの誇りとする家柄のこともつい口走ってしまった。
「晋作! 寺の者に名を名乗ったりしてどねーする? 一部始終を密告されでもしよったら一大事じゃぞ!」
有頂天になった晋作を咎めるように秀三郎が言うと続けて、
「それにあまり長居をすると他の者にも気付かれる可能性があるけぇ、早う寺の外に出たほうがええ!」
と言って焦る素振りを見せ始めた。
「大丈夫じゃ! 利助はわしらの事を他言したりはせんよ!」
根拠はないが、晋作は利助が誰かに密告するような真似をしないことを直感で感じている。
「じゃが夜も大分更けてきたけぇ、そろそろこの寺から立ち去ったほうがええのは確かじゃ! さらばじゃ、利助! また会おう!」
晋作は利助に別れを告げると、秀三郎ともに闇夜に消えた。
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