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第十一話・魔物の襲来
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「ところでさあ。あれって作り物だよね?」
お客様に朝食を届けて厨房に戻ってきたフリーの顔色がいささか悪い。ニケは握りかけのお結びを皿に置き、指についた米を舐め取る。
「どうした? またセクハラされたのか?」
肉切り包丁を抜いたが慌てたフリーに止められる。やはり一人で行かせたのは失敗だったか。忙しいとはいえ、僕も付き添うべきだった。
「ち、違う違う。なにもされなかったよ。……何故か下着の色を聞かれたけど」
「されてんじゃねぇか!」
かまどを壊れない力で叩くニケに、フリーは不思議そうな顔をする。セクハラとは何も身体を触られることだけではない。
僕の失態だ。
幼子に真面目に心配される十八歳。
「ちゃんと顔面蹴ってきたんだろうな?」
「ちゃんと顔面蹴るって何っ? よく分からないから「お米が好きです」って言っといたよ」
「……おう?」
それは、あのおやじも困惑したことだろう。
軟禁状態だったとはいえ、フリーの無知加減が心配になる。教育を受けられるって幸運なことなんだなと、ニケはしみじみと噛みしめた。
肉切り包丁の峰でとんとんと肩を叩く。
「で? 作り物ってなんのことだ?」
「あ、そうそう。あのヒスイってお客さんが……」
「お客様」
「あ、お、お客様が持っていた杖に、しゃれこうべ刺さっていたじゃん? あれって……」
飯を届けに行った際にもちらりと見たが、やはり頭蓋骨が突き刺さっていた。見間違いじゃなかった。
到底作り物とは思えない禍々しさを放っており、明るい所で見たらチビリそうだった。
フリーがこんなに気味悪がっているのに、ニケは「なんだそんなことか」という顔で包丁を仕舞う。
「生百舌鳥(なまもず)族の習性で、餌を木の枝に刺したり挟んだりするんだ。僕もちらっと聞いただけで、詳しくは知らんが。それが骨になったものだろう。骨の形からして、魔獣の物だな。生百舌鳥族は鷹のように気性が荒いからなぁ」
「刺しっぱなしにしとくの? 何か意味があるの?」
ニケはどうでもよさそうに首を振る。
「その辺は知らん。僕の骨のように、魔九来来(まくらら)の底上げ用かもしれん。それか何かの儀式か。ま、鳥には鳥の生き方がある。……そんなに気にすることか?」
「え、えっと。まあ……」
ニケたちは骨が気にならないようだ。これだと骨を恐れている自分がおかしい感覚に陥ってくる。
目を泳がせつつ、本心を語った。
「俺は骨を不気味だと思っちゃうな……」
これには、ニケは信じられないと言いたげに目と口を開いた。
「お、お前さん。体内に骨があるのに? も、もしかして自分のこと不気味だと、おも、思っているのか?」
体内にあるものがむき出しになっているから怖いんです、と言う前にニケが両手を掴んできた。
「僕はお前さんのこと不気味とか思っていないぞ? こやつどんくさいなボケとか、使えないなホント、とかは思うけど。気味悪いとか思ったことはない!」
身投げしようとする者に、説得を試みるような真剣さだった。
いくつかの言葉がドスドスと胸に刺さったが、下唇を噛んで我慢する。涙を。
自分の手を掴んでいる小さな手があたたかい。
「あ、ありがとうニケ。俺もニケが好きです」
何気なく言った言葉に、ニケの目が点になった。
ニケは勝手ににやけそうになる口元を懸命に堪える。
「あ、あああああ今はそんな話してないだろう!」
高速で手を振り払い、背を向ける。
怒らせちゃったかな? とフリーが眉を下げると、ニケはちらちらと視線を向けてきた。
「……なの?」
「え?」
「……僕のこと、好きなの?」
蚊の鳴くような声だった。
フリーはしっかりと頷く。
「うん!」
「……」
「……?」
ニケは膝が砕けそうになった。
――それだけかい!
もっとこういうところが好きとか、犬耳が素敵とか、毛艶が最高とか、言葉を並べてほしかった。だが、人生経験の乏しいフリーに、察する能力を求めても酷だろう。
照れくさそうに、ニケはちょいちょいと前髪を直す。
「ま、まあ。僕もお前さんのことは、憎からず思う……」
「え?」
ニケが小声で何か言ったが聞き取れなかった。瞬時にしゃがむも、ムッとされた。
「二度は言わん」
「えええ?」
しばらく周りをちょろちょろするも、ニケは本当に二度言わなかった。
自分たち用に作ったお結びを手に取り、厨房にある丸太を切っただけの椅子に腰かける。フリーもしぶしぶその近くの壁にもたれた。
「「いただきます」」
二人の声がきれいに重なる。
一瞬顔を見合わせた二人だったが、すぐに何事もなかったように食べ始めた。
もぐもぐ。
お米を幸せそうに頬張るフリーを見つめる。
美しく空気の美味しい住処の山。透明な川の水。たまに訪れるお客様。
仕事はある。家もある。一人じゃない。
こんな平凡な日常が続いていくんだと、のんきに信じて過ごしていたのに、無情にも――唐突にそれは起こった。
ふっとあたりが暗くなる。
宿が吹雪いている山のど真ん中にあるために忘れがちだが、今の季節は夏。朝だろうと夏エリア上空には雪雲はなく、眩しいほどの日光が射しこんでいたというのに。
どうせ雲が日光を閉ざしただけだろう。そう何気なく窓の外へ目を向けて、フリーは硬直した。
開け放たれた窓から、異様な生物が覗き込んでいた。
「なっ。はあ? 何!」
明らかに人間でも、ニケのような獣人でもない。
そいつは三つの目をぎょろりと動かすと、窓から侵入を試みようとした。小さな窓に身体を無理に押し込もうとするので、壁にひびが入っていく。このままでは壁をぶち壊して入ってきそうだ。
壁にもたれていたせいで、その生物とフリーとの差は壁一枚。手を伸ばされれば簡単に触れられる距離だ。
「ぼさっとすんな!」
ニケは固まっているフリーを抱えて飛び退く。危険地帯に住んでいるが故に身に付いた、冷静さと反射神経の成せる技だった。
「ほわっ」
身長の割に軽いフリーを俵担ぎしたまま厨房の床を転がり、窓から離れる。食べかけのお結びを落としてしまうがそれどころではない。
厨房の出入り口付近に跳んだため、フリーを外に蹴りやってから、ニケは相手を確かめた。
と同時に、轟音と共に壁が砕かれた。顔に飛んできた破片を虫でも払うように叩き落とす。
もうもうと埃が舞う中、壁も窓もなくなったことで三つ目の全身が露わになる。
小屋ほどもある黒い肌の巨体。毛のない頭部からは怪しく青く光る角が三本生え、忙しなく動く三つ目が、ニケを見下ろす。
「魔物だと⁉」
黒小僧(くろこぞう)。凍光山の巨人型魔物の中でも小柄で、性格は温厚な部類。目撃数も少なく、もし見かけても「体育座りで花を眺めていた」や、「寝転んで果物を食べていた」など平和な報告例ばかり。
だが、その黒小僧が振るう冷気の力たるや。寒さに強い凍光山の魔物すら凍らせるほどに凶悪。
魔獣と魔物の違いは魔九来来を使うか否か。そのせいで魔九来来使いは魔物の血が混じっていると差別されていたのだ。……昔の話だが。
寝起きの如く鈍足とはいえ、魔物は魔物。ニケは全く油断できなかった。
頬に冷や汗が伝い、かちかちと歯が鳴る。無理もない。こんなことが起こるはずがないのだから。ここは火竜が卵を産んだ地。子を守るため凶暴になる母竜、その残る殺気に、魔獣たちは恐れて近づきもしないのに。
こんな至近距離で魔物を見ることになろうとは。
魔物の襲来。
「ニケ!」
背後からの声に正気付く。
「ふ、フリー。逃げろ! 今すぐ逃げろ! お客様は僕が逃がすから、お前は衣兎族の村へ行って、このことを報せろ」
「え? ま、待ってよ。何が起こって……」
「言うことを聞け!」
びくりとフリーが両目を閉じる。
ようやく走り去ったのを見届け、ニケも動く。フリーが去ってから動き出したのは、宿の主としての矜持からだった。
床が軋む足音を背中で聞き、客室へ続く廊下を駆け抜ける。その途中で声を振り上げた。
「レナさん! えっと……ヒスイさん! 逃げてください。魔物で――」
ふと外に目をやり、白い背中が見えた。
(あやつ、まだあんなところに!)
瞬時に怒りが湧き上がるが、次の瞬間、背筋が氷柱でも突っ込まれたように冷えた。
フリーの行く手を阻むように、もう一体、別の魔物が陣取っていたのだ。
広げれば屋根を突き破るであろう大きな翼に鋭いくちばし。ネズミのように長い尾に熊の足を持つ、四つ足両翼の魔物。天熊(あまゆう)である。
立派な翼の割に飛行性能はそれほど良くなく、猫がネズミにするようによく龍虎(りゅうこ)に追いかけ回されている、下位の魔物。
――とはいえ、訓練を積んでいない一般人にどうこう出来る相手ではない。
客の目を楽しませる花壇の花を踏みつけ、ゆうゆうと近寄ってくる。
フリーは怯え固まってしまっているのか、その背中は動かない。
舌打ちして、廊下から外に飛び出す。初夏の日差しを浴びても、まったく温かいとは思わなかった。
「何やってんだ! 逃げろっ。この馬鹿!」
声は届いただろうか。いくらニケが俊足とはいえ、天熊が振り上げた両足を下ろす方が、ずっと速かった。
氷のように透き通った爪が憐れな獲物を引き裂く――
その寸前で、一陣の風が魔物とフリーの間に滑り込んだ。
ガキィ!
耳障りな音を立て、天熊の爪がフリーの額スレスレで止まる。いつまでたっても襲ってこない衝撃に恐る恐る目を開けると、はらりと、白い髪が二~三本舞い落ちた。
ニケとフリーが目を見開く。
爪による斬撃を防いだのは、宿泊客のレナだった。ほっそりとした肘から突き出したヒレと、魔物のごつい爪との衝突。弾かれたのは天熊の方だった。
『ギャアアァ?』
悲鳴を上げて魔物がのけ反る。なんと、ヒレを叩いた爪が砕けたのだ。レナのヒレの方が硬いことを示す。
守ってくれたレナが振り向く。
その目つきは、魔物などよりよほど険しく怖かった。
「何をしている貴様ぁ! 逃げ出そうとする暇があるなら、ニケ殿を守らんか! 怪我ひとつさせたら殺すぞ!」
山が震えるような大喝に、ニケを追って迫っていた黒小僧までもが竦む。
耳がキーンとなり放心状態のフリーに、ニケは飛びついた。
しっかりニケがつかまったのを見てフリーの襟首を掴み、レナは大きく跳んだ。
魔物たちから距離を取る。
レナと合流できたことにより、ニケはホッと息を吐いた。
「すいません、レナさん。こやつに逃げろと言ったのは僕です」
「怪我はないか? ニケ殿」
ニケとレナの早口が重なる。一瞬目を点にしたのち、二人は頷き合った。
「そうか」
「はい。怪我はないです」
ニケに抱きつかれている青年に軽く殺意が湧いたが、今はそれに構っている場合ではない。
きっと魔物を睨む。
『グオゥ?』
黒小僧は天熊を心配するかのように手を伸ばし、天熊は「ほっといて! このくらい平気よ」という感じで腕を振り払う。
それを見て、レナは眉をひそめた。
「変だな……。黒小僧はともかく、天熊は他の魔物とは慣れ合わないはずだ」
それどころか、視界に入っただけで襲い掛かる獰猛な性質である。これはおかしい。
ニケはよく分からなかったが、魔物に詳しい彼女が言うのだから、何か異変が起きているのだろう。
「レナさん。もう一人のお客様を見ませんでしたか? 赤い袈裟を身につけている方なのですが――」
「そんなことより、身の安全を第一に考えてくれ。私がいれば必ず安全、とは言ってやれん」
そんなこと扱いされたヒスイが不憫だったが、ニケの鼻は血のにおいを捉えていなかった。まだ、生きているはずだ。
しかし、以前のニケならレナの制止もきかず、客を探すために宿に戻っていただろう。客を守るのは主の務めであるという思いから。無茶をしたはずだ。
なのに、今は身体が動かない。急に現れた魔物に怯えているから、というのも確かな理由ではあったが……
ニケの両手は、魔物の恐怖よりも客の安否よりも、まるでフリーを失いたくないと言うように白い着物を強く掴んでいた。
「……? ……ッ……??」
そんなフリーは、現状が呑み込めず混乱の坩堝にあった。表面上は平静さを取り繕ってはいたが、頭の中は「何が起こっているんだァァ」と走り回っている状態である。冷や汗が止まらない。若干魔物よりレナの方がこわ……いや、魔物が怖い。
それでも発狂せずに済んでいるのは、小さな子が左腕に引っついているからだろう。フリーの腕はほぼ無意識に、ニケを抱きしめていた。
両腕と背中が大きく開いた中華ドレスから背ビレを突き出し、レナは狩りモードに入る。
どうして魔物がここに入ってこられたということも気になるが、今はこいつらをどうにかするのが先決。二体はちときついが、どちらの魔物も魔獣龍虎よりは弱い。ならば、倒せずとも追い払えるはずだ。
手当てと宿の温泉の効果もあり、龍虎に負わされた傷はなんとか塞がっている。が、長引かせればこちらが不利。ならば、
――先手必勝。
レナは魔物の意識がこちらを向く前に駆け出した。気づいた魔物が視線を向けてくるより早く、彼女は地面に飛び込む。
「えっ?」
土竜や蚯蚓(ミミズ)族並みの速度で地面に消えたレナに仰天する。
ニケは見たことがあるのか、驚きはしなかった。冷静にフリーの腕の中から下り、もっと離れるように指示する。
「フリー! 魔物の相手はプロに任せろ。僕らは邪魔にならないよう、下がるんだ」
地面から突き出た背ビレが、風を置き去りにする速度で魔物に迫る。狙いは、黒小僧だ。レナは土中で鮫の姿へ変化――正確にはとある薬の力で鮫の姿になっただけ――して、泳ぐように移動することが出来る。ごく短時間のみだが。
ニケに引っ張られ、よろけたフリーは確かに見た。大型の鮫が、魔物に食らいつく瞬間を。
土を大量に巻き上げ、黒小僧の巨体が宙を舞う。
『グウウッ!』
「!!??!」
フリーは開いた口が塞がらなかった。
足元から鮫が出てきた黒小僧はそれ以上の衝撃だっただろう。いくつもの歯が食い込んだ肉体はミシミシと嫌な音を立て、口から青い血液を吐く。
『グ、ググウ』
『ギュアアアアァ!』
余波で転びかけた天熊だったが、四つ足の強みを生かして踏ん張り、なんと、まだ宙にいるレナ目掛けて攻撃態勢を取った。
「!」
レナ(いたちざめの姿)は黒小僧に噛みつきながらも、天熊からも意識を逸らしてはいなかった。そんなレナは不振に思う。こんな、相手の隙を見逃さず攻撃しようと動けるほど、天熊の知能は高くない。
それに――黒小僧の三つ目が、一斉にレナを見た。腹に鮫が噛みついているのだ。もう気を失っていてもおかしくはないというのに。
彼女の不安をよそに、黒小僧は痛みを感じていないかのように、力を解き放った。
レナのヒレが引き攣る。これは、魔九来来を使う前兆!
長年磨かれた猟師の勘が、彼女の身を助けた。
地面に叩きつけるのを諦め、彼女は咄嗟に黒小僧から口を離す。その瞬間、魔物の冷気が鼻先に叩きつけられた。
「チィッ!」
冷気は吹雪のように氷雪を伴って吹き荒れ、レナの身体を白く凍らせていく。噛みついたままだったら、口内に冷気を直接送り込まれて即死だった。危ない。
それでも逃れたわけではない。あまりの寒さに呼吸が出来なくなる。その隙を待っていたかのように、天熊も力を放つ。
『ギャアアア!』
大きく羽ばたき、瞬間的に台風じみた強風を生み出す。
「レナさん!」
ニケが叫ぶ。
その風は凄まじく渦を巻き、竜巻へと変化すると自然界ではありえない動きを見せ、レナへと襲い掛かった。
「ぐっ!」
ただの風ではない。竜巻の中で、巨木をも両断する天熊の羽が花びらのように舞っている。ミキサーと化した竜巻に切り裂かれ、レナの全身から血が噴き出した。
「ぐ、あああ!」
たまらず悲鳴を上げる。
奇異なことに、魔物たちは明らかに連携していた。大きく吹き飛ばされたレナの血は瞬時に凍り付き、赤い雪が、夏エリアに降り注ぐ。
通常では考えられない強い魔九来来を使った天熊と、連携してみせた黒小僧。こいつら、もしや――
鮫の姿を維持する力を失い、レナが人の姿へと戻る。
「ッ!」
フリーは咄嗟に駆け出すが、どんなに速く走っても十秒以上はかかる。
どすんっ。
レナは夏エリアの外、吹雪の山へ落下した。
ドレスはズタボロで、その下の雪がじわじわと赤く染まっていく。手足は千切れてこそいなかったが、左腕は変な方向へ折れ曲がり、もはや治療したところで戦闘は出来ないであろう。
「レナさん……ッ」
なんとか魔物より早く彼女の元へたどり着いたが、のんきに治療する暇などない。魔物たちが追いかけてくるのだ。あれだけの魔九来来を使ったせいか動きはのろいが、そもそも歩幅からして違う。彼女を抱えて走ったところで、逃げ切るのは無理だろう。
雪の冷たさも忘れて膝をつき、呆然となる。
――ビュウウウ……
聞き慣れた凍光山の風の音が、どこか遠くに聞こえる。光りすら凍らせる山の冷気に包まれて、ニケは酷く落ち着いていた。赤い目が、じっと魔物たちを見つめる。
懐から骨を抜き取り、ゆっくりと立つ。
「フリー。とっとと逃げろ」
「え?」
こんな事態も想定し、何度か避難訓練は行った。宿に魔九来来防具だって何個か置いてある。だというのに、うまく立ち回れなかった。レナさんに大怪我させたのも、僕の責任だ。
「早く! 僕が足止めをしておいてやる」
気丈に振舞うも、数秒足止め出来たら良い方だろう。情けないことに両足の震えは止まらないし、火の力はせいぜい料理に使える程度。ニケがいくら人間からずれば怪力の類とはいえ、目の前の巨人型魔物には遠く及ばない。なによりこの凍光山は彼らの領域。
生存は絶望的だ。
一分一秒も時間を無駄にできないというのに、それなのにフリーは逃げてくれなかった。血まみれのレナを支えて、立ち上がろうと頑張っている。女性一人も持ち上げられないのかこやつは。
「それならニケが逃げてよ。足速いんだし! ここは俺が」
その先は聞きたくない。
「うるさい! 言うことを聞け」
こんな言い合いをしている場合ではないというのに。どうしてこういう時に限って言うことを聞かないんだ。
「う……ぐ」
レナがうっすらと目を開ける。血と雪にまみれた秀麗な顔を歪ませ、ニケの方へ目をやる。
「こ、この幽鬼族の言う通りだ。ニケ殿が逃げろ……。ごほっ! 私とこいつで、なんとか……時間を稼いでやる」
挙句に、レナまでこんなことを言う。
レナはいつもニケを気遣い、ちょくちょく様子を見に来てくれた。お得意様であり、ニケにとって第二の姉のような存在。今もなお、こんな傷を負っても庇おうとしてくれている。優しくて、大切な人。
赤い瞳に涙が滲む。
フリーは必死に立とうとする彼女を支える。
「無茶ですって! 左腕、折れているんですよ」
「うるさいぞ軟弱! 骨が折れたくらい、なんだ」
血を吐きながらも、支えの手を振り払おうとする。
ニケに何かある方が嫌だ。
『グオオオッ!』
雄叫びを上げ、黒小僧が走り出した。腹から血をこぼし、鈍足という噂を蹴散らすように。
吹雪を浴びて回復が早まったのか、目をぎらぎらと血走らせている。
ニケはそれを見つめることしかできなかった。
「――すっ、すいません!」
背後から、申し訳なさでいっぱいの声がした。
「え? ……おわっ」
突然、立とうとしていたレナが顔から倒れ込む。支えがなくなったからだ。フリーが走り去っていく。
ニケたちを置いて。
魔物の反対側へ。
お客様に朝食を届けて厨房に戻ってきたフリーの顔色がいささか悪い。ニケは握りかけのお結びを皿に置き、指についた米を舐め取る。
「どうした? またセクハラされたのか?」
肉切り包丁を抜いたが慌てたフリーに止められる。やはり一人で行かせたのは失敗だったか。忙しいとはいえ、僕も付き添うべきだった。
「ち、違う違う。なにもされなかったよ。……何故か下着の色を聞かれたけど」
「されてんじゃねぇか!」
かまどを壊れない力で叩くニケに、フリーは不思議そうな顔をする。セクハラとは何も身体を触られることだけではない。
僕の失態だ。
幼子に真面目に心配される十八歳。
「ちゃんと顔面蹴ってきたんだろうな?」
「ちゃんと顔面蹴るって何っ? よく分からないから「お米が好きです」って言っといたよ」
「……おう?」
それは、あのおやじも困惑したことだろう。
軟禁状態だったとはいえ、フリーの無知加減が心配になる。教育を受けられるって幸運なことなんだなと、ニケはしみじみと噛みしめた。
肉切り包丁の峰でとんとんと肩を叩く。
「で? 作り物ってなんのことだ?」
「あ、そうそう。あのヒスイってお客さんが……」
「お客様」
「あ、お、お客様が持っていた杖に、しゃれこうべ刺さっていたじゃん? あれって……」
飯を届けに行った際にもちらりと見たが、やはり頭蓋骨が突き刺さっていた。見間違いじゃなかった。
到底作り物とは思えない禍々しさを放っており、明るい所で見たらチビリそうだった。
フリーがこんなに気味悪がっているのに、ニケは「なんだそんなことか」という顔で包丁を仕舞う。
「生百舌鳥(なまもず)族の習性で、餌を木の枝に刺したり挟んだりするんだ。僕もちらっと聞いただけで、詳しくは知らんが。それが骨になったものだろう。骨の形からして、魔獣の物だな。生百舌鳥族は鷹のように気性が荒いからなぁ」
「刺しっぱなしにしとくの? 何か意味があるの?」
ニケはどうでもよさそうに首を振る。
「その辺は知らん。僕の骨のように、魔九来来(まくらら)の底上げ用かもしれん。それか何かの儀式か。ま、鳥には鳥の生き方がある。……そんなに気にすることか?」
「え、えっと。まあ……」
ニケたちは骨が気にならないようだ。これだと骨を恐れている自分がおかしい感覚に陥ってくる。
目を泳がせつつ、本心を語った。
「俺は骨を不気味だと思っちゃうな……」
これには、ニケは信じられないと言いたげに目と口を開いた。
「お、お前さん。体内に骨があるのに? も、もしかして自分のこと不気味だと、おも、思っているのか?」
体内にあるものがむき出しになっているから怖いんです、と言う前にニケが両手を掴んできた。
「僕はお前さんのこと不気味とか思っていないぞ? こやつどんくさいなボケとか、使えないなホント、とかは思うけど。気味悪いとか思ったことはない!」
身投げしようとする者に、説得を試みるような真剣さだった。
いくつかの言葉がドスドスと胸に刺さったが、下唇を噛んで我慢する。涙を。
自分の手を掴んでいる小さな手があたたかい。
「あ、ありがとうニケ。俺もニケが好きです」
何気なく言った言葉に、ニケの目が点になった。
ニケは勝手ににやけそうになる口元を懸命に堪える。
「あ、あああああ今はそんな話してないだろう!」
高速で手を振り払い、背を向ける。
怒らせちゃったかな? とフリーが眉を下げると、ニケはちらちらと視線を向けてきた。
「……なの?」
「え?」
「……僕のこと、好きなの?」
蚊の鳴くような声だった。
フリーはしっかりと頷く。
「うん!」
「……」
「……?」
ニケは膝が砕けそうになった。
――それだけかい!
もっとこういうところが好きとか、犬耳が素敵とか、毛艶が最高とか、言葉を並べてほしかった。だが、人生経験の乏しいフリーに、察する能力を求めても酷だろう。
照れくさそうに、ニケはちょいちょいと前髪を直す。
「ま、まあ。僕もお前さんのことは、憎からず思う……」
「え?」
ニケが小声で何か言ったが聞き取れなかった。瞬時にしゃがむも、ムッとされた。
「二度は言わん」
「えええ?」
しばらく周りをちょろちょろするも、ニケは本当に二度言わなかった。
自分たち用に作ったお結びを手に取り、厨房にある丸太を切っただけの椅子に腰かける。フリーもしぶしぶその近くの壁にもたれた。
「「いただきます」」
二人の声がきれいに重なる。
一瞬顔を見合わせた二人だったが、すぐに何事もなかったように食べ始めた。
もぐもぐ。
お米を幸せそうに頬張るフリーを見つめる。
美しく空気の美味しい住処の山。透明な川の水。たまに訪れるお客様。
仕事はある。家もある。一人じゃない。
こんな平凡な日常が続いていくんだと、のんきに信じて過ごしていたのに、無情にも――唐突にそれは起こった。
ふっとあたりが暗くなる。
宿が吹雪いている山のど真ん中にあるために忘れがちだが、今の季節は夏。朝だろうと夏エリア上空には雪雲はなく、眩しいほどの日光が射しこんでいたというのに。
どうせ雲が日光を閉ざしただけだろう。そう何気なく窓の外へ目を向けて、フリーは硬直した。
開け放たれた窓から、異様な生物が覗き込んでいた。
「なっ。はあ? 何!」
明らかに人間でも、ニケのような獣人でもない。
そいつは三つの目をぎょろりと動かすと、窓から侵入を試みようとした。小さな窓に身体を無理に押し込もうとするので、壁にひびが入っていく。このままでは壁をぶち壊して入ってきそうだ。
壁にもたれていたせいで、その生物とフリーとの差は壁一枚。手を伸ばされれば簡単に触れられる距離だ。
「ぼさっとすんな!」
ニケは固まっているフリーを抱えて飛び退く。危険地帯に住んでいるが故に身に付いた、冷静さと反射神経の成せる技だった。
「ほわっ」
身長の割に軽いフリーを俵担ぎしたまま厨房の床を転がり、窓から離れる。食べかけのお結びを落としてしまうがそれどころではない。
厨房の出入り口付近に跳んだため、フリーを外に蹴りやってから、ニケは相手を確かめた。
と同時に、轟音と共に壁が砕かれた。顔に飛んできた破片を虫でも払うように叩き落とす。
もうもうと埃が舞う中、壁も窓もなくなったことで三つ目の全身が露わになる。
小屋ほどもある黒い肌の巨体。毛のない頭部からは怪しく青く光る角が三本生え、忙しなく動く三つ目が、ニケを見下ろす。
「魔物だと⁉」
黒小僧(くろこぞう)。凍光山の巨人型魔物の中でも小柄で、性格は温厚な部類。目撃数も少なく、もし見かけても「体育座りで花を眺めていた」や、「寝転んで果物を食べていた」など平和な報告例ばかり。
だが、その黒小僧が振るう冷気の力たるや。寒さに強い凍光山の魔物すら凍らせるほどに凶悪。
魔獣と魔物の違いは魔九来来を使うか否か。そのせいで魔九来来使いは魔物の血が混じっていると差別されていたのだ。……昔の話だが。
寝起きの如く鈍足とはいえ、魔物は魔物。ニケは全く油断できなかった。
頬に冷や汗が伝い、かちかちと歯が鳴る。無理もない。こんなことが起こるはずがないのだから。ここは火竜が卵を産んだ地。子を守るため凶暴になる母竜、その残る殺気に、魔獣たちは恐れて近づきもしないのに。
こんな至近距離で魔物を見ることになろうとは。
魔物の襲来。
「ニケ!」
背後からの声に正気付く。
「ふ、フリー。逃げろ! 今すぐ逃げろ! お客様は僕が逃がすから、お前は衣兎族の村へ行って、このことを報せろ」
「え? ま、待ってよ。何が起こって……」
「言うことを聞け!」
びくりとフリーが両目を閉じる。
ようやく走り去ったのを見届け、ニケも動く。フリーが去ってから動き出したのは、宿の主としての矜持からだった。
床が軋む足音を背中で聞き、客室へ続く廊下を駆け抜ける。その途中で声を振り上げた。
「レナさん! えっと……ヒスイさん! 逃げてください。魔物で――」
ふと外に目をやり、白い背中が見えた。
(あやつ、まだあんなところに!)
瞬時に怒りが湧き上がるが、次の瞬間、背筋が氷柱でも突っ込まれたように冷えた。
フリーの行く手を阻むように、もう一体、別の魔物が陣取っていたのだ。
広げれば屋根を突き破るであろう大きな翼に鋭いくちばし。ネズミのように長い尾に熊の足を持つ、四つ足両翼の魔物。天熊(あまゆう)である。
立派な翼の割に飛行性能はそれほど良くなく、猫がネズミにするようによく龍虎(りゅうこ)に追いかけ回されている、下位の魔物。
――とはいえ、訓練を積んでいない一般人にどうこう出来る相手ではない。
客の目を楽しませる花壇の花を踏みつけ、ゆうゆうと近寄ってくる。
フリーは怯え固まってしまっているのか、その背中は動かない。
舌打ちして、廊下から外に飛び出す。初夏の日差しを浴びても、まったく温かいとは思わなかった。
「何やってんだ! 逃げろっ。この馬鹿!」
声は届いただろうか。いくらニケが俊足とはいえ、天熊が振り上げた両足を下ろす方が、ずっと速かった。
氷のように透き通った爪が憐れな獲物を引き裂く――
その寸前で、一陣の風が魔物とフリーの間に滑り込んだ。
ガキィ!
耳障りな音を立て、天熊の爪がフリーの額スレスレで止まる。いつまでたっても襲ってこない衝撃に恐る恐る目を開けると、はらりと、白い髪が二~三本舞い落ちた。
ニケとフリーが目を見開く。
爪による斬撃を防いだのは、宿泊客のレナだった。ほっそりとした肘から突き出したヒレと、魔物のごつい爪との衝突。弾かれたのは天熊の方だった。
『ギャアアァ?』
悲鳴を上げて魔物がのけ反る。なんと、ヒレを叩いた爪が砕けたのだ。レナのヒレの方が硬いことを示す。
守ってくれたレナが振り向く。
その目つきは、魔物などよりよほど険しく怖かった。
「何をしている貴様ぁ! 逃げ出そうとする暇があるなら、ニケ殿を守らんか! 怪我ひとつさせたら殺すぞ!」
山が震えるような大喝に、ニケを追って迫っていた黒小僧までもが竦む。
耳がキーンとなり放心状態のフリーに、ニケは飛びついた。
しっかりニケがつかまったのを見てフリーの襟首を掴み、レナは大きく跳んだ。
魔物たちから距離を取る。
レナと合流できたことにより、ニケはホッと息を吐いた。
「すいません、レナさん。こやつに逃げろと言ったのは僕です」
「怪我はないか? ニケ殿」
ニケとレナの早口が重なる。一瞬目を点にしたのち、二人は頷き合った。
「そうか」
「はい。怪我はないです」
ニケに抱きつかれている青年に軽く殺意が湧いたが、今はそれに構っている場合ではない。
きっと魔物を睨む。
『グオゥ?』
黒小僧は天熊を心配するかのように手を伸ばし、天熊は「ほっといて! このくらい平気よ」という感じで腕を振り払う。
それを見て、レナは眉をひそめた。
「変だな……。黒小僧はともかく、天熊は他の魔物とは慣れ合わないはずだ」
それどころか、視界に入っただけで襲い掛かる獰猛な性質である。これはおかしい。
ニケはよく分からなかったが、魔物に詳しい彼女が言うのだから、何か異変が起きているのだろう。
「レナさん。もう一人のお客様を見ませんでしたか? 赤い袈裟を身につけている方なのですが――」
「そんなことより、身の安全を第一に考えてくれ。私がいれば必ず安全、とは言ってやれん」
そんなこと扱いされたヒスイが不憫だったが、ニケの鼻は血のにおいを捉えていなかった。まだ、生きているはずだ。
しかし、以前のニケならレナの制止もきかず、客を探すために宿に戻っていただろう。客を守るのは主の務めであるという思いから。無茶をしたはずだ。
なのに、今は身体が動かない。急に現れた魔物に怯えているから、というのも確かな理由ではあったが……
ニケの両手は、魔物の恐怖よりも客の安否よりも、まるでフリーを失いたくないと言うように白い着物を強く掴んでいた。
「……? ……ッ……??」
そんなフリーは、現状が呑み込めず混乱の坩堝にあった。表面上は平静さを取り繕ってはいたが、頭の中は「何が起こっているんだァァ」と走り回っている状態である。冷や汗が止まらない。若干魔物よりレナの方がこわ……いや、魔物が怖い。
それでも発狂せずに済んでいるのは、小さな子が左腕に引っついているからだろう。フリーの腕はほぼ無意識に、ニケを抱きしめていた。
両腕と背中が大きく開いた中華ドレスから背ビレを突き出し、レナは狩りモードに入る。
どうして魔物がここに入ってこられたということも気になるが、今はこいつらをどうにかするのが先決。二体はちときついが、どちらの魔物も魔獣龍虎よりは弱い。ならば、倒せずとも追い払えるはずだ。
手当てと宿の温泉の効果もあり、龍虎に負わされた傷はなんとか塞がっている。が、長引かせればこちらが不利。ならば、
――先手必勝。
レナは魔物の意識がこちらを向く前に駆け出した。気づいた魔物が視線を向けてくるより早く、彼女は地面に飛び込む。
「えっ?」
土竜や蚯蚓(ミミズ)族並みの速度で地面に消えたレナに仰天する。
ニケは見たことがあるのか、驚きはしなかった。冷静にフリーの腕の中から下り、もっと離れるように指示する。
「フリー! 魔物の相手はプロに任せろ。僕らは邪魔にならないよう、下がるんだ」
地面から突き出た背ビレが、風を置き去りにする速度で魔物に迫る。狙いは、黒小僧だ。レナは土中で鮫の姿へ変化――正確にはとある薬の力で鮫の姿になっただけ――して、泳ぐように移動することが出来る。ごく短時間のみだが。
ニケに引っ張られ、よろけたフリーは確かに見た。大型の鮫が、魔物に食らいつく瞬間を。
土を大量に巻き上げ、黒小僧の巨体が宙を舞う。
『グウウッ!』
「!!??!」
フリーは開いた口が塞がらなかった。
足元から鮫が出てきた黒小僧はそれ以上の衝撃だっただろう。いくつもの歯が食い込んだ肉体はミシミシと嫌な音を立て、口から青い血液を吐く。
『グ、ググウ』
『ギュアアアアァ!』
余波で転びかけた天熊だったが、四つ足の強みを生かして踏ん張り、なんと、まだ宙にいるレナ目掛けて攻撃態勢を取った。
「!」
レナ(いたちざめの姿)は黒小僧に噛みつきながらも、天熊からも意識を逸らしてはいなかった。そんなレナは不振に思う。こんな、相手の隙を見逃さず攻撃しようと動けるほど、天熊の知能は高くない。
それに――黒小僧の三つ目が、一斉にレナを見た。腹に鮫が噛みついているのだ。もう気を失っていてもおかしくはないというのに。
彼女の不安をよそに、黒小僧は痛みを感じていないかのように、力を解き放った。
レナのヒレが引き攣る。これは、魔九来来を使う前兆!
長年磨かれた猟師の勘が、彼女の身を助けた。
地面に叩きつけるのを諦め、彼女は咄嗟に黒小僧から口を離す。その瞬間、魔物の冷気が鼻先に叩きつけられた。
「チィッ!」
冷気は吹雪のように氷雪を伴って吹き荒れ、レナの身体を白く凍らせていく。噛みついたままだったら、口内に冷気を直接送り込まれて即死だった。危ない。
それでも逃れたわけではない。あまりの寒さに呼吸が出来なくなる。その隙を待っていたかのように、天熊も力を放つ。
『ギャアアア!』
大きく羽ばたき、瞬間的に台風じみた強風を生み出す。
「レナさん!」
ニケが叫ぶ。
その風は凄まじく渦を巻き、竜巻へと変化すると自然界ではありえない動きを見せ、レナへと襲い掛かった。
「ぐっ!」
ただの風ではない。竜巻の中で、巨木をも両断する天熊の羽が花びらのように舞っている。ミキサーと化した竜巻に切り裂かれ、レナの全身から血が噴き出した。
「ぐ、あああ!」
たまらず悲鳴を上げる。
奇異なことに、魔物たちは明らかに連携していた。大きく吹き飛ばされたレナの血は瞬時に凍り付き、赤い雪が、夏エリアに降り注ぐ。
通常では考えられない強い魔九来来を使った天熊と、連携してみせた黒小僧。こいつら、もしや――
鮫の姿を維持する力を失い、レナが人の姿へと戻る。
「ッ!」
フリーは咄嗟に駆け出すが、どんなに速く走っても十秒以上はかかる。
どすんっ。
レナは夏エリアの外、吹雪の山へ落下した。
ドレスはズタボロで、その下の雪がじわじわと赤く染まっていく。手足は千切れてこそいなかったが、左腕は変な方向へ折れ曲がり、もはや治療したところで戦闘は出来ないであろう。
「レナさん……ッ」
なんとか魔物より早く彼女の元へたどり着いたが、のんきに治療する暇などない。魔物たちが追いかけてくるのだ。あれだけの魔九来来を使ったせいか動きはのろいが、そもそも歩幅からして違う。彼女を抱えて走ったところで、逃げ切るのは無理だろう。
雪の冷たさも忘れて膝をつき、呆然となる。
――ビュウウウ……
聞き慣れた凍光山の風の音が、どこか遠くに聞こえる。光りすら凍らせる山の冷気に包まれて、ニケは酷く落ち着いていた。赤い目が、じっと魔物たちを見つめる。
懐から骨を抜き取り、ゆっくりと立つ。
「フリー。とっとと逃げろ」
「え?」
こんな事態も想定し、何度か避難訓練は行った。宿に魔九来来防具だって何個か置いてある。だというのに、うまく立ち回れなかった。レナさんに大怪我させたのも、僕の責任だ。
「早く! 僕が足止めをしておいてやる」
気丈に振舞うも、数秒足止め出来たら良い方だろう。情けないことに両足の震えは止まらないし、火の力はせいぜい料理に使える程度。ニケがいくら人間からずれば怪力の類とはいえ、目の前の巨人型魔物には遠く及ばない。なによりこの凍光山は彼らの領域。
生存は絶望的だ。
一分一秒も時間を無駄にできないというのに、それなのにフリーは逃げてくれなかった。血まみれのレナを支えて、立ち上がろうと頑張っている。女性一人も持ち上げられないのかこやつは。
「それならニケが逃げてよ。足速いんだし! ここは俺が」
その先は聞きたくない。
「うるさい! 言うことを聞け」
こんな言い合いをしている場合ではないというのに。どうしてこういう時に限って言うことを聞かないんだ。
「う……ぐ」
レナがうっすらと目を開ける。血と雪にまみれた秀麗な顔を歪ませ、ニケの方へ目をやる。
「こ、この幽鬼族の言う通りだ。ニケ殿が逃げろ……。ごほっ! 私とこいつで、なんとか……時間を稼いでやる」
挙句に、レナまでこんなことを言う。
レナはいつもニケを気遣い、ちょくちょく様子を見に来てくれた。お得意様であり、ニケにとって第二の姉のような存在。今もなお、こんな傷を負っても庇おうとしてくれている。優しくて、大切な人。
赤い瞳に涙が滲む。
フリーは必死に立とうとする彼女を支える。
「無茶ですって! 左腕、折れているんですよ」
「うるさいぞ軟弱! 骨が折れたくらい、なんだ」
血を吐きながらも、支えの手を振り払おうとする。
ニケに何かある方が嫌だ。
『グオオオッ!』
雄叫びを上げ、黒小僧が走り出した。腹から血をこぼし、鈍足という噂を蹴散らすように。
吹雪を浴びて回復が早まったのか、目をぎらぎらと血走らせている。
ニケはそれを見つめることしかできなかった。
「――すっ、すいません!」
背後から、申し訳なさでいっぱいの声がした。
「え? ……おわっ」
突然、立とうとしていたレナが顔から倒れ込む。支えがなくなったからだ。フリーが走り去っていく。
ニケたちを置いて。
魔物の反対側へ。
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