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息子の死後、洋子は極度のPTSDを患うことになった。
PTSDは、時に被害妄想を伴う。
そのせいかどうか定かではないが、洋子は、時間が経つにつれて、息子の死は夫のせいだ、と考えるようになっていった。
Kが市議選に立候補することは、結婚前から話としては出ていた。
一方で、県議の父親は引退を決めていた。
引退するには早い、という周りの声は大きかったが、本人の意思は固かった。
自分は県議止まりだ。
それ以上にはいけない。
だとしたら、早いうちに息子を政界に入れて、自分は後ろ盾になる。
そう決めたようだった。
そんな考え方のもと、すでに大学四年生くらいから、Kは父親の秘書見習いをしていた。
洋子の方は、詳しい事情は知らなかったが、とにかく自分の夫となる人が政界に進むことを単純に誇らしい、と思っていた。
アナウンスの勉強をして、学校卒業後はときどき結婚式の司会の仕事をしていた洋子である。
私も何か役に立つかもしれない。
そう、勝手に想像していた。
しかし、実際は、ほとんど洋子が出る幕はなかった。
Kの出馬を四年後に控えた年に結婚をした。
その翌年には、今の秘書が来て、事務所に使うためのマンションも用意された。
マンションといっても、Kの父親の持ち物だ。
代々、地元の名家であるKの家は、多くの土地、不動産を持っていた。
それに伴って、Kが自宅に帰ることが少なくなっていったが、洋子は、そういうものなのだろう、と思っただけだった。
家には、義母と洋子と幼いヒカル、そして家政婦だけがいる、そういう暮らしになった。
Kよりも、その秘書のほうが家に来ることが多かった。
Kの身の回りのもの、特に薬を取りに来ていた。
Kは、祖母の隔世遺伝で、コレステロール値がもともと高かった。
それに、学生時代に続けてきたスポーツもぱったりやらなくなったことで、太り気味だった。
血圧も少し高めで、かかりつけ医から何種類かの薬を処方されていた。
かかりつけ医に行くのも、薬をもらってくるのも、洋子だった。
ところが実質、Kの身の回りの世話をしているのは秘書だった。
秘書は、地元の女子大を卒業したばかりだった。
洋子のことを、若奥様、若奥様と慕っているように振る舞った。
洋子の方も、夫のことがあるので、感謝しているように接していた。
それでも、二人とも牽制しあっているのは、明らかだった。
そのうち、知り合い経由で、秘書とKが職務上だけの関係ではないことがなんとなく伝わってきた。
洋子は、別段、そのことに関して驚きもしなかった。
薄々感じていたからだ。
政治家とはこういうものか、と洋子は改めて知らされただけだった。
同時に、疑念がまた蘇った。
本当は今の秘書の立場を自分が担うはずではなかったのか。
それとも初めから、妻は奥に控えているものなのか。
事実、義母がそうであるように、自分も後者で決まっていたのかもしれない。
しかし、どうしても洋子は考えてしまう。
自分がヒカルのことで、Kを裏切ってしまったからだろうか、と。
例えそうだとしても、Kは家庭に無関心過ぎた。
そんなKに対して、普通なら、周りが忠告するのではないか。
少なくとも、周りはヒカルがKの実子と疑わないのだから。
しかし、そんな気配はどこにもなかった。
考えてみれば、義母ですら、感情的というよりは理性的に孫のヒカルに接していた
甲斐甲斐しく自ら子育てに世話を焼くことはほとんど無かった。
おおかたは家政婦任せだった。
「洋子さん、もう一人家政婦を雇ったほうがよろしいかしら」
実際、そんなことを言ったこともあった。
義母には悪気はない。
それが彼女の愛情の掛け方なのだ。
洋子が育ってきた環境とは、違うのだ。
それも表面的なことではなく、根っこのところでだ。
ただ、精神が健康な状態であれば、そういうことは仕方がないことと、洋子はきっと思えたに違いなかった。
そういうことを振り返る度に、洋子の心は悲しい気持ちで満たされた。
こんな家で、自分はこれからの人生を送っていけるのか。
そう想うと絶望しかなかった。
それだから、ヒカルが二歳になったばかりの頃、Kが心筋梗塞で倒れた時は、正直転機かと思った。
そんなことを考えないといけない自分にも、洋子は失望した。
人の死を願うことなど、それまでの人生では一度もなかった。
しかし、事実、夫の死を期待した自分がいた。
それは否定のしようがなかった。
今の境遇から逃れるためには、「それ」が必要なのではないか、と。
正直なところ、死ねばよかったのに、と思う異常な自分がいた。
すでにあの頃から、自分は病んでいたのかも知れない。
そう振り返ったのは、だいぶ後のことだった。
結局、Kは一命を取り留めた。
そこに、あの大地震が来たのだ。
命が引きかえられた、と洋子が考えたとしても、誰に責められようか。
さらに、それに輪をかけるようなことがあった。
後になって洋子の耳に入ったことだが、Kは『あの日』秘書とハワイに居た。
そういうことだったのか。
「洋子さん、親子水入らず、ご実家でゆっくりされてきたら」
選挙の年が明けて、支援者へのあいさつ周りがひと段落すると、義母は洋子にそう提案した。
だから、陽子はヒカルを連れて実家に帰ったのだ。
自分が望んでそうしたのではない。
義母との、そういうやりとりを想い出す度ごとに、呼吸が乱れた。
過呼吸だった。
その発作は、憎しみの芽生えと共に和らいでいくのだった。
ヒカルは、あの家に殺されたのだ。
自分は、一刻も早く、あの家から逃れなければならない。
そうだとしたら、自分は、どうしなければならないのか。
洋子は、そう考えるようになっていった。
皮肉なことに、憎しみが洋子に冷静さと、生きる力を与えたようだった。
しかし、実際には、それは精神の病の成せる技だった。
死ねば良かったのに。
冷たい炎が洋子の心に灯り、小さいながら消えることはなかった。
洋子は、Kの病気について、調べるようになった。
それは周囲には、献身的な政治家の妻として映った。
実際、洋子もそう成りきっていた。
読書量が増えた。
義母は鼻高々だった。
将来を有望視される息子と、献身的な妻。
妻の教育係は自分だ、と自負していた。
洋子はヒカルの死から立ち直った、と義母は思ったのかもしれなかった。
「洋子さん、そろそろ頑張ってみない」
義母は、子作りのことを言っていた。
もちろん、いつも通りの、彼女の優しさから出た言葉で、他意はないのだ。
しかし、当時の洋子には、そういう心の余裕はなかった。
思いがけない言葉に、洋子は久しぶりに動揺した。
それでも、なんとか言葉を返した。
「そうですね、お母様」「Kさんに相談してみますわ」
そう言った。
でも、相談はしなかった。するわけがなかった。
義母は実の息子が秘書を愛人にしていることを知っているはずだった。
それで、夫婦の関係が普通に続いている、とでも思っているのだろうか。
洋子の動揺は、さらに強い怒りに変わっていった。
自室に戻った洋子は、気を鎮めようとソファに横になって読みかけの本を手に取った。
しかし、活字は頭に入ってこなかった。
心の中の青白い炎が一段階大きくなっていくのが分かった。
そんなことがあって数日後、秘書がKの薬を取りに来た。
東京へ出張する、と言う。
「最近、夫は特に変化はないですか」
洋子は秘書に薬を渡しながら、聞いた。
「特に変わりはないのですが、だいぶお疲れのようです」
どういう風に疲れているのか、洋子には分からなかった。
「そう、食欲はいかが」
「ええ、そこは問題はないのですが、相変わらず野菜がお嫌いで」
「そうなんですよね、何か栄養剤とか、そういうものを考えないといけないかしらね」「ちょっと先生にも相談してみますわ」「選挙まで間もないものね」
疲れている時に、どういうものが有効か、などと言うことは誰かに聞かなくても洋子にはだいたい分かっていた。
それだけではない。
Kの持病にとって、良いこと、そして悪いことも分かっていた。
医師から処方される薬の効果、飲み合わせなどもだ。
そういうことは、洋子の性格上、普通のことだった。
洋子はビタミン剤の類も手配することにした。
予定されていた、統一地方選挙は喪に服さなかった。
二か月遅れただけだ。
喪に服さないのは、選挙に関係する人たち、洋子も同じだった。
父親と我が子を亡くしたのに、だ。
あり得ない。
しかし、それが現実だった。
苦難を乗り越えた、ということが票を集めたか、Kは初当選した。
当選がゴールではなかった。
Kは休みなく、多忙な日々が続いていた。
そんなある日、珍しく洋子の方が秘書、いやKの愛人を呼び出した。
「いいビタミン剤をいくつか取り寄せたので」
洋子は、錠剤とその処方の仕方を紙に書いて秘書に渡した。
その時は来た。
来ないことのほうが確率が高いかもしれないのに。
来たのだ。
誰にも邪魔されずにだ。
Kの心臓の状態は、それほどまでに深刻だったのか。
Kが市内のホテルの部屋で突然死したのだ。
その第一報を受けたのは洋子だった。電話は秘書からだった。
Kは秘書との情事の最中に死んだ。
動転した秘書が、洗いざらい洋子に話したのだった。
それも十分あり得ると考えていた洋子は、いたって冷静に対応した。
彼女がホテルに到着すると、秘書はソファにもたれて泣いていた。
洋子は、自分も動揺しているように振る舞った。
念のため脈を確認した。
完全にこと切れていた。
洋子は落ち着かない素振りで、歩きまわった。
実際には、すべての部屋の状況を確認して回ったのだが。
それが済むと、洋子は秘書のところに戻ってきて、言った。
「大丈夫よ。とにかく、このことは表沙汰にはできないの」「分かるわね」
秘書は、ただ一回頷いただけで、声も出せずに震えていた。
「でもね。私じゃ、到底これは隠し通せない」「お義父さまの力が必要だわ」
そう洋子が秘書に問いかけると、秘書は目を見開いて嗚咽を漏らした。
相当の恐怖だったらしい。そのまま昏倒してしまいそうだった。
それでも、義父への連絡は、当然秘書にしてもらった。
話の仕方は洋子が考えた。
手回しは、洋子が想像していたよりもずっと早く広範囲だったのだろう。
死亡診断書の死因は心タンポナーデ、原因急性心筋梗塞、とされた。
間もなく、秘書には暇が出された。
相当の金が渡ったはずだった。
Kの死は、まるで無かったことのように静かに片づけられた。
些細なことかもしれないが、もう一つ無かったことにされたことがあった。
それは、ホテルの洗面台におかれた何種類かの錠剤だった。
それらは、洋子がホテルから持ち去った。
Kの密葬が終わって、初七日を過ぎたころ、洋子は願い出て暇をもらった。
洋子は実母と一緒に、四国八十八ヶ所霊場のお遍路に出た。
ヒカルと、父のためだ。
ようやく喪に服せる。
誰にも邪魔されずに、供養を初められる。
誰も洋子の心の中は覗けなかったが、洋子は静かな気持ちだった。
しかし、開放された心は、底なしの悲しみに続いていた。
心の底に溜まった、良くない澱(おり)のようなものが、霊場をめぐるうちに一つ一つ崩れて溶けていくようだった。
その度ごとに、洋子の深い悲しみは、裸にされていくのだった。
傷ついた心の粘膜がさらされていくのだ。
それは耐え難い苦しみだった。
その痛みに耐えることすべてが修行の日々だったと、と洋子が知ったのはだいぶ後のことだった。
PTSDは、時に被害妄想を伴う。
そのせいかどうか定かではないが、洋子は、時間が経つにつれて、息子の死は夫のせいだ、と考えるようになっていった。
Kが市議選に立候補することは、結婚前から話としては出ていた。
一方で、県議の父親は引退を決めていた。
引退するには早い、という周りの声は大きかったが、本人の意思は固かった。
自分は県議止まりだ。
それ以上にはいけない。
だとしたら、早いうちに息子を政界に入れて、自分は後ろ盾になる。
そう決めたようだった。
そんな考え方のもと、すでに大学四年生くらいから、Kは父親の秘書見習いをしていた。
洋子の方は、詳しい事情は知らなかったが、とにかく自分の夫となる人が政界に進むことを単純に誇らしい、と思っていた。
アナウンスの勉強をして、学校卒業後はときどき結婚式の司会の仕事をしていた洋子である。
私も何か役に立つかもしれない。
そう、勝手に想像していた。
しかし、実際は、ほとんど洋子が出る幕はなかった。
Kの出馬を四年後に控えた年に結婚をした。
その翌年には、今の秘書が来て、事務所に使うためのマンションも用意された。
マンションといっても、Kの父親の持ち物だ。
代々、地元の名家であるKの家は、多くの土地、不動産を持っていた。
それに伴って、Kが自宅に帰ることが少なくなっていったが、洋子は、そういうものなのだろう、と思っただけだった。
家には、義母と洋子と幼いヒカル、そして家政婦だけがいる、そういう暮らしになった。
Kよりも、その秘書のほうが家に来ることが多かった。
Kの身の回りのもの、特に薬を取りに来ていた。
Kは、祖母の隔世遺伝で、コレステロール値がもともと高かった。
それに、学生時代に続けてきたスポーツもぱったりやらなくなったことで、太り気味だった。
血圧も少し高めで、かかりつけ医から何種類かの薬を処方されていた。
かかりつけ医に行くのも、薬をもらってくるのも、洋子だった。
ところが実質、Kの身の回りの世話をしているのは秘書だった。
秘書は、地元の女子大を卒業したばかりだった。
洋子のことを、若奥様、若奥様と慕っているように振る舞った。
洋子の方も、夫のことがあるので、感謝しているように接していた。
それでも、二人とも牽制しあっているのは、明らかだった。
そのうち、知り合い経由で、秘書とKが職務上だけの関係ではないことがなんとなく伝わってきた。
洋子は、別段、そのことに関して驚きもしなかった。
薄々感じていたからだ。
政治家とはこういうものか、と洋子は改めて知らされただけだった。
同時に、疑念がまた蘇った。
本当は今の秘書の立場を自分が担うはずではなかったのか。
それとも初めから、妻は奥に控えているものなのか。
事実、義母がそうであるように、自分も後者で決まっていたのかもしれない。
しかし、どうしても洋子は考えてしまう。
自分がヒカルのことで、Kを裏切ってしまったからだろうか、と。
例えそうだとしても、Kは家庭に無関心過ぎた。
そんなKに対して、普通なら、周りが忠告するのではないか。
少なくとも、周りはヒカルがKの実子と疑わないのだから。
しかし、そんな気配はどこにもなかった。
考えてみれば、義母ですら、感情的というよりは理性的に孫のヒカルに接していた
甲斐甲斐しく自ら子育てに世話を焼くことはほとんど無かった。
おおかたは家政婦任せだった。
「洋子さん、もう一人家政婦を雇ったほうがよろしいかしら」
実際、そんなことを言ったこともあった。
義母には悪気はない。
それが彼女の愛情の掛け方なのだ。
洋子が育ってきた環境とは、違うのだ。
それも表面的なことではなく、根っこのところでだ。
ただ、精神が健康な状態であれば、そういうことは仕方がないことと、洋子はきっと思えたに違いなかった。
そういうことを振り返る度に、洋子の心は悲しい気持ちで満たされた。
こんな家で、自分はこれからの人生を送っていけるのか。
そう想うと絶望しかなかった。
それだから、ヒカルが二歳になったばかりの頃、Kが心筋梗塞で倒れた時は、正直転機かと思った。
そんなことを考えないといけない自分にも、洋子は失望した。
人の死を願うことなど、それまでの人生では一度もなかった。
しかし、事実、夫の死を期待した自分がいた。
それは否定のしようがなかった。
今の境遇から逃れるためには、「それ」が必要なのではないか、と。
正直なところ、死ねばよかったのに、と思う異常な自分がいた。
すでにあの頃から、自分は病んでいたのかも知れない。
そう振り返ったのは、だいぶ後のことだった。
結局、Kは一命を取り留めた。
そこに、あの大地震が来たのだ。
命が引きかえられた、と洋子が考えたとしても、誰に責められようか。
さらに、それに輪をかけるようなことがあった。
後になって洋子の耳に入ったことだが、Kは『あの日』秘書とハワイに居た。
そういうことだったのか。
「洋子さん、親子水入らず、ご実家でゆっくりされてきたら」
選挙の年が明けて、支援者へのあいさつ周りがひと段落すると、義母は洋子にそう提案した。
だから、陽子はヒカルを連れて実家に帰ったのだ。
自分が望んでそうしたのではない。
義母との、そういうやりとりを想い出す度ごとに、呼吸が乱れた。
過呼吸だった。
その発作は、憎しみの芽生えと共に和らいでいくのだった。
ヒカルは、あの家に殺されたのだ。
自分は、一刻も早く、あの家から逃れなければならない。
そうだとしたら、自分は、どうしなければならないのか。
洋子は、そう考えるようになっていった。
皮肉なことに、憎しみが洋子に冷静さと、生きる力を与えたようだった。
しかし、実際には、それは精神の病の成せる技だった。
死ねば良かったのに。
冷たい炎が洋子の心に灯り、小さいながら消えることはなかった。
洋子は、Kの病気について、調べるようになった。
それは周囲には、献身的な政治家の妻として映った。
実際、洋子もそう成りきっていた。
読書量が増えた。
義母は鼻高々だった。
将来を有望視される息子と、献身的な妻。
妻の教育係は自分だ、と自負していた。
洋子はヒカルの死から立ち直った、と義母は思ったのかもしれなかった。
「洋子さん、そろそろ頑張ってみない」
義母は、子作りのことを言っていた。
もちろん、いつも通りの、彼女の優しさから出た言葉で、他意はないのだ。
しかし、当時の洋子には、そういう心の余裕はなかった。
思いがけない言葉に、洋子は久しぶりに動揺した。
それでも、なんとか言葉を返した。
「そうですね、お母様」「Kさんに相談してみますわ」
そう言った。
でも、相談はしなかった。するわけがなかった。
義母は実の息子が秘書を愛人にしていることを知っているはずだった。
それで、夫婦の関係が普通に続いている、とでも思っているのだろうか。
洋子の動揺は、さらに強い怒りに変わっていった。
自室に戻った洋子は、気を鎮めようとソファに横になって読みかけの本を手に取った。
しかし、活字は頭に入ってこなかった。
心の中の青白い炎が一段階大きくなっていくのが分かった。
そんなことがあって数日後、秘書がKの薬を取りに来た。
東京へ出張する、と言う。
「最近、夫は特に変化はないですか」
洋子は秘書に薬を渡しながら、聞いた。
「特に変わりはないのですが、だいぶお疲れのようです」
どういう風に疲れているのか、洋子には分からなかった。
「そう、食欲はいかが」
「ええ、そこは問題はないのですが、相変わらず野菜がお嫌いで」
「そうなんですよね、何か栄養剤とか、そういうものを考えないといけないかしらね」「ちょっと先生にも相談してみますわ」「選挙まで間もないものね」
疲れている時に、どういうものが有効か、などと言うことは誰かに聞かなくても洋子にはだいたい分かっていた。
それだけではない。
Kの持病にとって、良いこと、そして悪いことも分かっていた。
医師から処方される薬の効果、飲み合わせなどもだ。
そういうことは、洋子の性格上、普通のことだった。
洋子はビタミン剤の類も手配することにした。
予定されていた、統一地方選挙は喪に服さなかった。
二か月遅れただけだ。
喪に服さないのは、選挙に関係する人たち、洋子も同じだった。
父親と我が子を亡くしたのに、だ。
あり得ない。
しかし、それが現実だった。
苦難を乗り越えた、ということが票を集めたか、Kは初当選した。
当選がゴールではなかった。
Kは休みなく、多忙な日々が続いていた。
そんなある日、珍しく洋子の方が秘書、いやKの愛人を呼び出した。
「いいビタミン剤をいくつか取り寄せたので」
洋子は、錠剤とその処方の仕方を紙に書いて秘書に渡した。
その時は来た。
来ないことのほうが確率が高いかもしれないのに。
来たのだ。
誰にも邪魔されずにだ。
Kの心臓の状態は、それほどまでに深刻だったのか。
Kが市内のホテルの部屋で突然死したのだ。
その第一報を受けたのは洋子だった。電話は秘書からだった。
Kは秘書との情事の最中に死んだ。
動転した秘書が、洗いざらい洋子に話したのだった。
それも十分あり得ると考えていた洋子は、いたって冷静に対応した。
彼女がホテルに到着すると、秘書はソファにもたれて泣いていた。
洋子は、自分も動揺しているように振る舞った。
念のため脈を確認した。
完全にこと切れていた。
洋子は落ち着かない素振りで、歩きまわった。
実際には、すべての部屋の状況を確認して回ったのだが。
それが済むと、洋子は秘書のところに戻ってきて、言った。
「大丈夫よ。とにかく、このことは表沙汰にはできないの」「分かるわね」
秘書は、ただ一回頷いただけで、声も出せずに震えていた。
「でもね。私じゃ、到底これは隠し通せない」「お義父さまの力が必要だわ」
そう洋子が秘書に問いかけると、秘書は目を見開いて嗚咽を漏らした。
相当の恐怖だったらしい。そのまま昏倒してしまいそうだった。
それでも、義父への連絡は、当然秘書にしてもらった。
話の仕方は洋子が考えた。
手回しは、洋子が想像していたよりもずっと早く広範囲だったのだろう。
死亡診断書の死因は心タンポナーデ、原因急性心筋梗塞、とされた。
間もなく、秘書には暇が出された。
相当の金が渡ったはずだった。
Kの死は、まるで無かったことのように静かに片づけられた。
些細なことかもしれないが、もう一つ無かったことにされたことがあった。
それは、ホテルの洗面台におかれた何種類かの錠剤だった。
それらは、洋子がホテルから持ち去った。
Kの密葬が終わって、初七日を過ぎたころ、洋子は願い出て暇をもらった。
洋子は実母と一緒に、四国八十八ヶ所霊場のお遍路に出た。
ヒカルと、父のためだ。
ようやく喪に服せる。
誰にも邪魔されずに、供養を初められる。
誰も洋子の心の中は覗けなかったが、洋子は静かな気持ちだった。
しかし、開放された心は、底なしの悲しみに続いていた。
心の底に溜まった、良くない澱(おり)のようなものが、霊場をめぐるうちに一つ一つ崩れて溶けていくようだった。
その度ごとに、洋子の深い悲しみは、裸にされていくのだった。
傷ついた心の粘膜がさらされていくのだ。
それは耐え難い苦しみだった。
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