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真一と晶子が帰還してから、約一年が経った。
梅雨は毎年、雪崩のように明ける。
そして一気に夏がくる。
鉄砲通りは、勢い活気づき、海の予感に満ちていた。
他県ナンバーの車両が増え、地元の人たちも冬眠から覚めたように海辺に出てくるようになっていた。
シアター・バー「穴蔵」の店の前は、着飾った女たちでごった返していた。
彼女らは、ほぼ全て晶子の知人だった。
プレオープンのセレモニーの時間に遅れたことで、店内スペースに入りきらなかったのだ。
「今日、ようやくこの店がオープンできたことは、ひとえに皆様のおかげだと思っております」「オーナー、スタッフ一同、心から感謝申し上げます」
「よお、社長、頑張れ」
掛け声の主は、鳶の親方だった。
今日は慣れないスーツに身を包んでいた。
棚田状のフロアのテーブル席には、総勢四十名近い招待客が所狭しと座っていた。
奥山と中村が、グラスにシャンパンを注いで回っていた。
「これからも、どうかご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます」
ぎこちない挨拶を終えた真一は下がり、続いて晶子が中央に出てきた。
真っ赤なワンピース姿だった。
「皆さま」「本日はようこそ、お越しくださいました」「ありがとうございます」「只今、店長から堅苦しい挨拶がありましたし、同じことを繰り返し申し上げても仕方がありませんので、僭越ながら、わたくしの方からは乾杯の発声をさせていただきます」「今宵は、皆様にとりまして、素敵な夜でありますように」「乾杯」
グラスが鳴る音がして、拍手と歓声が沸き起こった。
真一が退院した日の朝、飛行機で東京に戻った二人は、晶子の定宿の一つである品川のホテルで退院祝いをした。
晶子の死亡説は、元夫がでっち上げた嘘だった。
張り紙も、嫌がらせの一つだった。
元夫が、苦し紛れの抵抗をしている間は、晶子がほかの男性とコンタクトを取ることを、彼女の弁護士が止めていた。
元夫は、自宅で晶子が使っていたパソコンすら、パスワードを突破しようと試みたし、自宅に残されたあらゆる荷物を調べたらしかった。
真一は、自分が早合点したことを反省するとともに、晶子が実際は生きるための治療をしていたことを知ると、軽率に自らの命を危険にさらしたことを、心から恥ずかしく思った。
しかし、晶子は、そのことについて、一切真一を咎めなかった。
晶子は、離婚問題がようやく片付き、店の開店に専念できることを心から喜んだ。
「治療の方は、どうしていくの」
「今回のパリでの検査と、試験薬の投薬で、だいぶ先生もわたくしの病気について、解明できたことが多いらしいの」
「それは、完治するということ」
「おそらく、わたくしが生きているうちにわたくしの病が完治するような治療方法は見つかることはないでしょうね」「でも、うまく付き合っていけるはずだわ」
「そう・・・」
真一は、声を沈めた。
「また、そんな怖い顔をなさる」
晶子は、ベッドをから立ち上がり、テーブルを回って、真一の方に来て、立ったまま、腕を真一の肩に回した。
「それに、やはりわたくしの病の回復には、PTSDが障害になっていることが改めて明らかになったの」「先生は、それがあるから、最終的に日本への帰国を了承してくれましたの」「心の支えになってくれる人のそばがよろしいと」
「もう、行かなくていいのか」
「いえ、時々は行かないといけないわ」「そういう契約になっていますの」「最初、わたくしが勝手に病院を出て行こうとしたものだから、大変」
晶子は、そう言うと大げさに笑った。
「契約違反だって」「契約の条項を一部変更するのにも時間がかかりましたの」「それで、真一さんにご連絡を差し上げるのが遅くなって、本当に申し訳ございませんでした」
晶子は、屈んで、真一の頬にキスをした。
「でも、もうすべてクリアになったの」「だから、そのような怖い顔をなさらないで」
真一は頷いた。
「さあ、真一さん、お風呂に入りましょう」「どうせ、また、酷く凝っていらっしゃるんでしょう」
そういうと、晶子はいつかのようにバスルームに入っていった。
記念すべき初回上映作品については、真一と晶子との間で激論が交わされた。
しかし、結局は合意に至ることは無く、どのみち二人がリスティングした作品は、遅かれ早かれ上映する運命だから、ということで、最終決断は真一に委ねられた。
真一は、作品を四段階で自分なりにランクをつけていた。
それは気に入った順から「◎、○、△、×」だった。
真一は、「◎」の作品を再度並べてみた。
真一は悩んだ挙句、結局リストの一番最初に「◎」を付けた作品を記念すべき初回上映作品とすることに決めた。
その映画は、二〇〇七年のカンヌで最優秀脚本賞を受賞したトルコ系ドイツ人監督の作品で、脚本も監督が手掛けた作品だった。
絡まり合う三つの家族のさまざまな愛の形を描いた作品だった。
予想に反して、パーティに参加したほとんどの客が作品を鑑賞してくれた。
上映後、地元の大学の映画研究会の学生から建築関係者、田園調布のセレブまで、普段交流などありえない人たちが、一つの映画について語り合うという、不思議な展開となった。
しかし、それは、真一にとっては狙い通りの展開だった。
最上段のテーブルで一際大きな声で話しているのは、晶子だった。
「穴蔵」の夜は、まだしばらく続きそうだった。
梅雨は毎年、雪崩のように明ける。
そして一気に夏がくる。
鉄砲通りは、勢い活気づき、海の予感に満ちていた。
他県ナンバーの車両が増え、地元の人たちも冬眠から覚めたように海辺に出てくるようになっていた。
シアター・バー「穴蔵」の店の前は、着飾った女たちでごった返していた。
彼女らは、ほぼ全て晶子の知人だった。
プレオープンのセレモニーの時間に遅れたことで、店内スペースに入りきらなかったのだ。
「今日、ようやくこの店がオープンできたことは、ひとえに皆様のおかげだと思っております」「オーナー、スタッフ一同、心から感謝申し上げます」
「よお、社長、頑張れ」
掛け声の主は、鳶の親方だった。
今日は慣れないスーツに身を包んでいた。
棚田状のフロアのテーブル席には、総勢四十名近い招待客が所狭しと座っていた。
奥山と中村が、グラスにシャンパンを注いで回っていた。
「これからも、どうかご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます」
ぎこちない挨拶を終えた真一は下がり、続いて晶子が中央に出てきた。
真っ赤なワンピース姿だった。
「皆さま」「本日はようこそ、お越しくださいました」「ありがとうございます」「只今、店長から堅苦しい挨拶がありましたし、同じことを繰り返し申し上げても仕方がありませんので、僭越ながら、わたくしの方からは乾杯の発声をさせていただきます」「今宵は、皆様にとりまして、素敵な夜でありますように」「乾杯」
グラスが鳴る音がして、拍手と歓声が沸き起こった。
真一が退院した日の朝、飛行機で東京に戻った二人は、晶子の定宿の一つである品川のホテルで退院祝いをした。
晶子の死亡説は、元夫がでっち上げた嘘だった。
張り紙も、嫌がらせの一つだった。
元夫が、苦し紛れの抵抗をしている間は、晶子がほかの男性とコンタクトを取ることを、彼女の弁護士が止めていた。
元夫は、自宅で晶子が使っていたパソコンすら、パスワードを突破しようと試みたし、自宅に残されたあらゆる荷物を調べたらしかった。
真一は、自分が早合点したことを反省するとともに、晶子が実際は生きるための治療をしていたことを知ると、軽率に自らの命を危険にさらしたことを、心から恥ずかしく思った。
しかし、晶子は、そのことについて、一切真一を咎めなかった。
晶子は、離婚問題がようやく片付き、店の開店に専念できることを心から喜んだ。
「治療の方は、どうしていくの」
「今回のパリでの検査と、試験薬の投薬で、だいぶ先生もわたくしの病気について、解明できたことが多いらしいの」
「それは、完治するということ」
「おそらく、わたくしが生きているうちにわたくしの病が完治するような治療方法は見つかることはないでしょうね」「でも、うまく付き合っていけるはずだわ」
「そう・・・」
真一は、声を沈めた。
「また、そんな怖い顔をなさる」
晶子は、ベッドをから立ち上がり、テーブルを回って、真一の方に来て、立ったまま、腕を真一の肩に回した。
「それに、やはりわたくしの病の回復には、PTSDが障害になっていることが改めて明らかになったの」「先生は、それがあるから、最終的に日本への帰国を了承してくれましたの」「心の支えになってくれる人のそばがよろしいと」
「もう、行かなくていいのか」
「いえ、時々は行かないといけないわ」「そういう契約になっていますの」「最初、わたくしが勝手に病院を出て行こうとしたものだから、大変」
晶子は、そう言うと大げさに笑った。
「契約違反だって」「契約の条項を一部変更するのにも時間がかかりましたの」「それで、真一さんにご連絡を差し上げるのが遅くなって、本当に申し訳ございませんでした」
晶子は、屈んで、真一の頬にキスをした。
「でも、もうすべてクリアになったの」「だから、そのような怖い顔をなさらないで」
真一は頷いた。
「さあ、真一さん、お風呂に入りましょう」「どうせ、また、酷く凝っていらっしゃるんでしょう」
そういうと、晶子はいつかのようにバスルームに入っていった。
記念すべき初回上映作品については、真一と晶子との間で激論が交わされた。
しかし、結局は合意に至ることは無く、どのみち二人がリスティングした作品は、遅かれ早かれ上映する運命だから、ということで、最終決断は真一に委ねられた。
真一は、作品を四段階で自分なりにランクをつけていた。
それは気に入った順から「◎、○、△、×」だった。
真一は、「◎」の作品を再度並べてみた。
真一は悩んだ挙句、結局リストの一番最初に「◎」を付けた作品を記念すべき初回上映作品とすることに決めた。
その映画は、二〇〇七年のカンヌで最優秀脚本賞を受賞したトルコ系ドイツ人監督の作品で、脚本も監督が手掛けた作品だった。
絡まり合う三つの家族のさまざまな愛の形を描いた作品だった。
予想に反して、パーティに参加したほとんどの客が作品を鑑賞してくれた。
上映後、地元の大学の映画研究会の学生から建築関係者、田園調布のセレブまで、普段交流などありえない人たちが、一つの映画について語り合うという、不思議な展開となった。
しかし、それは、真一にとっては狙い通りの展開だった。
最上段のテーブルで一際大きな声で話しているのは、晶子だった。
「穴蔵」の夜は、まだしばらく続きそうだった。
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