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 逃した魚は大きい、という諺は変なんだよ、と守は考えながら、田んぼから一段上がった林道をさらに上流に歩いていった。
 逃げたわけだから分かるわけがない。
 カーブの深瀬で、守は大型の山女魚を逃した。
 昔も何度か、その深瀬では魚を取り逃がしたことがあった。
 釣り用の腰まであるゴム長靴は、平らで硬い道を歩くのには適さない。歩を進めるたびに、ゴボゴボ音がして動きづらく、歩きにくかった。
 もうひとつのカーブを左に曲がった辺りだろうか、と守は訝った。
 だいぶ歩いてきたように感じたからだった。
 記憶はおおよそ合っていたようだった。
 そのカーブを左に折れ、次は右カーブ、そのカーブの終わる頃、幅二メートルくらいの小さな石橋が見えてきた。
 林道の左側から川幅一メートルくらいの枝沢が流れ込んでいた。 
 川底は砂で、深さは膝までもなかった。
 しかし、この沢は五〇メートルも上流に行けば、水流も増え、その先には絶好のポイントである滝があった。
 小さな流れの落ち込みが、三メートルおきぐらいで続いており、守は丁寧に一カ所ずつ、餌を流した。
 ひとつ前の落ち込みに立ち、小袖竿を伸ばしていく。
 落ち込みの渦を巻いている辺りにミミズを落とし、不自然にならないように、流す。
 その日の魚の活性状況にもよるが、だいたいは、落ち込みから一旦深みになって、徐々に浅くなった部分に餌が上がって流れてくるタイミングで魚は餌に食らいつくことが多かった。
 それを繰り返しながら、守は枝沢を上流に上がって行った。
 この枝沢は、最後のポイント、滝まで行っても、全長百メートルくらいのものだった。
 中盤に、割と深めの右カーブの瀬があった。
 その日、ポイントを三カ所ほど釣り上がっても、引きは来なかった。
 いつもと違うと守は感じたが、それは魚の活性ではなく別の理由からだと、直感的に察していた。
 熊か、先客かだろう、と。
 守は、熊よけの鈴をつけていたが、できるだけ、音がなるように歩き、さらに周囲によく目を配りながら上がって行った。
 中盤の深瀬で、守は、ようやく魚影を確認できた。
 守は、一旦下流に逃げ、沢の右岸に上がってしゃがんだ。
 瀬の川底は、肌色の岩だった。
 それが瀬の左の岸壁に続いていた。
 守は腰をかがめて、少し上流側に上がり、ちょうど瀬の中間地点の位置から竿を伸ばし、瀬の始まりから餌を流した。
 狙いどおり、瀬の後半であたりがあった。
 魚は、餌を咥えると一旦下流に泳ぎ、守が合せると、今度は上流に走った。
 守は竿を立てて、しばらく魚を泳がせた。
 合わせた際に一瞬見えた背びれから、良型であることが守には分かった。
 少し泳ぎが弱まった頃を見計らい、守は竿を少し畳んで、瀬に近づいた。
 そして、竿全体と守自身が岸側に下がることで、魚を岸に引っ張り上げた。
 魚が、砂地を擦るようにして水から姿を現し、岸の石の上に滑り上がってきた。
 一尺近い、体厚のある山女魚だった。
 守は、それを布製の小型クーラーにキープした。
 深瀬の先は、流れが左に折れ、その上流は、瀬からはブラインドになっていた。
 守は、沢の右側の林を迂回するようにして、岸を一段上がった。
 登り終えて、顔をあげた守は、驚き、小さな声を上げた。
 次の瀬を裸の人間が上流に向かってゆっくりと歩いていたのだ。
 守は、金縛りのようにその場に立ち止まった。
 女だった。
 濡れた髪は黒く、肩甲骨の下の辺まで伸びている。
 肌は、オイルを塗ったように艶があった。
 それは少し緑がかっていて、人間の肌と言うよりは岩魚のそれに似ていた。
 守は、しばらく、女の肌を凝視した。
 それはグロテスクというよりは、不思議な妖艶さをたたえていた。
 女は、守には全く気付いておらず、時々、川にしゃがんだり、水につかったりしながら、上流に歩いて行った。
 鼻歌のようなものも聞こえた。
 女は、決して遭難者には見えなかった。
 辺りには撮影クルーも見当たらなかったので、何かの撮影というわけでもなかろう。
 守は為すすべを見いだせないまま、眼だけが女にくぎ付けになっていた。
 その女と守の距離が、鼻歌が聞こえないくらいまで離れた時、守は弾かれるように、回れ右をして沢を下り始めた。
 女の肌の残像が、守の脳裏からしばらく離れなかった。
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