聖獣

鈴木 了馬

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聖獣

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 ジャン・コクトーと、彼の飼猫に



 また、嫌な音。
 前の音の時は、新しい女が立って行った。
 今度は、主人の男が立って行く。
 僕はうつ伏せのまま、顔を上げ、彼の方を見やった。
「Allo(アロー)」
 彼がかすかに体を強張らせる。
 一刹那いちせつな
 彼の頭の天辺から白いもやのような物が立ち上がった。
 それは初めてではない。
 回数は覚えていないが、何度かある。
 しかしそれは、これまでの「それ」とは、少し違った。
 そんな気がした。
 靄は、彼の頭上に、すーっとのぼって、次の瞬間、S字を描き、寝室から廊下へ出ていった。
 僕は追いかけようと思い、彼のベッドから降りた。
 彼の視線が、その左端で僕を捉えたのが分かったが、僕は気にせずに靄に付いて行く。
 靄は、廊下を通り、階段を降りた。
 靄の足取りは軽く、寄り道はせずに玄関の扉を通り抜けた。
 僕は扉にぶつかるのを覚悟して、靄を追った。
 しかし何事もなく、僕も扉を通り抜けて、外に出た。
 薄曇りの秋だった。
(一九六三年十月十一日、金曜日、午前八時過ぎ)
 僕は一瞬だけ、自分の手を見ようと下を向いた。
 腕はなかった。
 白い靄だった。
 僕も靄だった。
 つまり、靄は僕の主人になった。
 僕は引き続き、新しい主人の後を付いて、ロー通りを歩いていく。
 いつも通り、人気がない。
 しかし、どういうわけか声がする。
(あの絵、見たこと無かっただろ)
 主人が誰かと話していたのだ。
 見上げると、もう一つの背が低い靄が、主人と並んで歩いていた。
(ええ、どんな絵)
 かすれているけど、良く通る声。
 女だ。
 エディット・ピアフ。
 なぜか、彼女のことが、僕には分かった。
 路が細くなる。
 まっすぐ付いていく。
 主人と通い馴れた路。
 右側の石塀。
 石畳。
 やがて右に緩やかなカーブ。
(コンサートはどうだった)
(盛況。たくさん来てくれたわ。でも)
 彼女は言いよどむ。
(大丈夫さ。君なら、心配ないよ、きっと。また、前のように上手く歌えるさ)
(そんな、ありきたりの慰め、要らないわ)
(そうか。そうだな。でも、特別さ。なあ、今日は確かに特別の日に違いないだろ)
(そうね。でも、もう本当に心配ないの。もう歌わなくて良くなったから。これで、あの人の元に行けるから、もう、どうだって良いのよ)
 路は、交差路を過ぎ、そして広場に出た。
(あと半分だけど、ちょっと休むかい)
(そうね。何だが疲れたみたい。大して歩いてないのに)
 僕らは、広場の南東の木陰に並んで座った。
(よく来てくれたね)
(いいえ、私、そんなに行くところが無いから、他に)
(リジューには行ってきたのかい)
(ええ、もちろん、と言うか、気がついたらテレーズ様の礼拝堂に居て、それで、ようやく自分の死を理解したの)
(やっぱりね。そう想った)
(ねえねえ、あそこ)
 彼女が西の空を指差した。
 雲の切れ間から、光が一筋、差し込んでいる。
 珍しくもない光景に、彼女ははしゃぎかけて、止めた。
 そして、沈黙。
 長い沈黙。
 それは、名残りか。
 最後の。
(さあ、もう一息歩こうか)
 不意に主人が言って、皆腰を上げた。
 再び同じ路をまっすぐ、前のように歩いて行く。
 歩き馴れた路だ。
 歩き馴れた路。
 主人と僕の路。
 皆、黙って歩いた。
 それぞれに何か想うところがあるのだろう。
 路はまっすぐのびている。
 もはや、迷うことなど無いのだ。
 それぞれに。
 僕は、主人に付いていき、彼女は並んで歩く。
 しかし、不意に主人が僕を抱き上げた。
 いつものように。
 いや、いつもよりも、さらに濃厚に。
 愛撫するように。
 きつく。
 そして、柔らかく。
 僕は、それがずっと続けば良いと願った。
 呆れる。
 気まぐれな僕がそんなことを願うなんて。
 一瞬でも、そんな人間臭い想いをいだくとは。
 しかし、僕は抗うことはせずに、主人の平穏の中に居た。
 居ようと願った。
 噛みしめるように。
 空が広くなった。
 建物が少なくなったのだ。
 もうすぐだ。
 通い馴れた路なのだ。
 僕と主人の。
(さあ、着いたよ)
 それは、路の右側に、ぽつんと建っていた。
 シャペル・ソン・ブレーズ・ディス・サンプル(Chapelle Saint Blaise des Simples)。
(可愛らしいわ)
 主人は、まるで、自分の部屋のように、彼女を礼拝堂に招き入れた。
(はああ、素敵、素敵だわ)
 彼女は礼拝堂の内部をぐるりと見渡した。
 漆喰壁に、線と薄い彩色で描かれた壁画。
 正面は、キリスト復活。
 周りには、聖ブレーズの薬草。
 天に届くように。
 何本も。
(さあ、行こう)
 主人が、僕を床に置いた。
(今、行けるのよね)
(ああ、そうだよ)
 別れの時だった。
 主人が僕に目配せをした。
「ミャア」
「大丈夫。いつも一緒だから(Je reste avec vous)
 勢い、二つの靄は、天井に上がって行った。
 僕はそれを見上げる。
 そして、いつまでも見上げていた。
 ずっと、いつまでも。
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