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相模下向の長歌「あずまくだりは」
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それは長く険しい道のりでありました。
ただ、大和の都から、駿河の国にたどりくだけでも、安穏な道では決してないのであります。
まさに、日本武尊が東征した、その道を、わたくしは参ったのでございます。
都に、老齢の父と、母を残して。
父は、気丈にも笑顔で見送ってくれました。
その御姿は目に焼き付いております。
母は、珍しく気弱な娘に、子を授かる良い機会、と励ましてくださいました。
そして、あの方とも疎遠になってしまうことでしょう。
別れてはふたとせみとせ逢はざらん
箱根の山のほどのはるけさ
(『定頼集』に選歌)
愛しいあの方(藤原定頼)がお別れの歌を贈って下さいました。
この歌を口にして、本当に遠いところに行ってしまうのだな、という気持が胸に迫って参りました。
この贈答の歌へのお返しは、だいぶ後にはなってしまいましたが、ついに走湯権現への参詣が叶った折、詠じたものを文にお付けしてお贈りいたしました。
明け暮れの心にかけて箱根山
ふたとせみとせいでて立ちぬる
(堂々と参詣したいと思っていた走湯権現に箱根の山坂を越え、二、三年来の念願が叶って出かけてまいりました)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]雑「箱根山」として選歌】
それにしましても、足柄坂に行くまでも大変な道のりだったのですが、ようやくたどり着いたのは、まさに伝説の足柄坂(足柄峠)にございました。
ヤマトタケルが出会ったような白い鹿は最早おりませんが、山賊の類が現われては、旅人を襲うということにござりまして、夜の明けるや明けぬ、薄暗いうちに出立し、日暮れ前には越え切らぬといけませぬ。
それでも、万が一に備えまして、糧は十分に持参しての坂越えにございました。
ほんとうに、あの坂越えのときに覚えた体を覆い尽くすような恐ろしさは、生涯忘れることは無いでしょう。
くやしさも忘られやせむ足柄の
関の辛さをいつになりなむ
(夫に強引に東の国につれてこられた悔しさも、足柄の関のつらい坂道も、何時になったら忘れられるでしょうか)
【のちに、『走湯ふたたび奉納百首』 [歌題]雑「伊豆」として選歌】
そういう旅路でございますから、無事に足柄平野が目に入ってきた時には、日本武尊の「吾妻はや(わが妻よ)」と詠んだように、また万葉の防人のように、愛しき人の名を叫びたいと思ったくらいでございます。
しかし、そのような安堵もつかの間のことにございました。
この足柄平野は、実に、何も無き所にございます。
あらためて、遠く都を離れてしまったことを感じずには居られませんでした。
相模の国は、東国では最も早くに栄えた地にござります。
海老名の国分寺、国分尼寺をはじめ、壮大荘厳な寺院が多ございます。
しかし、先ごろの戦乱、飢饉などが故に、廃れ、また焼かれるなどして、荒れ果ててしまいました。
この頃は、師長国(相模国西部)の鞠子(酒匂)河の河口にほど近い、千代の観音様も同じように廃れてしまいました。
それを横目に見ながら、東海道に入り、やがて時折、海原を右に見ながらの道にございます。
大磯を越え、波の穏やかな浜にて、足を休めたものです。
その折にも、遠くに島影をうっすら浮かべるだけで、ただただ彼方に広がる海を眺めながら、郷愁に誘われるばかりで、風情を感じる余裕もないわたくしでした。
歩みを再開して、再び街道を進み、やがて相模の河、河口の港が見えてきました。
そこから一路、相模河を遡るように河沿いの道をしばらく西に歩き、ようやく大住(現、平塚市)の国府にたどり着いたのでございます。
寛仁五年(一〇二一年)の三月の夕暮れのことにございました。
それは、並々ならぬ出迎えの人でありました。
思えば、それも無理からぬ事。
都にては、下級の貴族ですが、この相模にては、夫も国の主にござります。
わたくしも、ここでは受領の妻、すなわち、国の主人の妻。
それまでは、「乙侍従」と呼ばれ、宮様のお側に仕え、お世話をしてまいりましたが、相模国にては、反対に女房たちに世話をされる立場となったのです。
はじめは、戸惑うことばかりにございました。
それに受領と言いましても、実務は郡司が執り行いますので、夫とて、忙しくすることもございません。
いわんや、その妻をや、なのでござります。
母が、子作りを、と言った訳がようやく分かった気がいたしました。
そして、夫があの方(定頼)からわたくしを引き離すには、相模国に同伴させることが最も功を奏すと考えたわけも思い知らされました。
そして、思い知ったのは、それに留まることではございませんでした。
夫は、私領を増やすことに心を燃やし、連日のように遠出する日々を送ることに成るのです。
そして、その頃です。
ついに一番恐れていた知らせが都から参ったのでございます。
父の死は遠からずのことと、分かっておりましたが、それでも、信じることを拒みました。
血の繋がりはなくとも、わたくしを大切に育ててくださいました。
最期に、いま一度、お会いしとうござりました。
憂き世ぞと思ひすつれど命こそ
流石に惜しきものにはありけれ
(辛いこの世で、生きていても仕方がないと、自らのことは心の内に見捨てるけれど、命はやはり惜しいものなのですねえ)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]命を申す「憂き世」として選歌】
悲しみは長く続きましたが、そう悲しんでばかりはいられない、と考え始めた時に、今度は残された母のことが気がかりで仕方ありません。
都なる親を恋しと思ふには
いきてのみこそ見まくほしけれ
(都に住んでいる親を恋しく思うにつけては、ただ無事に命あって都へ帰り、もう一度会いたいものです)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]命を申す「都」として選歌】
わたくしは、居ても立っても居られず、神にすがるしか無かったのでござります。
しばらくしまして、相模の国にて由緒ある、社、寺院に足を運ぶようになりました。
仏とも神とも頼むしるしには
永らへ思ふ事を叶へよ
(そこかしこの寺院や社を、神仏の区別なく、あがめて、お祈りしているのですから、どうか私の願いをお叶えください)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]思ひ「神仏」として選歌】
そうした中で、御前様、御前様と女房たちが何かと気遣いが絶えません。
相模国の女の優しさに触れ、女房たちとも絆を深めたことにござります。
そうして暮らす内に、わたくしも徐々に相模の地に愛着を持つようになっていったのでござります。
雲かかる山の桜はおしなべて
おもしろくこそ中に見えけれ
(雲のかかっている山に咲く桜は、雲の中に桜色にかすんで、山全体がなんてすてきに見えるのでしょう)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]季春「桜」として選歌】
我がせこがくばるひき苗おくながら
白きや田子の裳裾なるらむ
(農夫が分け配る引き苗を、妻たちが田に植えおいていながらも、汚れないで白く見えるのは、田子の裳裾なのでしょうか)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]初夏「苗」として選歌】
叔母さま(和泉式部)が、相模下向に際して、わたくしに叱咤した訳がようやく分かったのは、その頃にござります。
「乙や、歌人として名を挙げたいのであれば、したたかに成らぬといけませぬ。とくにおなごはのう」
はじめ、若きわたくしは、その訳が分かりませんでした。
叔母は確かに、こう続けました。
「相模に下れば、それは、たいそう時があまりましょう。歌業には好機この上ないのですよ」
この齢(三十七歳)になった今こそ、そのお言葉が懐かしく、有り難く思われます。
その言葉の御蔭で、今のわたくしがあると言っても良いくらいなのです。
夫、子には恵まれない定めではございましたが、誰に打ち明けたこともございませんが、わたくしが、一番に願ったことは、「歌業を極めること」にございました。
わたくしが歌業に勤しむ中、夫は相も変わらず出世のために勢力を使われておりました。
もともと、世渡りに長けた御方なのです。
日を待たずして、早河のあたりを早河牧(現、小田原市一帯)と名付け、私領としてしまわれたのです。
この私領は、のちに、高貴なお方に寄進されました。
それも、出世のため。
そういう才にはとにかく秀でたお方なのです。
ですから、母の言うように、早くお子を設けて、妻としての地位を盤石にすることを、わたくしも願うことにしました。
それも歌業を続ける糧となりましょうから。
氏を継ぎ門をひろめて今年より
富の入りくる宿といはせよ
(家名を継承し、一族を繁栄させて、今年から財産の入ってくる家、と言わせてください)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]さひはひ「氏」として選歌】
たらちめの親の生きたる時にこそ
このこかひあるものとしらせめ
(親が生きているうちにこそ子を産んで、親に孫の顔を見せて生きている甲斐があったと、喜んでもらいたいものです)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]子を願ふ「子・かひ」として選歌】
ところが、そのような願いは、日に日に失望へと変わっていったのです。
夫は、領地だけではなく、新しい通い妻を手にしたのでござりました。
若草のこめてしめたる春の野に
我よりほかのすみれ摘ますな
(私をとじこめて自分のものとしている春の野で、すみれを摘むような気持で、夫にほかの女性に手を出すことをさせないでください)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]中春「すみれ」として選歌】
わたくしは、広い居館に一人、夫を待つ身となりました。
愛しき人から遠ざけられ、夫は帰らない日々を、わたくしは思いもしませんでした。
何ということでしょう。
悔しくも、つらい日々が続いたのでございます。
引きながらうきめのあやめと思ふかな
かけたる宿のつましわかねば
(あやめ草を抜きながら、泥沼のようなつらい道理だと思うことです。五月五日の節句のあやめを掛けてあるのに、その家の夫が私の所に寄りつかず、夫とはわからない状態なので)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]中夏「菖蒲」として選歌】
わたくしは、そういう日々の中で、走湯(伊豆山)権現への参詣を心より望むようになっていったのでございます。
ただ、大和の都から、駿河の国にたどりくだけでも、安穏な道では決してないのであります。
まさに、日本武尊が東征した、その道を、わたくしは参ったのでございます。
都に、老齢の父と、母を残して。
父は、気丈にも笑顔で見送ってくれました。
その御姿は目に焼き付いております。
母は、珍しく気弱な娘に、子を授かる良い機会、と励ましてくださいました。
そして、あの方とも疎遠になってしまうことでしょう。
別れてはふたとせみとせ逢はざらん
箱根の山のほどのはるけさ
(『定頼集』に選歌)
愛しいあの方(藤原定頼)がお別れの歌を贈って下さいました。
この歌を口にして、本当に遠いところに行ってしまうのだな、という気持が胸に迫って参りました。
この贈答の歌へのお返しは、だいぶ後にはなってしまいましたが、ついに走湯権現への参詣が叶った折、詠じたものを文にお付けしてお贈りいたしました。
明け暮れの心にかけて箱根山
ふたとせみとせいでて立ちぬる
(堂々と参詣したいと思っていた走湯権現に箱根の山坂を越え、二、三年来の念願が叶って出かけてまいりました)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]雑「箱根山」として選歌】
それにしましても、足柄坂に行くまでも大変な道のりだったのですが、ようやくたどり着いたのは、まさに伝説の足柄坂(足柄峠)にございました。
ヤマトタケルが出会ったような白い鹿は最早おりませんが、山賊の類が現われては、旅人を襲うということにござりまして、夜の明けるや明けぬ、薄暗いうちに出立し、日暮れ前には越え切らぬといけませぬ。
それでも、万が一に備えまして、糧は十分に持参しての坂越えにございました。
ほんとうに、あの坂越えのときに覚えた体を覆い尽くすような恐ろしさは、生涯忘れることは無いでしょう。
くやしさも忘られやせむ足柄の
関の辛さをいつになりなむ
(夫に強引に東の国につれてこられた悔しさも、足柄の関のつらい坂道も、何時になったら忘れられるでしょうか)
【のちに、『走湯ふたたび奉納百首』 [歌題]雑「伊豆」として選歌】
そういう旅路でございますから、無事に足柄平野が目に入ってきた時には、日本武尊の「吾妻はや(わが妻よ)」と詠んだように、また万葉の防人のように、愛しき人の名を叫びたいと思ったくらいでございます。
しかし、そのような安堵もつかの間のことにございました。
この足柄平野は、実に、何も無き所にございます。
あらためて、遠く都を離れてしまったことを感じずには居られませんでした。
相模の国は、東国では最も早くに栄えた地にござります。
海老名の国分寺、国分尼寺をはじめ、壮大荘厳な寺院が多ございます。
しかし、先ごろの戦乱、飢饉などが故に、廃れ、また焼かれるなどして、荒れ果ててしまいました。
この頃は、師長国(相模国西部)の鞠子(酒匂)河の河口にほど近い、千代の観音様も同じように廃れてしまいました。
それを横目に見ながら、東海道に入り、やがて時折、海原を右に見ながらの道にございます。
大磯を越え、波の穏やかな浜にて、足を休めたものです。
その折にも、遠くに島影をうっすら浮かべるだけで、ただただ彼方に広がる海を眺めながら、郷愁に誘われるばかりで、風情を感じる余裕もないわたくしでした。
歩みを再開して、再び街道を進み、やがて相模の河、河口の港が見えてきました。
そこから一路、相模河を遡るように河沿いの道をしばらく西に歩き、ようやく大住(現、平塚市)の国府にたどり着いたのでございます。
寛仁五年(一〇二一年)の三月の夕暮れのことにございました。
それは、並々ならぬ出迎えの人でありました。
思えば、それも無理からぬ事。
都にては、下級の貴族ですが、この相模にては、夫も国の主にござります。
わたくしも、ここでは受領の妻、すなわち、国の主人の妻。
それまでは、「乙侍従」と呼ばれ、宮様のお側に仕え、お世話をしてまいりましたが、相模国にては、反対に女房たちに世話をされる立場となったのです。
はじめは、戸惑うことばかりにございました。
それに受領と言いましても、実務は郡司が執り行いますので、夫とて、忙しくすることもございません。
いわんや、その妻をや、なのでござります。
母が、子作りを、と言った訳がようやく分かった気がいたしました。
そして、夫があの方(定頼)からわたくしを引き離すには、相模国に同伴させることが最も功を奏すと考えたわけも思い知らされました。
そして、思い知ったのは、それに留まることではございませんでした。
夫は、私領を増やすことに心を燃やし、連日のように遠出する日々を送ることに成るのです。
そして、その頃です。
ついに一番恐れていた知らせが都から参ったのでございます。
父の死は遠からずのことと、分かっておりましたが、それでも、信じることを拒みました。
血の繋がりはなくとも、わたくしを大切に育ててくださいました。
最期に、いま一度、お会いしとうござりました。
憂き世ぞと思ひすつれど命こそ
流石に惜しきものにはありけれ
(辛いこの世で、生きていても仕方がないと、自らのことは心の内に見捨てるけれど、命はやはり惜しいものなのですねえ)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]命を申す「憂き世」として選歌】
悲しみは長く続きましたが、そう悲しんでばかりはいられない、と考え始めた時に、今度は残された母のことが気がかりで仕方ありません。
都なる親を恋しと思ふには
いきてのみこそ見まくほしけれ
(都に住んでいる親を恋しく思うにつけては、ただ無事に命あって都へ帰り、もう一度会いたいものです)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]命を申す「都」として選歌】
わたくしは、居ても立っても居られず、神にすがるしか無かったのでござります。
しばらくしまして、相模の国にて由緒ある、社、寺院に足を運ぶようになりました。
仏とも神とも頼むしるしには
永らへ思ふ事を叶へよ
(そこかしこの寺院や社を、神仏の区別なく、あがめて、お祈りしているのですから、どうか私の願いをお叶えください)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]思ひ「神仏」として選歌】
そうした中で、御前様、御前様と女房たちが何かと気遣いが絶えません。
相模国の女の優しさに触れ、女房たちとも絆を深めたことにござります。
そうして暮らす内に、わたくしも徐々に相模の地に愛着を持つようになっていったのでござります。
雲かかる山の桜はおしなべて
おもしろくこそ中に見えけれ
(雲のかかっている山に咲く桜は、雲の中に桜色にかすんで、山全体がなんてすてきに見えるのでしょう)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]季春「桜」として選歌】
我がせこがくばるひき苗おくながら
白きや田子の裳裾なるらむ
(農夫が分け配る引き苗を、妻たちが田に植えおいていながらも、汚れないで白く見えるのは、田子の裳裾なのでしょうか)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]初夏「苗」として選歌】
叔母さま(和泉式部)が、相模下向に際して、わたくしに叱咤した訳がようやく分かったのは、その頃にござります。
「乙や、歌人として名を挙げたいのであれば、したたかに成らぬといけませぬ。とくにおなごはのう」
はじめ、若きわたくしは、その訳が分かりませんでした。
叔母は確かに、こう続けました。
「相模に下れば、それは、たいそう時があまりましょう。歌業には好機この上ないのですよ」
この齢(三十七歳)になった今こそ、そのお言葉が懐かしく、有り難く思われます。
その言葉の御蔭で、今のわたくしがあると言っても良いくらいなのです。
夫、子には恵まれない定めではございましたが、誰に打ち明けたこともございませんが、わたくしが、一番に願ったことは、「歌業を極めること」にございました。
わたくしが歌業に勤しむ中、夫は相も変わらず出世のために勢力を使われておりました。
もともと、世渡りに長けた御方なのです。
日を待たずして、早河のあたりを早河牧(現、小田原市一帯)と名付け、私領としてしまわれたのです。
この私領は、のちに、高貴なお方に寄進されました。
それも、出世のため。
そういう才にはとにかく秀でたお方なのです。
ですから、母の言うように、早くお子を設けて、妻としての地位を盤石にすることを、わたくしも願うことにしました。
それも歌業を続ける糧となりましょうから。
氏を継ぎ門をひろめて今年より
富の入りくる宿といはせよ
(家名を継承し、一族を繁栄させて、今年から財産の入ってくる家、と言わせてください)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]さひはひ「氏」として選歌】
たらちめの親の生きたる時にこそ
このこかひあるものとしらせめ
(親が生きているうちにこそ子を産んで、親に孫の顔を見せて生きている甲斐があったと、喜んでもらいたいものです)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]子を願ふ「子・かひ」として選歌】
ところが、そのような願いは、日に日に失望へと変わっていったのです。
夫は、領地だけではなく、新しい通い妻を手にしたのでござりました。
若草のこめてしめたる春の野に
我よりほかのすみれ摘ますな
(私をとじこめて自分のものとしている春の野で、すみれを摘むような気持で、夫にほかの女性に手を出すことをさせないでください)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]中春「すみれ」として選歌】
わたくしは、広い居館に一人、夫を待つ身となりました。
愛しき人から遠ざけられ、夫は帰らない日々を、わたくしは思いもしませんでした。
何ということでしょう。
悔しくも、つらい日々が続いたのでございます。
引きながらうきめのあやめと思ふかな
かけたる宿のつましわかねば
(あやめ草を抜きながら、泥沼のようなつらい道理だと思うことです。五月五日の節句のあやめを掛けてあるのに、その家の夫が私の所に寄りつかず、夫とはわからない状態なので)
【のちに、『走湯奉納百首』 [歌題]中夏「菖蒲」として選歌】
わたくしは、そういう日々の中で、走湯(伊豆山)権現への参詣を心より望むようになっていったのでございます。
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