野水仙の咲く丘には

鈴木 了馬

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 国道を南南西に歩いて、何日経っただろうか。
 ユウイチを引っ張る謎の力は、徐々に強くなっているようだった。
 夜が明けると、引力は弱まった。
 だから、ユウイチは道路脇の草むらや、林の中、橋の下などへ身を潜める。
 繭(まゆ)のようにだ。
 夕暮れになると、引力は耳鳴りのように再び訪れる。
 そして、また歩き出す。
 あの船の上でも同じだった。
 ただ、自分の力で歩かない点が違うだけ。
 引力は、あの渦に繋がっているはずだった。
 疲れや空腹は感じるわけもなかった。
 ただ、相変わらず、衣服が濡れて水をたっぷり含んだような重さを感じていた。
 小名浜港のあたりで県道を折れ、さらに南下した。
 自分の意志でも何でもない。
 引力の強さに任せているだけなのだ。
 とは言え、ここまで来ると、自分の足がどこに向かっているのか、なんとなく察しがついた。
 しばらく歩くと、左手が開けた。
 暗くてよく見えないが、広大なグラウンドのようだった。
 道路とそのグラウンドらしきものは、高さ二メートルほどの金網で道路と隔てられていた。
 その金網の切れ目の通りを、ユウイチは左に折れた。
 すぐに白い建物が見えた。
 リゾートホテル。
 ユウイチとミカが結婚の披露宴をしたホテルだ。
 どうしてここなのだ。
 ここに何があるというのだ。
 もしかして、ミカの霊は、ここに来ているのか。
 ユウイチは訝しんだ。
 ホテルは全体的にひっそりとしていて、営業しているかどうかも定かではなかった。
 ドライブウェイが終わる辺り、右の植え込みの切れ目に老婆が一人立っていた。
「これ、こっつだ」
 聞き覚えのある声だった。
「ばあちゃん」
 元気な頃の祖母だった。
 頭にスカーフを頬被りして、細かい柄が入った水色の割烹着のようなものを着ていた。
 紺色のモンペも履いている。
 見覚えのある格好だった。
 祖母に導かれるままに、ユウイチはツツジの間を抜けて歩いて行った。
 海の匂いがした。
 遠くの灯りは船か。
 耳鳴りは、ウォンウォンとうねり、もはや頭痛に近い。
 祖母は立ち止まり。
 下の方を指差した。
 小さい祠があり、その屋根の上に、渦が口を開けていた。
 祖母が無言で促す。
 入れと言うのか。
 ユウイチは躊躇した。
 また、暗い海、船に戻されるなら、もううんざりだった。
「大丈夫だがら」
 ユウイチは渦に近づいて、手をかざした。
 一気に引き込まれる。
 辿り着いたところは、港だった。
 小名浜の港らしい。
 魚市場があって、中から女たちの声がしたから、ユウイチは、そこに入っていった。
 女たちはおしゃべりをしながら、片付けをしているようだった。
「トモちゃん、慌てて帰ったけど、今度は酌婦(しゃくふ)すんなあど」
「なあに、シャグフ」
「んだど、酌婦」
「大和屋旅館の」
「いっぱい恩給貰ったのに、まだ稼ぐながあ」
「たまげだもんだ」
 女たちは大声で笑った。
 笑われた本人は、既に帰ったらしい。
 トモ、という名に聞き覚えがあった。
 さっき、ユウイチを渦に誘い込んだ祖母のことだった。
 笑い声には、何か不快さが混じっていた。
 蔑視のような。
 それが嫌で、ユウイチは市場を出た。
 足が自然に無垢に任せて、防波堤の方に行ってみた。
 そして、突端まで歩いて行き、海を眺めた。
 一見、爽やかに晴れ渡った気持ちの良い眺めだったが、なぜだか今のユウイチにはそれが重く暗い海に見えた。
 実際に体が重くて、立っていられなくなったので、ユウイチはそこに座り込んだ。
 ここで、何が起きたのか。
 考え始めたユウイチには、すぐに、それがなぜかが手に取るように分かった。
 見えない力が問わず語りのように、ユウイチの心に直に語りかけるのだ。
 太平洋戦争の終戦も近づいた頃、この小名浜港から数十隻もの漁船が非公式に徴用され、南太平洋に連れて行かれた。
 船長、乗組員ごとだ。
 そして、その殆どが戦没した。
 しかし、正式な徴兵ではないため、どこでどう戦没したのかも遺族には知らされることはなかった。
 そういうことが起こったのは、この港だけではなかった。
 日本中で、非公式な徴用が行われた。
 戦没者の数は何万を数えるか。
 記録すら、ままならない。
 ユウイチの体を重くしているのは、それらの霊たちだった。
 自分がどこでどう死んで、どうやってどこに帰ればいいのか分からず、浮遊を続けている。
 はるか彼方で。
 それらの霊がユウイチに直に語りかける。
 そういうことがあったのか。
 ユウイチにできることは、その霊たちの心を理解することだけだった。
 気が付くと、ユウイチの右に一人の少年が立っていた。
 まだ小学校の低学年ぐらいだろうか。
 擦り切れた灰色のネルシャツのようなものに、うす汚れた灰色の半ズボン。
 ユウイチは、少年が誰なのか、瞬時に理解した。
 それは、ユウイチの父、ミノル。
 毎日、学校が終わると、こうして防波堤に来る。
 今では、希望も薄れてきていたが、父の帰りを待っていた。
 大工だったユウイチの父、ミノル。
 無口だが、腕の良い職人だった。
 その父を形成した原点が、そこにはあった。
 海が嫌いだった父。
 祖父の清一が漁師だったことは聞かされていて、稚ながらに、どうして父は同じように漁師にならなかったのだろうか、とユウイチは不思議に思ったことがあった。
 その時は、海が嫌いだからだろう、となんとなく思った。
 泳げないし、海が嫌いだからだと。
 しかし、それは見当違いだった。
 太平洋戦争が、ミノルを海嫌いにしたのだ。
 ミノルは、前触れもなく、回れ右をして、歩き出した。
 ユウイチはミノルの後に付いて行った。
 家の帰るのだろう。
 ユウイチはすぐに着くだろうと、高をくくっていたが、かなりの距離だった。
 二十分ほど歩いたろうか。
 港の西側の丘を上がりきって左に折れ、林の中をさらに五分ほど歩いた。
 鬱蒼と茂る林のせいで、辺りは真っ暗だ。
 陽も暮れかかっているのでなおさらだ。
 左側に、家が現れた。
 木造の平屋。
 家の右側には、小さな畑があった。
 ミノルは、入口の引き戸を開けて中に入った。
 ランプにマッチで火を入れる。
 魚油の臭いがした。
 ミノルは押し入れの中から、本を1冊取り出して、灯りの近くの畳にうつ伏せになって読み始めた。
 トモが旅館から借りてきたものだった。
 客が置いていったものらしい。
 ミノルと同じ小学生が主人公の家族の話だった。
 そこに描かれる家族は決して裕福ではなかったが、ミノルには理想的な家族に思えた。
 お父さんとお母さんと妹、そして主人公。
 ミノルは何度も、その本を読み返した。
 ユウイチは、部屋を見渡した。
 小さな仏壇があった。
 仏壇と言っても、経机に遺影の入った写真立てと、線香立て、蝋燭立てがあるだけだった。
 位牌すらなかった。
 戒名をもらえていないのだった。
 正式に戦死と認められていないのだ。
 だから、恩給もなければ、戒名もつけられない。
 トモは、恩給は仕方ないとしても、戒名をもらえないことが辛かった。
 それで、旅館で働くことにしたのだ。
 金があれば戒名も何とかなると、誰かに聞いたのだ。
 そんなことは、他人に言える話ではない。
 だから有らぬうわさを立てられる。
 決して、嘘ではないけど、息子の学費のためだ、と旅館の主人には話した。
 どこの家でもそうだが、米に不自由だった。
 トモは、畑でジャガイモを育てている。
 これから、さらに食べ盛りになるだろうミノルのためだ。
 幸い、魚には事欠かないため、おかずはなんとかなった。
 旅館の残り物ももらえる。
 なんとしてでも、ミノルを高校まで出したいと考えていた。
 そのためにはどんな苦労も厭わない。
 経机には、小さな紙が一枚置いてあった。
 ユウイチは、読みづらい字を何とか解読した。
 
 マーシャル諸島ウォッジェ付近
 一九四五年四月二十日
 佐藤清一

 ユウイチは、一瞬はっとした。
 その拍子に、引力がユウイチの体を引っ張っていく。
 気がつけば、広大なグラウンドのようなところを歩いていた。
 遠くの灯りは、リゾートホテルのものだろう。
 ユウイチは戻ってきたらしかった。
 ここはゴルフ場か。
 グリーンまで来て、右の海の方を見やると、先ほどの祠が見えた。
 今分かった。
 ユウイチが立っているグリーンの場所には、かつて佐藤清一が建てた家があった。
 この高台に、あの粗末な平屋があったのだ。
 そこには、トモとミノルが住んでいた。
 そのことをトモは教えたくて、ユウイチをここに導いたのだろう。
 トモの姿は無かったが、ユウイチには、トモの心が手に取るように分かった。
 生きていくためには、この土地と家を手放すしか無かった。
 そうすれば、すべてが解決する。
 戒名や墓のこと、そしてミノルの学費のこと。
 新しい家のための資金だってまかなえるのだ。
 トモから、ゴルフ場開発業者に要求したことは、一つだけだった。
 祠は残すこと。
 清一の供養のために建てた、地蔵の祠。
 地蔵は、南太平洋の方角を向いている。
 祠の左横に、トモは数株の水仙を植えた。
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