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十三 蝦夷の湯
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(えみしのゆ)
新緑であった。
堂平を出立して二日後、秦波知乃子(蜂岡皇子)の一行は、いよいよ山越えに入った。
皆、白い修験者の装束である。
五八六年、五月十日(太陽暦、六月四日)である。
前日の雨の名残か、大きめの千切れ雲が、低い空に浮かんで、流れていく。
「もっとも、気をつけないといけませんのは、熊でございます」
犬山(秦犬山)は言った。
この者は、山狩りに詳しい。
何度も、毛人(蝦夷)の国には来たことのある者であった。
「エミシの国の者たちは、その恐ろしいクマを狩るのです。そういうことから恐れられているのですが、決して、戦いを好むわけではありません」
「クマとな。それはどのようなものじゃ」
皇子は熊を知らなかった。
「それが、人の背丈の二つくらいあります、真っ黒な毛で覆われた獣で、手が大きく、爪が長く、牙もあります。向かってこられたら、もう逃れられないでしょう」
「なんと、恐ろしき。そのような獣を狩るとは。どのようにするのじゃ」
「それが、よく分からないのでございます。クマは冬の間は、山の穴の中で眠るのですが、その穴に忍び込んで狩る、とも言われております」
「寝ている間にか」
「さようです。石鏃の銛にて。こうです」
犬山が、銛を突く身振りをしてみせた。
「そのように容易くあるまい」
皇子が笑いながら反論し、一同は誘われて笑い声をあげた。
「石田殿、クマよけを用意しておいてくだされ」
犬山が石田(秦石田)に声を掛ける。
「はい、抜かり無く」
熊避けに使うのは、二本の短い鉄の棒である。
これを打ち鳴らし、金属音を立てながら歩くことで、熊に自分たちの事を報せ、その接近を避けるのである。
いつの間にか、雲は晴れた。
暑くなりそうであったが、谷の木立が太陽光を遮り、むしろ涼しい道のりとなろう。
一行は、黙々と歩みを進めていった。
森を抜け、谷を歩く山越えである。
「キーン、キーン」
熊避けを時折鳴らしながら。
その道は、人と獣が共に使う道である。
二刻(約四時間)歩いて、ようやく、ひと山越え、空が開けた場所に出た。
湖が見えた。
「この辺りで、休むとしましょうか」
犬山が告げる。
「このまま進めば、湖の出口があるでしょう。その辺りがよろしいかと」
坂田(秦坂田)が前方を指さして言った。
はたして、すぐに、沢が見えてきた。
見るからに清らかな流れである。
坂田の後について、皆は沢へ降りていく。
「おお、凍えるようじゃ」
石田が水に手を入れ、声をあげた。
雪解け水であった。
対岸の湿地には、淡い紫の草花が群生していた。
皇子がそれに気づいた。
「堅香子の花であるか。綺麗じゃのう」
一行は沢の水を飲み、赤紫のカタクリの花を眺めながら時を過ごした。
川下から吹き上がる風が涼しかった。
夏の暖かさと、冬の冷たさが混じった風である。
「この辺りは、人が住んでおるところにて、少し用心しなければなりません」
犬山が告げた。
「用心と申すか」
皇子が不安げに返した。
「この装束ですから、尚の事、襲ってくるような事は、まず考えられませんが、とにかく、目を合わせないことです。何事もないように通り過ぎればよろしいのです」
四半刻休んで、一行は再び上りの道を歩み始めた。
それはやや上りではあるが、高原の平坦な道のりであった。
二刻半ほど歩くと、再び高原を抜け、谷山の道になっていく。
「日暮れまでに、どこまで登れるかわかりませぬが、この辺りで最後の休みを入れて進みましょう」
犬山が、声をかけた。
その時であった。
前方の沢の方から声がして、人が現われた。
毛人。
髪が長く、獣の皮のようなものを身につけていた。
目が合ったのが遠目にもわかった。
男である。
それが、なんと近づいてくるのだった。
歩みはしっかりしているが、速くはない。
一行は立ち止まるしか無かった。
男は、まっすぐに進んで来ると、犬山の前で立ち止まる。
無言であった。
そして、犬山を下から上まで舐め回すように見て、その後、他の者を眺めやる。
男の頬から下は、髭に覆われていた。
腰の縄には、石斧のようなものを下げている。
男は、一通り見終わると、何も言わずに、反転し、もと来た道を戻っていった。
しばらくして、一行も歩き始めたが、それが、どうしても、そのエミシの男の後をついて行っているようなかたちになる。
「黙って、何事もなかったように歩くのです」
犬山はささやくように言った。
「奥久丹(秦奥久丹)殿、絹布を出しておいてくだされ」
それは、杉ノ目の配下の者に渡したものと同じ、絹布の端切れのことであった。
それから更に一刻ほど山道を歩いた。
その間、結局、エミシの男は一行の前を歩き続ける。
そして申の刻(午後三時から五時の間)に入って間もなくであろう。
前を歩く男が歩みを止めて、後ろを振り返った。
皆、それに気づく。
「このまま歩くのです」
一行は歩み続ける。
間もなく、一行は男に追いつく。
犬山が歩みを止め、後ろを振り返った。
「絹布を」
犬山は、真珠色の絹の端切れを受け取り、ゆっくり進むと、男にそれを渡した。
男は布を受け取り、しばらく眺めていたが、そのうちに、それを頬に持っていってさすった。
気に入ったように見える。
そして、男は犬山に目を向け、何か言った。
それは何と言ったかは分からなかったが、付いてこい、という意味であることは誰の目にも明らかだった。
一行は、再び、男の後を、今度は意識して、ついて行った。
間もなく、男は、右の沢の方へ降りていく。
一行も降りていく。
降りきると、川上に向かって沢沿いを歩いていった。
四半刻ほど歩いた。
そして、樹々が開けた場所に出た。
そこが男の住処らしかった。
男は、立ち止まり大声で何かを叫んだ。
複数の竪穴式住居の中から、人が出て、男に近づいてくるが、白装束の一行に警戒しているようでもあった。
再び、男が何かを言った。説明しているようであった。
そして、絹布を掲げる。
それを合図に、皆が一気に男のところに近づいてくる。
小さき子もある。
皆、声を上げて喜んでいるようであった。
この後、一行は住居の一つに案内された。
使われていない、住居らしかった。
相変わらず何を言っているのかが分からなかったが、その場所を使えということであった。
全く思いがけず、一行は雨露をしのげる寝床にありついたのである。
「上手くいきました」
ようやく、安心した犬山が皇子に声をかけた。
「さあ、夕餉の支度にかかりましょう」
石田が、皿状の鉄鍋を持って、沢の方に歩いて行き、火を熾しにかかる。
エミシの者たちがまた集まってきた。
湯が沸いた頃、奥久丹が干し餅を持ってきた。
常よりも多くの餅である。
湯に少しずつ入れ、柔らかくなったところで、奥久丹は、まずエミシの男にそれを振る舞った。
その後、他の者らにも順番に振る舞う。
このエミシの者たちは、全部で八人いた。
皆に行き渡った。
男は、この者たちの主であろう。
その男が一旦住処に行き、戻ってきた。
何かを持ってきて、それを食べろという仕草をしている。
奥久丹は、その乾いた野草みたいなものを鍋に入れて、少しの間炊いた。
乾いた野草の正体は、キノコであった。
膨らんで、橙色がかって見える。
男はもう良い、と身振りをして、犬山が最初に毒味した。
「なんとも、良い味じゃ。歯ごたえも良い」
煮汁に、良いダシが出ている。
キノコのダシ効いた餅は格別であった。
夕餉の後、エミシの男は、一行を沢向こうにつれていく。
河原には、石を掘って、いくつかの小さな池のようなものが点在していた。
湯気が立っている。
これは、「湧き湯」であった。つまり、現在で言うところの「源泉」。
湯溜まりには、沢の水が引き込まれ、浸かるに丁度良い加減になっている。
男が先に入ってみせた。
「ほうほう」
手招きをする。
一行は、言われるままに、白装束を脱ぎ、そこかしこの湯溜まりに分かれて入った。
「これは、なんとも、良い湯である」
皇子が言い、湯を手のひらで掬い、両の肩に掛けた。
沢の音がしていた。
新緑であった。
堂平を出立して二日後、秦波知乃子(蜂岡皇子)の一行は、いよいよ山越えに入った。
皆、白い修験者の装束である。
五八六年、五月十日(太陽暦、六月四日)である。
前日の雨の名残か、大きめの千切れ雲が、低い空に浮かんで、流れていく。
「もっとも、気をつけないといけませんのは、熊でございます」
犬山(秦犬山)は言った。
この者は、山狩りに詳しい。
何度も、毛人(蝦夷)の国には来たことのある者であった。
「エミシの国の者たちは、その恐ろしいクマを狩るのです。そういうことから恐れられているのですが、決して、戦いを好むわけではありません」
「クマとな。それはどのようなものじゃ」
皇子は熊を知らなかった。
「それが、人の背丈の二つくらいあります、真っ黒な毛で覆われた獣で、手が大きく、爪が長く、牙もあります。向かってこられたら、もう逃れられないでしょう」
「なんと、恐ろしき。そのような獣を狩るとは。どのようにするのじゃ」
「それが、よく分からないのでございます。クマは冬の間は、山の穴の中で眠るのですが、その穴に忍び込んで狩る、とも言われております」
「寝ている間にか」
「さようです。石鏃の銛にて。こうです」
犬山が、銛を突く身振りをしてみせた。
「そのように容易くあるまい」
皇子が笑いながら反論し、一同は誘われて笑い声をあげた。
「石田殿、クマよけを用意しておいてくだされ」
犬山が石田(秦石田)に声を掛ける。
「はい、抜かり無く」
熊避けに使うのは、二本の短い鉄の棒である。
これを打ち鳴らし、金属音を立てながら歩くことで、熊に自分たちの事を報せ、その接近を避けるのである。
いつの間にか、雲は晴れた。
暑くなりそうであったが、谷の木立が太陽光を遮り、むしろ涼しい道のりとなろう。
一行は、黙々と歩みを進めていった。
森を抜け、谷を歩く山越えである。
「キーン、キーン」
熊避けを時折鳴らしながら。
その道は、人と獣が共に使う道である。
二刻(約四時間)歩いて、ようやく、ひと山越え、空が開けた場所に出た。
湖が見えた。
「この辺りで、休むとしましょうか」
犬山が告げる。
「このまま進めば、湖の出口があるでしょう。その辺りがよろしいかと」
坂田(秦坂田)が前方を指さして言った。
はたして、すぐに、沢が見えてきた。
見るからに清らかな流れである。
坂田の後について、皆は沢へ降りていく。
「おお、凍えるようじゃ」
石田が水に手を入れ、声をあげた。
雪解け水であった。
対岸の湿地には、淡い紫の草花が群生していた。
皇子がそれに気づいた。
「堅香子の花であるか。綺麗じゃのう」
一行は沢の水を飲み、赤紫のカタクリの花を眺めながら時を過ごした。
川下から吹き上がる風が涼しかった。
夏の暖かさと、冬の冷たさが混じった風である。
「この辺りは、人が住んでおるところにて、少し用心しなければなりません」
犬山が告げた。
「用心と申すか」
皇子が不安げに返した。
「この装束ですから、尚の事、襲ってくるような事は、まず考えられませんが、とにかく、目を合わせないことです。何事もないように通り過ぎればよろしいのです」
四半刻休んで、一行は再び上りの道を歩み始めた。
それはやや上りではあるが、高原の平坦な道のりであった。
二刻半ほど歩くと、再び高原を抜け、谷山の道になっていく。
「日暮れまでに、どこまで登れるかわかりませぬが、この辺りで最後の休みを入れて進みましょう」
犬山が、声をかけた。
その時であった。
前方の沢の方から声がして、人が現われた。
毛人。
髪が長く、獣の皮のようなものを身につけていた。
目が合ったのが遠目にもわかった。
男である。
それが、なんと近づいてくるのだった。
歩みはしっかりしているが、速くはない。
一行は立ち止まるしか無かった。
男は、まっすぐに進んで来ると、犬山の前で立ち止まる。
無言であった。
そして、犬山を下から上まで舐め回すように見て、その後、他の者を眺めやる。
男の頬から下は、髭に覆われていた。
腰の縄には、石斧のようなものを下げている。
男は、一通り見終わると、何も言わずに、反転し、もと来た道を戻っていった。
しばらくして、一行も歩き始めたが、それが、どうしても、そのエミシの男の後をついて行っているようなかたちになる。
「黙って、何事もなかったように歩くのです」
犬山はささやくように言った。
「奥久丹(秦奥久丹)殿、絹布を出しておいてくだされ」
それは、杉ノ目の配下の者に渡したものと同じ、絹布の端切れのことであった。
それから更に一刻ほど山道を歩いた。
その間、結局、エミシの男は一行の前を歩き続ける。
そして申の刻(午後三時から五時の間)に入って間もなくであろう。
前を歩く男が歩みを止めて、後ろを振り返った。
皆、それに気づく。
「このまま歩くのです」
一行は歩み続ける。
間もなく、一行は男に追いつく。
犬山が歩みを止め、後ろを振り返った。
「絹布を」
犬山は、真珠色の絹の端切れを受け取り、ゆっくり進むと、男にそれを渡した。
男は布を受け取り、しばらく眺めていたが、そのうちに、それを頬に持っていってさすった。
気に入ったように見える。
そして、男は犬山に目を向け、何か言った。
それは何と言ったかは分からなかったが、付いてこい、という意味であることは誰の目にも明らかだった。
一行は、再び、男の後を、今度は意識して、ついて行った。
間もなく、男は、右の沢の方へ降りていく。
一行も降りていく。
降りきると、川上に向かって沢沿いを歩いていった。
四半刻ほど歩いた。
そして、樹々が開けた場所に出た。
そこが男の住処らしかった。
男は、立ち止まり大声で何かを叫んだ。
複数の竪穴式住居の中から、人が出て、男に近づいてくるが、白装束の一行に警戒しているようでもあった。
再び、男が何かを言った。説明しているようであった。
そして、絹布を掲げる。
それを合図に、皆が一気に男のところに近づいてくる。
小さき子もある。
皆、声を上げて喜んでいるようであった。
この後、一行は住居の一つに案内された。
使われていない、住居らしかった。
相変わらず何を言っているのかが分からなかったが、その場所を使えということであった。
全く思いがけず、一行は雨露をしのげる寝床にありついたのである。
「上手くいきました」
ようやく、安心した犬山が皇子に声をかけた。
「さあ、夕餉の支度にかかりましょう」
石田が、皿状の鉄鍋を持って、沢の方に歩いて行き、火を熾しにかかる。
エミシの者たちがまた集まってきた。
湯が沸いた頃、奥久丹が干し餅を持ってきた。
常よりも多くの餅である。
湯に少しずつ入れ、柔らかくなったところで、奥久丹は、まずエミシの男にそれを振る舞った。
その後、他の者らにも順番に振る舞う。
このエミシの者たちは、全部で八人いた。
皆に行き渡った。
男は、この者たちの主であろう。
その男が一旦住処に行き、戻ってきた。
何かを持ってきて、それを食べろという仕草をしている。
奥久丹は、その乾いた野草みたいなものを鍋に入れて、少しの間炊いた。
乾いた野草の正体は、キノコであった。
膨らんで、橙色がかって見える。
男はもう良い、と身振りをして、犬山が最初に毒味した。
「なんとも、良い味じゃ。歯ごたえも良い」
煮汁に、良いダシが出ている。
キノコのダシ効いた餅は格別であった。
夕餉の後、エミシの男は、一行を沢向こうにつれていく。
河原には、石を掘って、いくつかの小さな池のようなものが点在していた。
湯気が立っている。
これは、「湧き湯」であった。つまり、現在で言うところの「源泉」。
湯溜まりには、沢の水が引き込まれ、浸かるに丁度良い加減になっている。
男が先に入ってみせた。
「ほうほう」
手招きをする。
一行は、言われるままに、白装束を脱ぎ、そこかしこの湯溜まりに分かれて入った。
「これは、なんとも、良い湯である」
皇子が言い、湯を手のひらで掬い、両の肩に掛けた。
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