獣狂いの王子様【完】

距離感は適切に

僕は、思わず身を固くし、覗き込むように前屈みになる陛下に顔を少し俯けさせた。

…何してんのこの人!?陛下の貞操の危機だよ、アルエード!お前も固まってないで、どうにかしてくれ!

内心、荒れに荒れた心情を顔に出さないことに必死になる。落ち着け、落ち着けと、心の中の何人もの僕が互いに紅茶を溢さないようにティーカップを両手で持ち縮こまる。

「すまない。怖がらせたい訳じゃないんだ。ただ、これから婚約者として隣にいなければいけない時もあるだろう。少しずつでいいから、私にも慣れていってくれないか。」

陛下のご尊顔が視界に入り、それとともに見える獣耳。近い!

キラキラと毛並みが光を反射しているのが分かる。白銀がきらめく美獣人…。何か良い匂いもするのですが!?吸い込もうと呼吸が荒くなりそうなのを押さえ込む僕の忍耐力を褒めて欲しい。何だこれは。拷問か?

「…陛下、私も王族の端くれです。国のためとあらば、この身を捧げる覚悟は持っております。お気遣いいただかなくても、陛下の望むままに命じて下さいませ。」

僕は少し動揺していたのだ。ミルや他の獣人たちが天使なら、レンウォール陛下は神様だ。この神々しいまでの美しい毛並み、毛質、色、全てを併せ持ち、顔の造形も完璧とあれば、それはもう人ならざる物が造り給うた芸術品だ。

「そうか、ならば少し触れてもいいか?」

僕が答える前に、陛下の長く美しい指先が僕の髪に触れ、スッと下へ滑らせた。

爪が人とは違い、鋭く尖っているのが分かり、飼い犬を思い出す。長くなる度に爪を切り、やすりで整え、ついでに肉球を吸わせてもらったものだ。あの香りはどうも癖になる。嫌がられない範囲で暇があれば吸っていた肉球。触れば、陛下の手も肉球のような柔らかさなのだろうか。

あまりの距離の縮め方の衝撃に、現実逃避という名の思考で霧散させる。そんな僕が嫌がっていないと判断したのか、陛下の手は気付けば僕の頬へ、頬から首へと撫でてきた。

「へ、いか。」

くすぐったさもあり、少し上ずった声が出てしまった僕に、陛下はピタリと手の動きを止めた。

「……今日は、もう遅い。明日、また来る。時間を空けておいてくれ。」

少しの間があった後、陛下はそう言って立ち上がった。僕も慌てて立ち上がり了承の言葉を口にする。陛下はそれに頷くとすぐに長い脚を動かし、扉へと進んでいった。

足早に立ち去った陛下の姿が見えなくなり、扉が閉まった後、僕はボスっとソファに体を沈み込ませた。

「ニアノール様、よくぞ、よくぞ耐えられました…!」

ずっと部屋内にいた役立たずのアルエードがそんな僕に賞賛の言葉を口にする。そんな侍従に僕はクッションを投げつけた。

「痛っ!いやいや、ただの侍従の私が陛下に物申すことなんて出来ませんよ!」

僕の言いたいことは察していたらしい。でもそれ以上に、僕は陛下の姿を思い出してほうっと息を吐いた。

…あの滑らかな毛並み、ブラシを通して整えると更に美しくなるに違いない。あぁ～あの光を反射した毛質、もうこんな美獣人と知り合う機会なんてないに違いないのに、数年経てば僕は自国に帰らなければならない。

そう思うと悲しくなってくる。

もう今日は夜も更けており、誰も来ないだろうと表情を緩め、しくしくと泣き真似をする僕に、

「坊ちゃん。ほら、もう寝ますよ。明日の朝は獣人としてのマナーレッスンがあるんですから。」

空気の読めない侍従がせっせとベッドを作り言い放ってくる。泣いている主人に対して血も涙もない侍従である。