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第四章 三谷隆弘のキスでは誰も目覚めない

第一話

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 未だに忘れられない夢がある。
 ぴっちぴちの白いタイツを履いて、鎧をつけて馬に跨り、剣を振る。茨だらけの森を潜り抜け、火を噴くドラゴンを倒す。そして、闇に包まれた城のてっぺんまで上り詰める。そこに横たわる、見知らぬ女。
 そうか、これはおとぎ話か。鎧を脱ぎ女の前に跪く。物語の結末は、誰だって知っている。運命のキスで女は目覚め、俺はこの人と結ばれるのだ。長い睫毛。白い肌。金のような美しい長い髪。俺はそっと髪を撫で、薄桃色の唇に自分の唇を重ねた。しかし、女はピクリとも動かない。おかしい。なぜだ。
 もう一度、女にキスをする。やっぱり動かない。俺は彼女の頬を軽く叩いた。反応はない。
 死んでるのだ。永遠の眠りではない。死んでしまったのだ。それしかない。不幸にも、王子が来るまでに死んでしまった。俺が王子だ。
 そう思っていると、見知らぬ男がやって来る。俺と全く同じ格好をしていた。女の前に跪き、さっき俺がキスした唇にキスをする。すると女はすぐに目覚めた。たった一度のキスで。
 女は瞳に涙を浮かべ「あなたこそ、私が待ち望んでいた運命の人です」と言い、再び熱いキスを交わす。
 俺のキスで目覚めなかったのは、運命の人ではなかったからだ。俺は、彼女の王子ではなかった。

 一枚のはがきを見て、なぜかそんな昔一度だけ見た夢を思い出す。もうずいぶん昔の話なのに、きのう見た夢のように鮮明に覚えていた。思い出すだけで、惨めな気分だ。
 中学の同窓会。参加するか、しないか。はがきの前で、ペンを握ったまま硬直した。理由はたったひとつだ。初恋の人が来るかもしれない。ちょっとだけ、期待している自分がいた。

 いつもそうだった。俺が好きになる人には、もう好きな人がいる。俺には敵わない。俺は眼中にない。そういう人ばかりを、好きになる。俺に夢中になっている女を好きになれたら、どれほど楽だろう。
 だから、妥協する。妥協。なんて素晴らしい言葉なんだ。人生、妥協が大事。大人になるって、妥協するべき点を見つけることだ。
 はじめは妥協という言葉なんて知らずに、ただ初恋の人を忘れるため、好きでもない女と付き合った。顔も性格もいい。好きだと告白してくれたから、ちょうどよかった。誰かと付き合えば、失恋の痛みは消えると思っていた。荒療治かもしれないが、それが一番いい方法だと思ったのだ。今でも、そう思っている。

 高校、大学と年齢を重ねることで、俺ははっきりと理解した。現実は甘くない。理想通りの人には巡り合えないし、好きな人とはなかなか結ばれない。だから、妥協できるところは妥協して、恋愛できる人と恋愛すればいい。
 幸い、顔には自信があった。高校から大学までのここ数年、恋人が途切れたことがない。現に今も、杏子という恋人がいる。
 おとぎ話のお姫様たちだって、妥協していたのではないか。このくらいの見た目で王子様なら許せる、とか。たまたまキスで目覚めさせてくれた人が、妥協できる範囲内の人間だったのかもしれない。後々見えてくる相手の嫌なところも、王子様なら目を瞑れるという範囲内で恋をする。現実の恋愛は、そういうことなんだ。

 いつかの昔。俺がまだ純粋に恋に憧れ恋にときめいていた頃の彼女を思い出す。あの日の彼女に会えるのを期待して、俺は参加に丸を付けポストに投函した。
 最近、いいことがない。杏子は俺と付き合っているのに、明らかに誰か別の奴を見ている。杏子は初め、俺の告白を断った。それがどうしても心に引っかかっていた。
 杏子が遊んでいることはよくわかる。俺と同じタイプの人間だ。だから、遊びにはちょうどいいと思っていた。

 きょうは久々にバイトがあった。就活でずいぶん慌ただしい毎日だったが、無事就活が終わり、このままいけば来年は卒業。俺も社会人の仲間入りだ。
 死ぬほど辛い就職活動だった。なにが辛いって、やりたいことが皆無だからだ。将来に、一筋の光もない。会社の奴隷になって、残りの人生ずっと働き続ける。
 もしかしたらいつかの未来で、どこかの誰かと結婚するかもしれない。そしたら子どもだって、生まれるかもしれない。定年まで働き続けて延々と返し続ける家のローン。子どもの教育費。なにが楽しい人生なんだ。遊べる時期が、長い人生のうちたった20年間くらいじゃ、割に合わない。医療が発達して寿命が延びるのは結構なことだが、長生きがいいものとは言えない。若さも必要だ。

「三谷先輩、お久しぶりですね」

 休憩中に菓子パンを食べていたら、三窪がやって来た。

「あ? そうだっけ」

 三窪は教科書が入ったずっしり重たそうな鞄をロッカーに詰め込んでいる。たしか、福祉系の大学に通っていると言っていた。俺と違って、三窪にはやりたいことが明白にある。三窪と俺は全く違う世界の生き物だ。いつかやって来る就活だって、俺と違って生き生きと活動できるんだろうな。

「内定決まってから、会社の事前研修やら卒業論文やらで忙しかった」

 内定した会社の事前研修も、卒業論文も別に大した理由じゃない。ただなんとなく、三窪と会うのが嫌で、シフトを減らしていた。会うのが嫌という理由も、ちゃんと自分の中でわかっている。

「大変ですね」

 杏子が見ているのは、多分俺じゃない。いや、間違いなく俺じゃない。三窪だ。合コンで知り合ったときから、杏子は俺じゃなくて三窪に興味があった。なぜ、こいつなんだ。年上の、しかも杏子の姉が好きな男なんて。

「なにか、あったんですか?」
「なんで」
「いやなんか、静かだなぁって」
「なんもねぇよ」

 杏子は三窪の話はしない。それがかえって、俺には不自然に思えた。杏子は遊びじゃなく、三窪に本気なんじゃないかって。他人に本気になっている女は、見ればわかる。これまで俺が本気で好きになった人は、みんな俺以外の誰かに夢中だったから。

「お前さ、杏子と付き合ってんの?」
「え? 杏子ちゃんと?」

 三窪は目をひん剥いて、大声で笑った。そんなわけないって顔だ。

「邑子さんが好きって、先輩も知ってるじゃないですか。なんで杏子ちゃんと?」
「……だよな」
「そうですよ。変なこと言わないでくださいよ」

 悪いな、とゴミを捨てて、休憩から戻った。
 三窪は、杏子をただの友達とでも思っているのだろう。三窪は俺や杏子とは違って、遊びでは付き合ったりしない。バカみたいに正直で、損するタイプだ。いつもそう思っていた。実際、あの日三窪を合コンに誘ったのは、俺よりモテないが顔面偏差値が高い男を集めるためだった。三窪のことはバイト先の後輩ってだけで、特に親しいわけでもない。いつもなら、三窪みたいにひたすら好きな女のケツばっかり追いかけるような男を憐れんでいた。バカだな。そんな女追いかけなくたって、他にもっといい女がいるのに、と。でも今は、なぜか俺の方が惨めに感じる。俺が間違っているのか?

「邑子さん、きょうも来ないっすね。やっぱ俺、嫌われてんのかな」

 俺の横に立って、店内を見渡しながら声をかけてきた。三窪はそれでも、杏子の姉がいいのか。なぜだ。
 三窪を見ていると心をかき乱される。イライラしてしまう自分がいた。いつもなら、誰のことにも興味がないのに。女だろうと男だろうと、どうだっていいのに。どうしてこんなにも、心がぐちゃぐちゃになってしまうんだろう。

 バイトから帰ってぼんやりテレビを見ていると、杏子から会いたいと連絡があった。こんな時間に、どうしたんだろう。
 言われた場所まで迎えに行き、そのままホテルへ流れた。俺も杏子も実家暮らしだ。帰りたくないと言うので、他に行く場所がなかった。いや、嘘だ。行く場所なら他にももっとあった。カラオケでも、マンガ喫茶でも、24時間営業している店なんてたくさんある。
 派手なお城みたいなホテルで、てきとうな部屋を選ぶ。
 杏子は目が腫れぼったくなっていた。泣いていたのだろうか。理由を知りたいが、訊いても杏子は嘘を言うだろう。自分の本当の気持ちは隠してしまう。
 タバコのにおいが残る部屋のベッドで、杏子を抱きしめると泣いてしまった。
 こういうとき、王子様ならなんと声をかけるのだろう。どんな言葉をかけても、偽の王子の俺では、杏子の心に届かない。

 俺はただそのまま杏子を抱きしめて、一緒に眠った。
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