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三角形への希求
試食会
しおりを挟むオレはどこか所在無く、レストランでの食事の時間を過ごしていた。
頼んだモーニングセットはそれなりに美味しくて、腹ごなしをするには文句のないものだったけど、さっきの出来事が渦を巻いて、何を食べても投げやりな気持ちを拭えない。
感情論で混乱した時は、なにか事務的なことに身をおきなさい、とオレの母親はガキの頃から、オレや姉貴に言ってきた。
そんな説教じみたこと言われなくても、自分の感情くらい自分で始末できる。そう今まで思ってきたけど、それはガキの嘯きってやつだったのかもな。
今、現にこうして、イライラを抱えてるのは、感情論で混乱しまくっているってことなんだから。
メインのオープンサンドが来て、オレはそれを順々にコーヒーで流し込んでいく。
クリームチーズと明太子をからめたもの、オーソドックスなハム、レタスとトマトを挟んだもの、蒸した海老と、魚の白身をペーストして挟んだもの、と3つほど食べたころ、
「狩野様」
と無駄に丁寧でうさんくさい声がかけられる。
「男娼には飯食うヒマもないってのかよ?」
悪態をつき、オレは顔をあげる。
「申し訳ありません」
想像に易く、茶亜莉伊はそこに乱れのない笑みをたたえながら立っていた。申し訳ないなんて、ゆめゆめ思っていなそうだ。
「で、何の用?オレの優雅な朝飯に水をさしても仕方ない用事なんだよな?」
「水をさしても仕方ない用事かどうかは、用事の後、狩野様ご自身で判断していただければ良いかと思います」
相も変わらず食えないやつだ。
「はあ、分かったよ。じゃあ、さっさと話してくれよ」
「はい、それでは付いてきてください」
「は?ここで話するんじゃねえの?」
「するんじゃねぇでございます。こうした場所は、誰が聞き耳を立てているのか計り知れません。それ相応の場所ではないと話せないことでございますので」
「まだ食事の途中なんだけど?」
「そうでした。それでは僭越ながらここで待たせて頂きたく思います」
茶亜莉伊はそう言い、向かいの席に座す。
良いのかよ、従業員がこんなところで油売ってても、と思う。
だけど折角待っていてくれるというので、オレは残りを早々に平らげてしまうことにした。
茶亜莉伊は不気味な笑顔のまま、オレが食事を終える最後のときまで、オレを観察していたのだ。
食事を終えて、オレが連れていかれたのは、業務員の宿泊施設の一室だった。
この館の東端は二階から最上階まで、縦に長く従業員の詰め所に割かれているらしい。各階で起こる面倒ごとを、直ぐに処理できるように、という配慮だと茶亜莉伊は言っていた。
どんな面倒ごとが起こるのかは、想像するのはやめておく。
「ここは私の部屋でございます」
そう茶亜莉伊が案内する部屋は、内装こそオレの泊まった部屋と同じだが、調度などはみな白で統一されていて、他の西洋にかぶれた雰囲気の部屋〲とは風情を異にしていた。
それに特に目に付くのは、四方の壁を埋めつくす、これまた白い本棚たちだ。
「アンタ、読書家なのか?」
ぎっしりと、しかも大きさごとに丁寧に分類され、本棚には本が詰まっている。
「ええ、正しくは、朗読家ですが」
「朗読?ふーん、そうなのか」
まあ、朗読に特化して、本が好きなやつがいてもおかしなことじゃない。良い本の良い文章ほど、声に出して読むことで美しく昇華するとか聞くし。
オレが本棚を眺めていると、茶亜莉伊はふふふと意味深に笑う。
「ま、アンタが読書家だろうと、朗読家だろうと良いよ。さっさと大事な話とやらを聞かせてくれよ」
「そうですね、狩野様の本日のお客様がやって来るまでには、済ましておかなければならないお話です」
「はあ、やっぱり今日も客とやらが来るわけか」
今朝の男娼もそう言っていたが、毎日毎日、野郎と貞操を賭けた交流をしなきゃなんないかと思うと、正直うんざりしてしまう。
「今日は水曜日ですから、明日明後日とお客様を迎えた後、狩野様はオークションにかけられます」
「オークション?」
「はい、お客様同士の見栄の張りあいです。狩野様のお主人様という権利を賭けた」
はらはらと笑い茶亜莉伊は言う。
「だ、男娼の拒否権は?」
「あります。けれど、大抵のお客様が男娼の借金の額にあわせた提示をしてきますので、大人しく落札されるのが通例でございます」
「なら、オレは例外になるな」
「そうなることをお祈り申し上げます」
茶亜莉伊はそう笑う。
「それでは、本題に入らせて頂きます」
ぐい、ぎしん。
外側から足を絡めとられオレは体勢を崩す。
ああこれって確か、大外狩りってやつだよな、高校の頃体育でやったっけ。
落下するときのあの、腹がぞっとする感覚を覚えながら、オレは能天気に思った。背中に不安を覚えたが、すぐに、柔らかなマットレスがオレを受けいれてくれる。
「申し訳ありません。私も雑務に追われる身の上。非常に不本意ですが、ながらのお話でお許し下さい」
端正な細面が、天井を遮ってオレの上に覗く。
「ながらのって。あ、あのさ、何をしながらなわけだ?」
これは、質問っていうより、確認。蹴飛ばしてでも逃げるべきかどうかの確認だ。茶亜莉伊はにこやかに笑う。
ヤバい。
オレは足を折って、起き上がる体勢を整えようとする。けれど、茶亜莉伊は素早く両足の狭間に身体を滑らせると、オレの左腿を内側から押す。
「ぃてっ」
「試行、試乗、と多々表現はありますが、試食、しながらのお話、という表現が正鵠を射ていると存じ上げます」
「し、試食ぅ?」
「はい、けれどそのことは本題からは外れます。狩野様は気にせず、私のお話を聞いていただくのが良いかと思います」
茶亜利伊はにこにこのままそう言い、オレのワイシャツの襟元に人さし指をつっ込んでくる。オレはその手を摑まえて、動かないようにする。
「アホか。試しに食うって宣言されて、はいそうですか、じゃあオレ話聞いてますってなるわけないだろ!」
「試食という単語一つで、肉体を弄し、嬌声を奏でさせる行ためを想像するなんて、狩野様の想像力は誠に豊かでございますね」
「じゃあ、違うのかよ?」
「一寸の違いもございません」
人好きする顔のクセに、浮かべる笑顔がうさんくさいのは何故だろう。
「時に、狩野様。八俣様のお手伝いをする気はございませんか?」
「は?」
「八俣様はただ今多忙を極めております。詳細は内密にと念を押されておりますので、口外はいたしませんが。狩野様に手を貸していただければ、八俣様の肩の荷も少しは軽くなるのではないかと、思われます」
「彰人の手伝い?で、でも。彰人はお前には関係ないことだって言うに決まってる」
「八俣様は、根拠のないことは決して口に出されない方です。ですから、状況が不確かなうちに狩野様に説明することを好まないのです」
「だけど」
オレは考えを巡らせたが、じーっというチャックの下りる音に遮られる。
「どう致しますか?狩野様次第で、今日のお客様を書き換えさせていただきます」
「あ、あの、いや、そのさ、まずは、そこの手、どけろよ」
「其処、とは、どこのことでございますか?」
親指の付け根のふくらみの部分で、茶亜莉伊はオレのそこをきゅっと押す。
「あ、だから!」
「狩野様、早々にご決断をお願いいたします」
「やだっつってんだろ!」
茶亜莉伊は、腕のいいマッサージ師のような手の使い方で、指の腹から手の甲から何から何までを駆使して、股間を刺激してくる。
ざわざわざわっと、背中を寒気と熱気が同時にかけあがる。マジで?
自分で自分が信じられない。
オレにとって、いや、男全般にとって(基本的には)避けては通れない厄介事だ。そもそも機能不全の場合には不問だが、それはそれで厄介には違いない。
茶亜莉伊は、今度はもう片方の手でオレの喉下を押さえ、顎を上に向けさせる。
「バミューダ・トライアングルよりも、遙かに神秘的な三角でございます」
そう、何やら独りごつ。ふと思い出す。少し前、多分高校生の頃、そういう口癖の人間がいたようないなかったような。
まあ、そんな記憶はどーでも良い。
今は顎の裏を撫ぜてくる指の不審すぎることが何より気になる。
「ここは、いかなる美的な判断の中でも、見逃されがちな場所でございます」
「あ、顎の裏がか?」
「はい。狩野様は、らず、美しい三角形をお持ちでございますね」
「え?」
何か、聞き落とした気がした。
「ですがこれは、わたしの個人的な趣味でございます。今重要とされるのは、狩野様の良いお返事を頂くことです」
「彰人に協力するかってこっ」
ぐにぐにぐに。さっきとはうって変わって乱暴に、茶亜莉伊はその場所を揉む。
こいつ、絶対わざとやってるだろ?
オレが何か言おうとする度にいじるなんて、わざと返事をしにくくしているとしか思えない。
「狩野様?その様に眉をひそめてお考えになるとは。ではもう少し、考える時間をお作り致しましょう」
オレを慮るような気遣わしい顔で茶亜莉伊は言うが、オレが眉をひそめてる本当のわけを、この文脈でこいつが気づかないわけないのだ。
「狩野様は、八俣様のことを知りたくはないですか?」
「彰人のことを?」
「はい」
「そりゃあ、知りたいことは知りたいよ。でも、あいつが嫌がるんじゃねえかな」
お前には関係ないこと、と今回何度言われたことか。オレに説明する必要がない、と彰人が言うたび、オレ自身も彰人にとって必要がないのか、と思ってしまう。
「時には、相手を気にせず、好奇心に従うのもよろしいかと思われます」
「彰人の反応を気にするなっていうことか?」
「はい。豪気に歩み寄らなくては、平行線のまま終わってしまうこともありますから」
茶亜莉伊はそう言い、チャックのあわせに何本かの指をつめ込む。
「あ、あのなあ!言ってることとやってることが違うだろ!」
「やっていること、でございますか?まだ何もいたしておりませんが」
「いたしてからじゃおせぇんだよ!」
「狩野様は楽器のようなお方ですね。わたしの指一つで、その麗しき声帯を震わせてくださる」
「何バカなこと言ってんだよっ」
「けれど、今は少々黙っていただかないと、わたしの仕事は遅々として進みそうもありません」
茶亜莉伊は、オレの顎に指を添え、顔を寄せてくる。
「え?」
顔が影になり、降ってくる。すぐに、鼻頭がぶつかりそうな距離になった。
「ああ、そうか。ここはさすがに坊ちゃんに怒られる.」
そして額にキスをした。驚いて、オレは身をかたくする。
「感度良好。キスへの耐性はやはりない模様」
いつの間に取り出したのか、皮の手帳にさらさらと何やらメモをとっている。
かと思えば、オレの足を折ると、足の付け根の奥のほうを、指の腹で探るようにいじってくるのだ。
「あ、待てよ、そこは反則だろ」
そう言うのにも耳を貸す様子はなくて、さっき開けたチャックの方から、ズルズルとズボンを脱がしていく。胸を茶亜莉伊が片手で止めているので、一刻も早く起き上がってそれから逃れることもできない、最悪の状態だ。
「ま、まじやめろ!こんなの、冗談じゃすまされない」
「はい、幸いなことに、これは冗談ではございません」
茶亜莉伊は相も変わらぬ笑いを浮かべる。指が、下着の中に入ってきたのが分かった。
「い、いや、冗談で良い。冗談が良い、です」
オレはとにかく急所だけは両手で死守する。
「狩野様のその打てば響く反応は、きっとあの方もお気に召すはずでございます。そしてその年齢に不相応な愛くるしいかんばせも、あの方のストラークゾーンど真ん中必至でございます」
「あの方って、誰?」
「今宵の狩野様のお客様でございます」
「でも、オレはまだ彰人の件は返事してないだろ」
「狩野様は、きっとお手伝いを受けて下さるという憶測の下、ただ今お客様を変更させていただくことにいたしました。ですから、変更後のお客様のことでございます」
「憶測の下って、勝手な話だな、そりゃ」
考える時間を作るとか言っていたクセに。
だけど、そうだな。
多分オレは、彰人がどんなつれなくても、取り付く島があるうちは、あいつに歩み寄らずにはいられないのかもしれない。
それに、感情論で混乱してるより、今できることをこなす方が遙かに生産的だ。
「分かったよ。オレにできることならやるつもりだ。仕事を回してくれて構わない。で、その客ってのは、どんなやつなんだ?」
「非常に希有な方でございます。ある意味、とても素晴らしい方とも言い換えられます」
「ある意味、とても素晴らしい?」
オレは何故か悪寒が走るのを感じた。
茶亜莉伊の用いた「ある意味」って言葉が、手放しに素晴らしいとは言い難いというのを暗に指しているせいもあるだろうけど、違う何か。
悪い予感のようなものを感じた。
「ともあれ狩野様。狩野様のその、下腹部に蓄えた熱を取りのぞかない限り、わたしはお仕事を完遂できかねます」
茶亜莉伊の視線が明け透けにオレの足の付け根に向く。
「い、いや、これはオレ個人でどーにかするから」
「いいえ。男娼とはいわばこの館では商品でございます。商品の不整備は我々ベルボーイが責任を持って処理せねばならぬことでございます」
茶亜莉伊は覆いかぶさるように身を寄せてくる。オレはせめてもの抵抗で、両手を付いて上半身を何とか起こすものの、
「なんつう理!」
下着に直に這い入ってきた手に悶絶した。しばらく無遠慮に撫ぜられているうちに、パチン、とあるたがはずれ、じゅわっと、熱が腿を滑り落ちる。
「うそ、だろ」
オレは顎を天に向け、ぐったりとする。
「大変美味でございました」
茶亜莉伊の柔和な声に心底ぞっとした。
悪寒ってのはこれのことか?
怪しいベルボーイに股間をまさぐられて、あまつ昇天させられるなんていうのは、確かに悪い予感に相当する気もする。
茶亜莉伊はオレの上から降り、洗面所に手を洗いに立つ。
オレは何とも言えない心地で起き上がると、先ずはズボンのチャックを閉める。それに、シャワー浴びないとだな。
「これが本日のお客様、君塚浩二様の書類でございます。どうぞお目通しください」
戻って来た茶亜莉伊は、テーブルの上から書類を持ってきて、ベッドの上に置く。
「狩野様が君塚様のお相手をなさるのは、イレギュラーのことではありますが、元々君塚様は、本日パーティにいらっしゃる予定でしたので、狩野様は昨晩のように定時まで待機で問題ないと思われます」
「分かったよ。りょーかいりょーかい」
茶亜莉伊のやつ、公私の切り替えが上手いというか、公私同時に施行するのが上手いというか、やっぱり苦手なタイプだな。
これ以上近くにいると、また危険がやって来る気がする。
そんなわけでオレは書類を受け取り、さっさと部屋に戻ることにした。
それにしても、今晩もパーティを男と過ごすのかと思うと、不毛すぎる。
もっとも、ここにいる限り、そう文句も言ってられないんだろうが。まあ、今度こそまともなやつであることを祈るばかりだな。
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