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ピュアの澱み
しおりを挟むその日はバイトが休みだったので彼の家に行って、彼考案のラインセラピーを銘打った遊びをする。
彼は一枚のページに紫の色鉛筆で線を引いていった。
「村瀬さんも引いて」
と言うので、訳も分からずにピンクの色鉛筆で線を引いていくと、彼が私の描いた線の上に紫の線を足していく。私の動きを追うように、ついてくる。児戯のようだったけれど、線の上の戯れだけが岸井の本心のような気がした。
顔を見上げると目が合う。あ、これはいかん、と思い顔をそむける。キスしたいかも、と思った。彼は何も言わず、私の行動を受けとめるだけの瞳をしていた。
「キスしちゃだめ?」と聞いたら、
「したあとで、誰かに責められたら、どう説明すればいい?」
と逆に聞かれた。
「ぶつかっちゃった、とか。あとは接触セラピーだったはどう?」
と私は聞いてみる。彼は眉を寄せて、「あまりいいアイデアじゃない」と言って判断に迷うというような顔をしたけれど、拒否ではないと思った。
私はそっと顔を寄せて、その薄い唇にキスをしてみる。
正真正銘のファーストキスだ。
皮膚が触れただけ、そう思ったけれど、甘い匂いがした気がして、もっと触れたくなってもう一度した。彼の長い睫毛が頬に影を作るのを見て、まずい!と思う。押しすぎてひかれたかもしれない。
「ごめんなさい、調子に乗ったかも」
私の言葉に彼は目を丸くする。いや、と吐息まじりに言って、スケッチブックに視線を落とした。私もスケッチブックの線に集中して、紙の上で彼と遊ぶ。
いろいろな絵を描いて、書き足して、線で戯れる。夢中になって遊んでいるうちに、タイマーが鳴った。ラインセラピーはおしまいになる。
彼とキスをしてしまったのは、少しだけ前進と言える。
でも同時に、私は自分の中にある「したいかも」の欲に気づいてしまった。
ピュアピュアな関係に、少し澱みが出た気もする。
ゆうかに味見をすすめられた若槻は、週末にまたバイト先に来た。
「トライアルデート、どうでしたか?」と聞いてくる。
「普通だったよ」と私は言った。
「普通って、グットなのかバッドなのか」
「まあまあ。彼氏いるから、コメントしにくい」
「付き合ってるかどうかと、オレとのデートが良いかっていうのは別っすよ」
「そうかなぁ」
「オレとも付き合っていけば、今の彼氏さんとオレ、どっちと先に別れるかって時間と状況が決めてくれると思います」
「なにその理屈?ヤバいよ、今はお客さんだからとっても言いにくいけど、ヤバい!」
「一目ぼれなんですってば。桃みたいないい香りして、見たら村瀬さんいたから。顔も好きだったし雰囲気も好きだった。ここで逃したら、もう絶対後悔するって思ったんで」
それはまさしく、私が彼氏に感じていたのと同じだ。
「仕送りの食費削ってここ来てますもん」
「やめたほうがいいよ、そんなの。つぎ込んでも報われないもん、私彼氏と別れるつもりないもん」
「時間が決めてくれると思います。だから、付き合ってください」
「ヤダよ!早く注文してください!」
と私は端末で顔を隠して、一旦キッチンの方へ逃げていく。
欲しくなっちゃう気持ちは分かる。踏み出したらもっと欲しくなっちゃうかもしれない。
あげられないって分かってるのに、踏み出すのは優しくないと思う。
「オレの気持ちは変わんないんで」
と若槻は言って、カフェラテを飲んで帰っていった。
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