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美神のりんかく
♨不安な表情
しおりを挟む気づくと、ソラは実技棟の螺旋階段にいた。夏彦がやって来る様子はない。中学のときは振り切れなかったけれど、痩せて身体が軽くなって足も速くなったみたいだ。
階段の手すりに両腕を載せて、ソラは息を整える。
「はあ……あ。もう……何でいるんだよ。就職したんじゃなかったのかよ……」
中学三年のときの進路希望調査で、やつは、実家の畳屋を継ぐと言っていたはずだ。なのにここにいるなんて。
こうなると、入学式に見かけたような気がしたのは、見間違えじゃなかったと思えてくる。夏彦はあのとき、あの場にいた。
ソラの思い違いじゃなければ、ソラを探しに来ていたのだと思う。
「転校、しようかな……」
溜息まじりにソラは呟く。
夏彦のことがなくたって、彼女を作るどころか、男に追いかけまわされる毎日なんて、想像を超えて、とんでもない。
(なんでこう……うまくいかないんだろう)
とまあ、すっかり意気消沈して、ソラは実技棟の階段を降りはじめた。
階段を降りていくと、揮発性の高い感じの、そう油性のマジックの匂いみたいな、でも違うような匂いがして来た。つんっと鼻腔を抜けるどこかで嗅いだことのあるような匂い。放っておくと、うっとりとしてしまいそうで、少し危険な匂いだ。
これ、どこから?
ふらふらと匂いに誘われるまま、ある部屋の前にやって来た。
《セカンド・アーティスティック・ルーム》と入り口の上に掲げられたプレートには書かれている。
「第二、美術室……?」
ソラはドアを横にひく。ドアはするすると溝を滑り、中が明らかになる。
ソラの目に真っ先に飛び込んだのは、巨大なキャンバスだった。とにかく大きかった。キャンバスの大きさの単位なんてソラは知らないし、普通はどのくらいの大きさで描くものかも判らないけれど、相場で考えても大きいんじゃないかというくらいだった。そのキャンバスが収まっても尚、余裕を残す部屋の天井は、とにかく高い。恐らくこの部屋だけは、縦に二階分以上のスペースを使っている。
キャンバスには、大きな虎がいた。
毛柄は普通の虎と同じだけれど、毛色はあくまでも白い。ホワイトタイガーというやつだと思う。炯眼でこちらを見すえ牙を剥き、今にも飛びかかろうとしている。油絵なのに、黒と白だけの配色で描かれていて、一見すると質感は、水墨画のようだった。
「ふんふふふんふん、ふんふんふ~ん♪ふんふふふふんふん、ふんふんふ~ん♪」
そして耳に飛び込んだのは、奇妙奇天烈な鼻歌。よくよく見ると、巨大なキャンバスの横に、黒いスーツの背中がある。今朝、見ざるをえなかったスーツの、背中だ。
近づきたくもないし、近づくと危険な背中なのだけれど、ソラは、なぜか、歩み寄ってしまっていた。
「……」
その絵は、異様で目が離せない。異様に美しくて、異様に恐ろしい気がした。
「……紫藤、先輩」
ソラが図らずも声をかけると、鼻歌は止み、大仰な仕草でスーツは振りかえった。
「ソラ!」
目が開きたての子犬のようなキラキラした瞳で、紫藤はソラを見つめる。
「お前が俺の名前を呼ぶなんて!しかも、判っているのか。ここは、美術室だぞっ?」
紫藤は興奮気味だ。手をバタバタさせて、ボディランゲージが激しい。
「わかってるけど、暑苦しいから興奮しないでくれる?」
「いいや、それは無理な相談っていうやつだ。お前がここに足を踏み入れたということは、お前は、とうとう、美術部員に!つまり俺のものになるってことなのだからな!」
「なんだよそれ。そんな理屈はこの世の中には存在しないよ……。それより、この絵。先輩が描いたの?」
すうっと紫藤の瞳が曇るのが、ソラにはなぜか判った。甘く煮つめたアプリコットジャムみたいに、甘くて、熱く光る目から一瞬にして光が失われていった。
「先輩……?」
(なんだろう……)
不安になる。
「そーそ。俺が描いたの。まだ途中なんだけどな。凄いって誉めたいんだろ?」
一瞬のことだった。紫藤はすぐに明るくて能天気ないつもの顔になって、得意そうに言った。
「誰が誉めるかって、言いたいところだけど……。凄い、かもしれない……」
「サンキュー。嬉しいからキスしてやろう」
がばっ。とソラの上半身を抱えんとした紫藤の片手を、ソラは掴む。
「何だ、この手は」
「いや。なんとなく身に危険を感じたから」
「危険を感じただなんて、大変じゃないか。俺が守ってやるから、手を放せ」
「手を放すことが危険に身をさわすことになる気がするから、遠慮しておくよ」
「遠慮深いやつだな。そういうやつは、後々損するぞ。お前が俺にめろめろになったとき、あの時、俺と戯れてれば良かったなあって、後悔するに違いない」
「そんなの万に一もないね」
「俺の愛の大きさを知っていながら、なんてつれないやつなんだ」
紫藤は肩を大げさにすくめて、わざとらしい溜息をつく。
いつもの紫藤だ。
やっぱり、さっきのはソラの見間違いだったのだろうか。
「先輩は、性質はひどいけど、絵は上手いんだね」
「そうだ。俺は、絵画の神に見初められた類いまれな美青年だからな」
「はいはいはい。類いまれな変態だね」
「何度も言うように、お前は俺に変な偏見を持ってるよな。けど安心しろ。俺とれみが籍を入れて、お前も一緒に暮らしていくうちに、きっとそんな偏見もどこかに吹っ飛んでしまうに違いないからな」
「……本気で、結婚するつもりなの」
「れみには悪いけど、本気だ」
「れみに悪い?」
「ああ」
「どういうことだよ」
「ソラには、関係ない」
「れみに変なことしたら、おれが許さないっ」
ソラが鋭利な瞳で見すえると、紫藤は肩をすくめる。
「お前は許さないだろうな。でも……俺の目的の為にれみは必要だ」
「目的って……?」
「それよりもソラ。折角来たんだ。素描させてくれよ」
「ちゃんと質問に答えろよ!」
「まあまあ、そんなおっかない顔しないで。そこの椅子の上に座って」
「何で」
「絵を描くだけだって。警戒なんかしなくてオッケー。ただ気楽にそこに座ってくれれば問題なし。それくらいならいいだろ?」
「無理だよ。もうすぐ、休み時間終わるし。教室帰らなきゃ……」
と言いつつも、この実技棟から教室までの道々で、夏彦に遭遇する可能性を考えると恐ろしい。
「そんなに時間はとらせない。頼むよ」
紫藤はいつもの大げさな動きで、顔の前に手を合わせてくる。
「別に……いいけど」
なんだか巧く丸め込まれてしまった気がする。
静かだった。
紫藤はただ黙々と、ソラの姿をクロッキー帖に落としていった。
なんだか変だった。
紫藤は、出会えばいつも騒がしくて、それは家でも学校でも変わりないのに、今はこんなに静かに絵を描いている。ソラは、珍しい動物を見たみたいな気分になる。
絵がそんなに好きなんだろうか。
ソラは、ソラの姿をどことなく見つめてさらさら描いていく紫藤を見て思った。
――何だか違う。
好き、かもしれないけど、それだけじゃないような。そんな風に簡単に片づけられない雰囲気を紫藤は纏っている。
絵を描きたがってるけど、同時に、描くのを面倒がってるみたいな。一目散に絵を描きたがってるようには感じなかった。
(――――変なやつ)
今はなんだか、その一言で片づけておく方がいい気がした。考えすぎちゃいけない気がしたのだ。
黙って座っているうちに、ソラは、だんだん眠くなってしまった。
静かで規則正しい鉛筆の音がするだけのこの部屋は、眠るには恰好の場所だった。始めはコクンコクンと頭が時折ぶれるくらいだった。
そのうち、気がつくと眠っていることがあって、最後にはぐっすりと眠ってしまっていた。
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