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第7章
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青い空へ駆け上がるような風を受け、丘の上までたどり着くと、そこに美也子がいた。
「遅いよ」
か細い声と、優しいまなざしを向けて、僕をたしなめる。
「ごめん、待ってた?」
「待ってたよ」
いつもそうしていたように、ふたりで軽口を叩き合いながら、草の上で隣り合って座る。
「空が近いね」
「ここがもう、空の中なんだよ」
「そか」
丘の向こうには、大きな穴が大地にぽっかりと空いていて、その底に広がる草原が見渡せている。ここは特別にぜいたくで、居心地のいい場所だった。晴れ渡ったチベットの空が、僕らの再会を祝福してくれていた。
草の海に、空を映す湖水が光り、そのほとりには廃墟のような町が見えていた。そこにちらほらと、人の姿が見える。
「みんないるね」
「うん。あそこにいるね、みんな」
少し、雰囲気が変わっただろうか。小柄で子供のようだった美也子が、今はどこかしら大人っぽく感じる。
「美也子」
「うん」
緑の統べる王国から、暖かい風が吹いてくる。空のどこかの陽だまりからやってきた風だろうか。
「僕さ、もう少し、違っていられたと思うんだ」
いつも遠くを見つめているような、美也子の細い目。つまみたくなる大きな鼻。オモチャの楽器のような細い声。そのままの声で、明るく僕に言う。
「昔の話だよ」
美也子が腰を上げ、空に両手を伸ばして言う。
「そろそろ、行くね」
「僕も行くよ。そのために、僕はまた、ここに来たんだ」
視線を宙に浮かせ、曖昧に頷くような仕草を見せる美也子。嬉しいのか悲しいのか、その表情からは窺えない。
「ねえ、聞いていい?」
「なに?」
「君は今、どこにいるんだ?」
遠くの町に視線を向けて、美也子は答える。
「私はずっと、ここにいるよ」
小さい身体が隠れそうな、大きなバックパックを背負い、世界のどこまででも、私はひとりで歩いてゆけるんだと自慢していた細い体が、風にあおられ、心もとなく揺れる。
「もうひとつ、いい? 鳥葬を見て、君は何を知ったんだ?」
肩に手が置かれる。
「あぎさん、それは、自分で確かめるといいさ」
振り返ると、石川さんがそこにいた。
近寄りがたいことも高慢なところもなく、話しかけられると誰もが嬉しくなってしまう、優しいまなざしが僕に向けられている。
「見れば、わかるよ」
そう言い残すと、石川さんは崖の先へ歩き出す。
「石川さんも行くの?」
「ああ。行ってるよ」
石川さんは後ろ手を振り、斜面の向こう側に見えなくなった。
美也子の手を握る。美也子の表情がもう一度、子供のようにほころぶ。
「行こう、一緒に」
「待ってるよ」
美也子が言った。僕はうんと答える。嬉しかった。ここにあるもの全てが嬉しかった。
さあ行こう。あそこにはみんないる。全てのものが、そこにある。
「あぎさん、ねえ、ちょっと、あぎさん起きて」
佳代の声だ。佳代もいるのだろうか。
「ねえ、あぎさん」
体が重い。頭がクラクラする。気持ち悪い。揺らさないでくれ。戻しそう。
「……佳代も……行くの?」
「うん? 何言ってんの? ね、お願い、ちょっと」
「あれ……?」
目を開けると、佳代が上から覗き込んでいる。見渡すと、ゲストハウスの部屋だった。僕はベッドの上で寝ていた。
「……なんだ、夢か」
外はもう明るかった。体を上げると、ぐるぐると目が回る。見事なまでの二日酔いだった。昨日、皆で飲みに行って、英恵と石川さんの歌を聞いて、そのあたりから、覚えていない。
「僕、昨夜どうやって、ここまで戻ってきたんだろう?」
ベッドにしゃがんで、佳代が答える。
「歩けなくなって、石川さんにべったり肩を借りて戻ってきたよ。すぐに寝ちゃった。それよりさ、ほら」
佳代が指差した先、石川さんのベッドが空になっている。ギターは残っているけれど、他の荷物が全てない。
「あれ? 石川さんは? 英恵もいない?」
「英恵ちゃんは今、トイレに吐きに行ってる」
時計を見ると昼近くだった。佳代も髪がボサボサで、今さっき起きたという表情だった。
「鳥葬、確かめそびれちゃったな」
「それもそうなんだけど、ほら、石川さん、今日の昼過ぎにここを出るって言ってたでしょ。二日酔いのあたしたちに遠慮して、黙って行っちゃうつもりなんだろうけどさ、ギターあるじゃん」
「うん。残ってるね」
「忘れるはずないと思うから、置いてったのかもしれないけれど、一応持ってって、見送りくらいしに行こうよ。バスが停まるのは村の入口でしょ。そこに行けば、まだ会えるよ」
そうだなと頷く。ごん。
ドアを開けて、英恵が戻ってきた。入口で足の小指を親の仇のように打ち、ベッドに転がり打ち上げられた魚のようにのたうちながら、おはようございますと言う。
「すぐそこだから、がんばって行こうよ」
佳代はまだましのようだが、僕と英恵はひどい二日酔いの足を引きずり、よろめきながら亡者のように表に出てゆく。
「太宰の小説で『尼』っていうのがあってさ、蟹がよろばい歩く、っていう表現があるんだけれど、なんかそれ思い出した」
「よろばい歩いてます」
「あ、あたし太宰と、生まれ同じ町だよ」
村の入口の車の乗り合い所に着く。僕らも村に到着した時に、ここで下りた。
ライトバンやトラックが停車し、運転手らがタバコをふかして談笑している。乗車待ちらしいチベタンや漢族がちらほらいるが、石川さんの姿はない。
「もう、行っちゃったのかな?」
どこかで時間を潰しているのかと思ったら、ちょうどバスがやって来て、目の前でさっさと出発してしまった。
「あれ? ……今日はあの一台だけだって。おかしいな」
「石川さん、どこ行っちゃったんだろう? 出発するのをやめて、どこかにいるのかな?」
ふらつく足を引きずり、僕と英恵はゲストハウスに戻ることにする。佳代はちょっとそのへん見てくると言い、どこかへ行ってしまった。
「……やばいです」
英恵が路上で足を止めて壁にもたれ、口を押さえて言う。顔が屍のように青い。
「宿までがまんできそうにない?」
無理と首を振る英恵。仕方なく手を引き、建物の間を抜け、通りの裏側にある小さな川の河原に連れてゆく。
首を伸ばして土の上にしゃがみ、川の流れに景気良く戻す英恵。しばらくして顔を上げ、もう平気みたいですと、ヨダレと吐瀉物で頬を濡らしながら言う。汚いのでウエットティッシュで拭いてやる。
「川汚しちゃった」
「ここではいいんじゃないかな。ほら」
僕が指差した先に、表通りの店の裏手が、河原沿いにずらりと並んでいる。その全ての建物の真下から、川に伸びて溝が掘られ、溝の上にある建物の底に、穴が空いていた。
「あれ、みんなトイレですか?」
「そうだよ。水洗トイレ。あそこから落下して川にイン。下水なんてない」
驚く英恵が、ようやくキョロキョロと周囲を窺う。清らかで速い流れの河原は、実はビニールやプラスティック、そして汚物だらけのゴミの山だった。
「こっちの川は、だいたいトイレ兼ゴミ捨て場になってる。西部大開発で物はいっぱい増えたんだけれど、処理の方が追いついてなくて。ガラスとか危険なものもあるから、気をつけてね」
ハローキティがプリントされた子供のおもちゃが、浅瀬に沈んで色あせている。英恵は物悲しげなまなざしで川面を見つめる。対岸で大きな犬がヨタヨタしながら達観的にうろついている。
宿に戻る道中に、英恵がぽつりと言う。
「ゴミだらけだったけれど、水は清らかだし、魚もいましたね」
そうだねと答える。チベットでは夭折した子らは魚になるのだという。冷たい流れの中で群れを成して遊び、水面に映る青空の海を楽しげに泳いでいるのかもしれない。ここは、長寿とは無縁の世界なのだ。
チベタンの平均寿命は五十歳程度。食事の塩分がすごいので軒並み高血圧で、突然死も非常に多い。長い日照時間による強力な紫外線の影響との説もある。確かにこの地に、まとまった降水はほぼなく、雪が降ることはあるけれど、すぐに晴れて、まぶしく青い空が広がる。
魂が洗われるような青空と引き換えに、寿命を削られている。長く生きることよりも、良く生きることの方に意味を見出すチベタンにとって、あるいはそれは、望むところなのかもしれない。
自分の国を守れなかった民の地に向けた、佳代と美也子の言葉が思い返される。
ここはもう天上で、ここにいるひとたちは天上の住人なのだと。空が近いのではなくて、空の中にあるのだと。その向こうにある場所と、半分繋がっているのだと……。
老犬よりもヨタヨタしながら、僕らは部屋までたどり着き、もう一度ベッドの上で、死体のように寝転がる。
「……変な夢だったな」
額に手を置きながら、ひとり言をつぶやくと、寝ていたと思っていた英恵が、それに応える。
「あぎさんも、なんですか……」
「うん?」
「あ、いえ、何でもないです。……ところで、あぎさん」
「なんだろ」
「あそこの町にいた人たちって、どうやって暮らしてるんでしょうね」
天井を眺めながら、しばし英恵の言葉の意味を考える。
「……夢の話?」
「はい?」
「いや、あの町にいた人たち……って、それは、夢の中での話?」
いいえと言い、苦しそうな体をこっちに向けて、英恵が言う。
「あそこ、人いましたよね」
しばらく沈黙。僕も英恵の方を向く。
「……いや、見間違いかな、と思っていたんだけれど……。英恵も、見たんだ?」
「ええ。こんな視力なのに、なんだか見えたんです。あ、いるなって。なんだ、住人いるんだなって」
目の錯覚ではなかったのか。あそこには、人がいた。英恵も見ていた。
ドアが開く。佳代が帰ってきた。
「……やってたって」
少しひそめた声で、佳代は言った。僕は体を起こし、何が? と聞く。英恵も目をこすり起き上がる。
「鳥葬」
驚く僕、そして英恵。
「え? 本当? 今朝あったの?」
佳代がうんと答え、そして説明する。
「どこかの店に、石川さんいないかなと探しに行って、ついでに寺に行って、いつものあの人に聞いてみたら、今朝、鳥葬があって、お前たちの仲間の日本人が見ていったぞって聞かされたの」
白酒臭い自分の息に頭痛を覚え、水を飲みながら話を理解しようとする僕。
「……それじゃあ、僕らが二日酔いで眠っていた間に、石川さんはいつものように寺に行って、そのまま鳥葬を見たってことか」
だとしても、それはまあ仕方がないだろう。急いでここに戻って、二日酔いの僕らを連れ出すまでに、鳥葬は終わってしまうかもしれない。ひとりで見た石川さんのことを、責められはしない。
「うん、それはまあ、いいんだけれど、石川さん、村のどこにもいないのよ」
ゲストハウスのレセプションで聞くと、石川さんは朝のうちにチェックアウトしたのだという。しかし、夏藩を出る車には乗っていないのだ。
……どういうことだろう。石川さんは鳥葬を見た後、どこへ行ってしまったのか。
「それならたぶん、今日出発するのはやめて、近くの丘とか、どこかを散歩でもしているんじゃないですか?」
英恵が言う。宿をチェックアウトして、荷物を持ったままで? と僕が聞くと、そうですよねと鼻を掻く。
けれども、考えられる可能性としては、それしかなかった。何か思うところがあり、たとえば鳥葬を見たことで、少なからずショックを受けて、ひとりになりたくて散歩しているのかもしれない、という結論に、僕らは達した。
「この町にいれば、どこかしらで会うだろうし、向こうがもし避けているなら、無理にこちらから探すこともないだろ」
佳代はそうだねと答えながら、どこか釈然としない様子だった。おそらく英恵もそうだろうが、言っている僕が一番そうなのだった。これでは、まるで……。
日が暮れるまで、皆でゴロゴロしていたけれど、いいかげん空腹になってきたので、三人でのろのろと部屋を出る。
適当な食堂に入り、時々表通りを眺めながら、朝食も昼食も飛ばした遅い食事を取る。こういう時、粥の種類が多いのがありがたい。むかつく胃にやさしい上に美味しい。
「うん? 穴の底の町に、人なんかいたっけ? あたしは見えなかったけどな」
「佳代は見てないのか」
「って言うか、見る気もなかった」
「みんな、どうやって出入りしてるんでしょうね」
酔い醒ましのけだるい夕べに、僕らはあの町に、見間違いではなく人間がいたと仮定して、その正体についての推理をし、いくつか仮説を挙げてみた。
たとえば、チベットに特有の湖、塩湖には有益な資源があるので、あの町は調査や採集のために作られた施設であり、出入りはヘリコプターを使っているとか。
または、あれは町っぽく見えるけれど、トルコのカッパドキアのような自然石であり、人がいたように見えたのは、動物か錯覚。
もしくは、わけありな人たちが、外との接触を拒んで住み着いている、秘密の集落か、過去そうであった場所の廃墟、などではなかろうかと。
「なんか、どれもいいとこ突いてそうじゃない?」
「わけありな人たち、ってのがいいよな。弾圧や迫害から逃れて、ひっそりと伝統やら信教を守って暮らしている集団や村とかさ。日本にも昔は、そういうかくれ里みたいな場所があったみたいだし」
「へえ、そうなんですか?」
「アニメとか、漫画でそういうの見た」
聖なる地、という名前からして、その説はふさわしい気がする。二日酔いの脳みそで考えたにしては、なかなかいい推理ができたのではないかと、僕らは自画自賛する。
「あとさ、あの火口みたいな、崖に囲まれた変な地形の正体だけどさ、もしかしたら、という心当たりがあるんだ」
なにそれ? と佳代が聞く。僕は答える。
「隕石が落ちたんじゃないかな」
以前、オーストラリアやカナダにある、似たような景色の写真を見たのを思い出していた。クレーターである。
地表に衝突した隕石は、直径数百メートルから、大きなもので数キロから数十キロの、まん丸の穴ぼこを大地に作る。リムと呼ばれるクレーター外縁は、周囲の地形からは丘のように盛り上がり、内側は数十メートルから百数十メートルの落差を持つ崖となる。
「それだ。まさにそれじゃん。あの穴はクレーターってやつだったのね」
隕石クレーターの多くは、深さ数十メートルから数百メートルの湖となる場合も多いが、クレーター写真としてよく使われるアメリカ南西部のバリンジャー・クレーター、または聖なる地とよく似たウルフ・クリーク・クレーターなどは、底部が地表に露出し、平坦な岩場や草原となり、人間の降りられる観光名所となっている。
クレーターが人口の少ない場所に存在していた場合、ずっと人間に発見されないことも多く、オーストラリア北西部にあるウルフ・クリーク・クレーターは、第二次世界大戦後に偶然発見され、その北部にあるバングル・バングル国立公園に至っては、1982年にようやく発見されている。
チベットは世界で最も人口密度の低い地域であり、その上外国人の立ち入りが厳しく制限されている。西部や奥地に未踏の山や無名の湖がいくらでも存在しているこの地であれば、知られていない巨大なクレーターが存在していたとしても、それほど不思議ではない。
「調査が行われて、一般に公開されたら、けっこうな名所になるのかもしれないけれど、謎なのは、その底にある町だよね」
クレーターの外縁は、そのまま土塁や城壁に使えるから、ドイツには直径二十キロのクレーター内に、そのまま作られた古い町などもある。聖なる地もそのようにして、外界から隔離させることを目的に作られた町なのかもしれない。
お粥も食べ終え、八宝茶を何度もおかわりして、酔いを醒ましながら、あれこれ喋り続けてゆく中で、僕はぽろりと、口に出していた。
「石川さん、あの町に行ったんじゃないかな……」
「え? どうして?」
「いや、なんとなくなんだけど」
そんな気がしていた。根拠はない。いや、なくはない……。
「でも、行ったとしたら、どうやって? 車はないでしょ」
「ここから車で二時間くらいだったよね。エベレストさえ登った石川さんだったら、荷物を背負って、歩いて行っちゃうんじゃないかな」
厳しい気候のチベット高原を、二日かける覚悟と装備があれば、歩いて行けない距離ではない。そして、石川さんなら、それができる。簡易テントも持っていたし、寝袋はフォーシーズンどころか雪山でも耐えられる、しっかりしたものを持っていた。
「でもさ」
テーブルに頬杖をついて、首を傾げながら、佳代が言う。
「丘の上までならともかく、穴の中のあの町に行く、ってのは無理なんでしょ。そりゃさ、ヘリでもクレーンでも使えば、なんとでもなるんだろうけど」
「降りるだけなら、できる」
「え?」
どういうことかと、佳代が聞く。
「石川さんなら、ロッククライミングの道具を使って、下まで降りられると思うんだ。ザイルっていうロープを使って。懸垂降下ってやつ」
丘の上の、なるたけしっかりした地面に、いくつものハーケンを打ち込み、そこからロープを垂らす。崖下までは百メートルはあったけれど、ある程度降りれば急斜面ではなくなる。草の上を滑るような形で、下までたどり着ける。
「でも、降りることはできても、戻れないんでしょ」
「うん。だから、降りるだけなら」
……戻らないことを前提ならば。
厳密には、ザイルを使って上昇する技術もあり、アッセンダーというケイビングなどに使う道具があればさらに容易なのだが、石川さんはそんなものは持っていなかった。
「……なんかそれ、イヤな感じの話ね」
「ごめん。なんとなく」
なんとなく、そう思う理由を、僕は説明できなかった。
「いやですよ。変なこと言わないで下さいよ」
ここであれこれ考えていても仕方がないと話を打ち切り、宿に戻る。
さしあたって、僕らができることはなかった。明日いっぱい、石川さんが戻ってくるのを待っていようと、僕らはそれだけを決めた。ふらりとこの部屋に戻ってきたり、通りを歩いているのを見つけられるかもしれない。
深夜、寝床についても、三人ともなかなか寝付けなかった。昼間に寝すぎていたせいだ。暗がりで幾度も寝返りを打つ、二人の気配を感じる。
そのうち寝息が聞こえてきて、僕もようやくうとうとし始めてきた時だった。
ぎゃああああ。
突如、ものすごい悲鳴が、暗がりで鳴り響く。心臓が止まりそうになる。
「なな、何だ?」
「いや! やだ! いやだいやだいやだ!」
「何なの?」
佳代も目を覚ました。闇の中で、悲鳴を上げた英恵が、ひどく何かに怯えている。泥棒でも入ったのだろうか。僕は起き上がり、部屋の灯りを点ける。
「……どうした?」
部屋の中には自分たち三人しかおらず、盗っ人や侵入者の気配はない。どこかに隠れている形跡もなければ、部屋のドアも施錠されたままである。
「ちょっと、英恵ちゃん、何があったの?」
頭を抱えてがたがたと震え、ひどく怯えている英恵に、ふたりで声をかける。
「ねえ、大丈夫だよ。ほら、何もいないよ」
佳代がそばで優しく言うと、英恵は依然何かに怯えたまま、顔を上げずにうわ言のようにつぶやく。
「……大丈夫です、何でもないんです。すみません、本当にすみません、ごめんなさい……」
大丈夫と言われても、ものすごく気になる。
「たまにあるんです、寝言です。ご迷惑おかけして、申し訳ないです」
「寝言?」
こんなに迫力のある寝言というものもあるのか。佳代と顔を見合わせて、肩をすくめる。
「歌が本職だから、悲鳴もよく通るのかな」
「あたしのイビキ超えてたわね。怖いなら、一緒に寝てあげよっか?」
佳代が冗談めかして言うと、英恵は少し間を置いて、お願いしますと答える。え? マジ? という顔つきになり、目を剥いて僕に向き直る佳代。言ったんだからやってやれよと、目で応えて頷く。
同じベッドに入り、英恵に腕に抱きつかれる佳代の、見たことのない照れた顔をちらりと窺ってから灯りを消し、僕ももう一度ベッドに戻る。
天井を見上げて思い出す。同じだな、と……。
……美也子が、こうだった。
夜驚、という症状は、基本的には児童のものだが、薬物中毒患者などにも起こり得る。バックパッカーにヤク中は珍しくないけれど、美也子はそうではなかった。英恵も絶対に違う。それはわかる。
時折起きる、美也子のそれに、怖い夢でも見ているのかと聞いたところ、そうではないと小さく首を振り、一度だけ、こうつぶやいていた。
――あたし、終わってるの、人として……――
控えめな美也子だったけれど、若い頃のある時期、二回ほど不倫をしていた。最悪な形で強引に終わらせた、とだけ僕は聞いていた。酒に酔うと、消えたいとつぶやくこともあった。
美也子と石川さんを連れていった鳥葬は、近いうちにまた行われるのだろうか……。
朝になり、ひとり減った三人で、鳥葬台入口へ行った。小屋のチベタンのおじさんに、今日はないよと言われ、やることが終わった。
昨日、鳥葬を見に行ったはずの仲間を見かけなかったかと聞いたが、おじさんは知らなかった。僕は顔なじみになった村の人たちに、背の高いあの男性を見なかったかと聞いて回ったけれど、見た者は誰もおらず、他のどの宿にも宿泊していなかった。
夜になり、僕は佳代と英恵に言った。
「明後日あたりに、僕、もう一度聖なる地へ行くよ。下まで降りて、石川さんを探してくる。一緒に来てくれないかな? それからさ、携帯ちょっと、見せてくれない?」
次の日、朝から僕は動き回ったが、いきなり躓いた。
車を出してくれたチベタンに、また聖なる地まで行ってくれないかと頼んだところ、男はがぶりを振った。自分は禁じられている聖なる地に、人を運んだ疑いを寺にかけられていて、当分それはできないのだと拒否された。
仕方なく、物資が運ばれてくる村の入口の乗り合い所に行き、チャーターできるランクルがないか探してみたところ、運良く漢族の車が見つかった。運転手をつかまえ、互いにほとんどわからない北京語と英語とで、高度な交渉を試みる。
「二日間車を貸して欲しい? 無理だね。公安にばれると面倒だし、仕事で動いているから時間がない」
「二千元でどうかな」
「公安なんてバレやしないし、時間なんてどうでもいいわ」
借りられたのが漢族で良かった。聖なる地まで行くことを警戒されずに済む。しかも最初からウインチが装着されている車種で、願ったり叶ったりだ。
商店で購入し、ロープの確保もできた。ウインチのワイヤーをロープと交換して、動作チェックと強度の確認をする。問題はない。大丈夫のはずだ。
「遅いよ」
か細い声と、優しいまなざしを向けて、僕をたしなめる。
「ごめん、待ってた?」
「待ってたよ」
いつもそうしていたように、ふたりで軽口を叩き合いながら、草の上で隣り合って座る。
「空が近いね」
「ここがもう、空の中なんだよ」
「そか」
丘の向こうには、大きな穴が大地にぽっかりと空いていて、その底に広がる草原が見渡せている。ここは特別にぜいたくで、居心地のいい場所だった。晴れ渡ったチベットの空が、僕らの再会を祝福してくれていた。
草の海に、空を映す湖水が光り、そのほとりには廃墟のような町が見えていた。そこにちらほらと、人の姿が見える。
「みんないるね」
「うん。あそこにいるね、みんな」
少し、雰囲気が変わっただろうか。小柄で子供のようだった美也子が、今はどこかしら大人っぽく感じる。
「美也子」
「うん」
緑の統べる王国から、暖かい風が吹いてくる。空のどこかの陽だまりからやってきた風だろうか。
「僕さ、もう少し、違っていられたと思うんだ」
いつも遠くを見つめているような、美也子の細い目。つまみたくなる大きな鼻。オモチャの楽器のような細い声。そのままの声で、明るく僕に言う。
「昔の話だよ」
美也子が腰を上げ、空に両手を伸ばして言う。
「そろそろ、行くね」
「僕も行くよ。そのために、僕はまた、ここに来たんだ」
視線を宙に浮かせ、曖昧に頷くような仕草を見せる美也子。嬉しいのか悲しいのか、その表情からは窺えない。
「ねえ、聞いていい?」
「なに?」
「君は今、どこにいるんだ?」
遠くの町に視線を向けて、美也子は答える。
「私はずっと、ここにいるよ」
小さい身体が隠れそうな、大きなバックパックを背負い、世界のどこまででも、私はひとりで歩いてゆけるんだと自慢していた細い体が、風にあおられ、心もとなく揺れる。
「もうひとつ、いい? 鳥葬を見て、君は何を知ったんだ?」
肩に手が置かれる。
「あぎさん、それは、自分で確かめるといいさ」
振り返ると、石川さんがそこにいた。
近寄りがたいことも高慢なところもなく、話しかけられると誰もが嬉しくなってしまう、優しいまなざしが僕に向けられている。
「見れば、わかるよ」
そう言い残すと、石川さんは崖の先へ歩き出す。
「石川さんも行くの?」
「ああ。行ってるよ」
石川さんは後ろ手を振り、斜面の向こう側に見えなくなった。
美也子の手を握る。美也子の表情がもう一度、子供のようにほころぶ。
「行こう、一緒に」
「待ってるよ」
美也子が言った。僕はうんと答える。嬉しかった。ここにあるもの全てが嬉しかった。
さあ行こう。あそこにはみんないる。全てのものが、そこにある。
「あぎさん、ねえ、ちょっと、あぎさん起きて」
佳代の声だ。佳代もいるのだろうか。
「ねえ、あぎさん」
体が重い。頭がクラクラする。気持ち悪い。揺らさないでくれ。戻しそう。
「……佳代も……行くの?」
「うん? 何言ってんの? ね、お願い、ちょっと」
「あれ……?」
目を開けると、佳代が上から覗き込んでいる。見渡すと、ゲストハウスの部屋だった。僕はベッドの上で寝ていた。
「……なんだ、夢か」
外はもう明るかった。体を上げると、ぐるぐると目が回る。見事なまでの二日酔いだった。昨日、皆で飲みに行って、英恵と石川さんの歌を聞いて、そのあたりから、覚えていない。
「僕、昨夜どうやって、ここまで戻ってきたんだろう?」
ベッドにしゃがんで、佳代が答える。
「歩けなくなって、石川さんにべったり肩を借りて戻ってきたよ。すぐに寝ちゃった。それよりさ、ほら」
佳代が指差した先、石川さんのベッドが空になっている。ギターは残っているけれど、他の荷物が全てない。
「あれ? 石川さんは? 英恵もいない?」
「英恵ちゃんは今、トイレに吐きに行ってる」
時計を見ると昼近くだった。佳代も髪がボサボサで、今さっき起きたという表情だった。
「鳥葬、確かめそびれちゃったな」
「それもそうなんだけど、ほら、石川さん、今日の昼過ぎにここを出るって言ってたでしょ。二日酔いのあたしたちに遠慮して、黙って行っちゃうつもりなんだろうけどさ、ギターあるじゃん」
「うん。残ってるね」
「忘れるはずないと思うから、置いてったのかもしれないけれど、一応持ってって、見送りくらいしに行こうよ。バスが停まるのは村の入口でしょ。そこに行けば、まだ会えるよ」
そうだなと頷く。ごん。
ドアを開けて、英恵が戻ってきた。入口で足の小指を親の仇のように打ち、ベッドに転がり打ち上げられた魚のようにのたうちながら、おはようございますと言う。
「すぐそこだから、がんばって行こうよ」
佳代はまだましのようだが、僕と英恵はひどい二日酔いの足を引きずり、よろめきながら亡者のように表に出てゆく。
「太宰の小説で『尼』っていうのがあってさ、蟹がよろばい歩く、っていう表現があるんだけれど、なんかそれ思い出した」
「よろばい歩いてます」
「あ、あたし太宰と、生まれ同じ町だよ」
村の入口の車の乗り合い所に着く。僕らも村に到着した時に、ここで下りた。
ライトバンやトラックが停車し、運転手らがタバコをふかして談笑している。乗車待ちらしいチベタンや漢族がちらほらいるが、石川さんの姿はない。
「もう、行っちゃったのかな?」
どこかで時間を潰しているのかと思ったら、ちょうどバスがやって来て、目の前でさっさと出発してしまった。
「あれ? ……今日はあの一台だけだって。おかしいな」
「石川さん、どこ行っちゃったんだろう? 出発するのをやめて、どこかにいるのかな?」
ふらつく足を引きずり、僕と英恵はゲストハウスに戻ることにする。佳代はちょっとそのへん見てくると言い、どこかへ行ってしまった。
「……やばいです」
英恵が路上で足を止めて壁にもたれ、口を押さえて言う。顔が屍のように青い。
「宿までがまんできそうにない?」
無理と首を振る英恵。仕方なく手を引き、建物の間を抜け、通りの裏側にある小さな川の河原に連れてゆく。
首を伸ばして土の上にしゃがみ、川の流れに景気良く戻す英恵。しばらくして顔を上げ、もう平気みたいですと、ヨダレと吐瀉物で頬を濡らしながら言う。汚いのでウエットティッシュで拭いてやる。
「川汚しちゃった」
「ここではいいんじゃないかな。ほら」
僕が指差した先に、表通りの店の裏手が、河原沿いにずらりと並んでいる。その全ての建物の真下から、川に伸びて溝が掘られ、溝の上にある建物の底に、穴が空いていた。
「あれ、みんなトイレですか?」
「そうだよ。水洗トイレ。あそこから落下して川にイン。下水なんてない」
驚く英恵が、ようやくキョロキョロと周囲を窺う。清らかで速い流れの河原は、実はビニールやプラスティック、そして汚物だらけのゴミの山だった。
「こっちの川は、だいたいトイレ兼ゴミ捨て場になってる。西部大開発で物はいっぱい増えたんだけれど、処理の方が追いついてなくて。ガラスとか危険なものもあるから、気をつけてね」
ハローキティがプリントされた子供のおもちゃが、浅瀬に沈んで色あせている。英恵は物悲しげなまなざしで川面を見つめる。対岸で大きな犬がヨタヨタしながら達観的にうろついている。
宿に戻る道中に、英恵がぽつりと言う。
「ゴミだらけだったけれど、水は清らかだし、魚もいましたね」
そうだねと答える。チベットでは夭折した子らは魚になるのだという。冷たい流れの中で群れを成して遊び、水面に映る青空の海を楽しげに泳いでいるのかもしれない。ここは、長寿とは無縁の世界なのだ。
チベタンの平均寿命は五十歳程度。食事の塩分がすごいので軒並み高血圧で、突然死も非常に多い。長い日照時間による強力な紫外線の影響との説もある。確かにこの地に、まとまった降水はほぼなく、雪が降ることはあるけれど、すぐに晴れて、まぶしく青い空が広がる。
魂が洗われるような青空と引き換えに、寿命を削られている。長く生きることよりも、良く生きることの方に意味を見出すチベタンにとって、あるいはそれは、望むところなのかもしれない。
自分の国を守れなかった民の地に向けた、佳代と美也子の言葉が思い返される。
ここはもう天上で、ここにいるひとたちは天上の住人なのだと。空が近いのではなくて、空の中にあるのだと。その向こうにある場所と、半分繋がっているのだと……。
老犬よりもヨタヨタしながら、僕らは部屋までたどり着き、もう一度ベッドの上で、死体のように寝転がる。
「……変な夢だったな」
額に手を置きながら、ひとり言をつぶやくと、寝ていたと思っていた英恵が、それに応える。
「あぎさんも、なんですか……」
「うん?」
「あ、いえ、何でもないです。……ところで、あぎさん」
「なんだろ」
「あそこの町にいた人たちって、どうやって暮らしてるんでしょうね」
天井を眺めながら、しばし英恵の言葉の意味を考える。
「……夢の話?」
「はい?」
「いや、あの町にいた人たち……って、それは、夢の中での話?」
いいえと言い、苦しそうな体をこっちに向けて、英恵が言う。
「あそこ、人いましたよね」
しばらく沈黙。僕も英恵の方を向く。
「……いや、見間違いかな、と思っていたんだけれど……。英恵も、見たんだ?」
「ええ。こんな視力なのに、なんだか見えたんです。あ、いるなって。なんだ、住人いるんだなって」
目の錯覚ではなかったのか。あそこには、人がいた。英恵も見ていた。
ドアが開く。佳代が帰ってきた。
「……やってたって」
少しひそめた声で、佳代は言った。僕は体を起こし、何が? と聞く。英恵も目をこすり起き上がる。
「鳥葬」
驚く僕、そして英恵。
「え? 本当? 今朝あったの?」
佳代がうんと答え、そして説明する。
「どこかの店に、石川さんいないかなと探しに行って、ついでに寺に行って、いつものあの人に聞いてみたら、今朝、鳥葬があって、お前たちの仲間の日本人が見ていったぞって聞かされたの」
白酒臭い自分の息に頭痛を覚え、水を飲みながら話を理解しようとする僕。
「……それじゃあ、僕らが二日酔いで眠っていた間に、石川さんはいつものように寺に行って、そのまま鳥葬を見たってことか」
だとしても、それはまあ仕方がないだろう。急いでここに戻って、二日酔いの僕らを連れ出すまでに、鳥葬は終わってしまうかもしれない。ひとりで見た石川さんのことを、責められはしない。
「うん、それはまあ、いいんだけれど、石川さん、村のどこにもいないのよ」
ゲストハウスのレセプションで聞くと、石川さんは朝のうちにチェックアウトしたのだという。しかし、夏藩を出る車には乗っていないのだ。
……どういうことだろう。石川さんは鳥葬を見た後、どこへ行ってしまったのか。
「それならたぶん、今日出発するのはやめて、近くの丘とか、どこかを散歩でもしているんじゃないですか?」
英恵が言う。宿をチェックアウトして、荷物を持ったままで? と僕が聞くと、そうですよねと鼻を掻く。
けれども、考えられる可能性としては、それしかなかった。何か思うところがあり、たとえば鳥葬を見たことで、少なからずショックを受けて、ひとりになりたくて散歩しているのかもしれない、という結論に、僕らは達した。
「この町にいれば、どこかしらで会うだろうし、向こうがもし避けているなら、無理にこちらから探すこともないだろ」
佳代はそうだねと答えながら、どこか釈然としない様子だった。おそらく英恵もそうだろうが、言っている僕が一番そうなのだった。これでは、まるで……。
日が暮れるまで、皆でゴロゴロしていたけれど、いいかげん空腹になってきたので、三人でのろのろと部屋を出る。
適当な食堂に入り、時々表通りを眺めながら、朝食も昼食も飛ばした遅い食事を取る。こういう時、粥の種類が多いのがありがたい。むかつく胃にやさしい上に美味しい。
「うん? 穴の底の町に、人なんかいたっけ? あたしは見えなかったけどな」
「佳代は見てないのか」
「って言うか、見る気もなかった」
「みんな、どうやって出入りしてるんでしょうね」
酔い醒ましのけだるい夕べに、僕らはあの町に、見間違いではなく人間がいたと仮定して、その正体についての推理をし、いくつか仮説を挙げてみた。
たとえば、チベットに特有の湖、塩湖には有益な資源があるので、あの町は調査や採集のために作られた施設であり、出入りはヘリコプターを使っているとか。
または、あれは町っぽく見えるけれど、トルコのカッパドキアのような自然石であり、人がいたように見えたのは、動物か錯覚。
もしくは、わけありな人たちが、外との接触を拒んで住み着いている、秘密の集落か、過去そうであった場所の廃墟、などではなかろうかと。
「なんか、どれもいいとこ突いてそうじゃない?」
「わけありな人たち、ってのがいいよな。弾圧や迫害から逃れて、ひっそりと伝統やら信教を守って暮らしている集団や村とかさ。日本にも昔は、そういうかくれ里みたいな場所があったみたいだし」
「へえ、そうなんですか?」
「アニメとか、漫画でそういうの見た」
聖なる地、という名前からして、その説はふさわしい気がする。二日酔いの脳みそで考えたにしては、なかなかいい推理ができたのではないかと、僕らは自画自賛する。
「あとさ、あの火口みたいな、崖に囲まれた変な地形の正体だけどさ、もしかしたら、という心当たりがあるんだ」
なにそれ? と佳代が聞く。僕は答える。
「隕石が落ちたんじゃないかな」
以前、オーストラリアやカナダにある、似たような景色の写真を見たのを思い出していた。クレーターである。
地表に衝突した隕石は、直径数百メートルから、大きなもので数キロから数十キロの、まん丸の穴ぼこを大地に作る。リムと呼ばれるクレーター外縁は、周囲の地形からは丘のように盛り上がり、内側は数十メートルから百数十メートルの落差を持つ崖となる。
「それだ。まさにそれじゃん。あの穴はクレーターってやつだったのね」
隕石クレーターの多くは、深さ数十メートルから数百メートルの湖となる場合も多いが、クレーター写真としてよく使われるアメリカ南西部のバリンジャー・クレーター、または聖なる地とよく似たウルフ・クリーク・クレーターなどは、底部が地表に露出し、平坦な岩場や草原となり、人間の降りられる観光名所となっている。
クレーターが人口の少ない場所に存在していた場合、ずっと人間に発見されないことも多く、オーストラリア北西部にあるウルフ・クリーク・クレーターは、第二次世界大戦後に偶然発見され、その北部にあるバングル・バングル国立公園に至っては、1982年にようやく発見されている。
チベットは世界で最も人口密度の低い地域であり、その上外国人の立ち入りが厳しく制限されている。西部や奥地に未踏の山や無名の湖がいくらでも存在しているこの地であれば、知られていない巨大なクレーターが存在していたとしても、それほど不思議ではない。
「調査が行われて、一般に公開されたら、けっこうな名所になるのかもしれないけれど、謎なのは、その底にある町だよね」
クレーターの外縁は、そのまま土塁や城壁に使えるから、ドイツには直径二十キロのクレーター内に、そのまま作られた古い町などもある。聖なる地もそのようにして、外界から隔離させることを目的に作られた町なのかもしれない。
お粥も食べ終え、八宝茶を何度もおかわりして、酔いを醒ましながら、あれこれ喋り続けてゆく中で、僕はぽろりと、口に出していた。
「石川さん、あの町に行ったんじゃないかな……」
「え? どうして?」
「いや、なんとなくなんだけど」
そんな気がしていた。根拠はない。いや、なくはない……。
「でも、行ったとしたら、どうやって? 車はないでしょ」
「ここから車で二時間くらいだったよね。エベレストさえ登った石川さんだったら、荷物を背負って、歩いて行っちゃうんじゃないかな」
厳しい気候のチベット高原を、二日かける覚悟と装備があれば、歩いて行けない距離ではない。そして、石川さんなら、それができる。簡易テントも持っていたし、寝袋はフォーシーズンどころか雪山でも耐えられる、しっかりしたものを持っていた。
「でもさ」
テーブルに頬杖をついて、首を傾げながら、佳代が言う。
「丘の上までならともかく、穴の中のあの町に行く、ってのは無理なんでしょ。そりゃさ、ヘリでもクレーンでも使えば、なんとでもなるんだろうけど」
「降りるだけなら、できる」
「え?」
どういうことかと、佳代が聞く。
「石川さんなら、ロッククライミングの道具を使って、下まで降りられると思うんだ。ザイルっていうロープを使って。懸垂降下ってやつ」
丘の上の、なるたけしっかりした地面に、いくつものハーケンを打ち込み、そこからロープを垂らす。崖下までは百メートルはあったけれど、ある程度降りれば急斜面ではなくなる。草の上を滑るような形で、下までたどり着ける。
「でも、降りることはできても、戻れないんでしょ」
「うん。だから、降りるだけなら」
……戻らないことを前提ならば。
厳密には、ザイルを使って上昇する技術もあり、アッセンダーというケイビングなどに使う道具があればさらに容易なのだが、石川さんはそんなものは持っていなかった。
「……なんかそれ、イヤな感じの話ね」
「ごめん。なんとなく」
なんとなく、そう思う理由を、僕は説明できなかった。
「いやですよ。変なこと言わないで下さいよ」
ここであれこれ考えていても仕方がないと話を打ち切り、宿に戻る。
さしあたって、僕らができることはなかった。明日いっぱい、石川さんが戻ってくるのを待っていようと、僕らはそれだけを決めた。ふらりとこの部屋に戻ってきたり、通りを歩いているのを見つけられるかもしれない。
深夜、寝床についても、三人ともなかなか寝付けなかった。昼間に寝すぎていたせいだ。暗がりで幾度も寝返りを打つ、二人の気配を感じる。
そのうち寝息が聞こえてきて、僕もようやくうとうとし始めてきた時だった。
ぎゃああああ。
突如、ものすごい悲鳴が、暗がりで鳴り響く。心臓が止まりそうになる。
「なな、何だ?」
「いや! やだ! いやだいやだいやだ!」
「何なの?」
佳代も目を覚ました。闇の中で、悲鳴を上げた英恵が、ひどく何かに怯えている。泥棒でも入ったのだろうか。僕は起き上がり、部屋の灯りを点ける。
「……どうした?」
部屋の中には自分たち三人しかおらず、盗っ人や侵入者の気配はない。どこかに隠れている形跡もなければ、部屋のドアも施錠されたままである。
「ちょっと、英恵ちゃん、何があったの?」
頭を抱えてがたがたと震え、ひどく怯えている英恵に、ふたりで声をかける。
「ねえ、大丈夫だよ。ほら、何もいないよ」
佳代がそばで優しく言うと、英恵は依然何かに怯えたまま、顔を上げずにうわ言のようにつぶやく。
「……大丈夫です、何でもないんです。すみません、本当にすみません、ごめんなさい……」
大丈夫と言われても、ものすごく気になる。
「たまにあるんです、寝言です。ご迷惑おかけして、申し訳ないです」
「寝言?」
こんなに迫力のある寝言というものもあるのか。佳代と顔を見合わせて、肩をすくめる。
「歌が本職だから、悲鳴もよく通るのかな」
「あたしのイビキ超えてたわね。怖いなら、一緒に寝てあげよっか?」
佳代が冗談めかして言うと、英恵は少し間を置いて、お願いしますと答える。え? マジ? という顔つきになり、目を剥いて僕に向き直る佳代。言ったんだからやってやれよと、目で応えて頷く。
同じベッドに入り、英恵に腕に抱きつかれる佳代の、見たことのない照れた顔をちらりと窺ってから灯りを消し、僕ももう一度ベッドに戻る。
天井を見上げて思い出す。同じだな、と……。
……美也子が、こうだった。
夜驚、という症状は、基本的には児童のものだが、薬物中毒患者などにも起こり得る。バックパッカーにヤク中は珍しくないけれど、美也子はそうではなかった。英恵も絶対に違う。それはわかる。
時折起きる、美也子のそれに、怖い夢でも見ているのかと聞いたところ、そうではないと小さく首を振り、一度だけ、こうつぶやいていた。
――あたし、終わってるの、人として……――
控えめな美也子だったけれど、若い頃のある時期、二回ほど不倫をしていた。最悪な形で強引に終わらせた、とだけ僕は聞いていた。酒に酔うと、消えたいとつぶやくこともあった。
美也子と石川さんを連れていった鳥葬は、近いうちにまた行われるのだろうか……。
朝になり、ひとり減った三人で、鳥葬台入口へ行った。小屋のチベタンのおじさんに、今日はないよと言われ、やることが終わった。
昨日、鳥葬を見に行ったはずの仲間を見かけなかったかと聞いたが、おじさんは知らなかった。僕は顔なじみになった村の人たちに、背の高いあの男性を見なかったかと聞いて回ったけれど、見た者は誰もおらず、他のどの宿にも宿泊していなかった。
夜になり、僕は佳代と英恵に言った。
「明後日あたりに、僕、もう一度聖なる地へ行くよ。下まで降りて、石川さんを探してくる。一緒に来てくれないかな? それからさ、携帯ちょっと、見せてくれない?」
次の日、朝から僕は動き回ったが、いきなり躓いた。
車を出してくれたチベタンに、また聖なる地まで行ってくれないかと頼んだところ、男はがぶりを振った。自分は禁じられている聖なる地に、人を運んだ疑いを寺にかけられていて、当分それはできないのだと拒否された。
仕方なく、物資が運ばれてくる村の入口の乗り合い所に行き、チャーターできるランクルがないか探してみたところ、運良く漢族の車が見つかった。運転手をつかまえ、互いにほとんどわからない北京語と英語とで、高度な交渉を試みる。
「二日間車を貸して欲しい? 無理だね。公安にばれると面倒だし、仕事で動いているから時間がない」
「二千元でどうかな」
「公安なんてバレやしないし、時間なんてどうでもいいわ」
借りられたのが漢族で良かった。聖なる地まで行くことを警戒されずに済む。しかも最初からウインチが装着されている車種で、願ったり叶ったりだ。
商店で購入し、ロープの確保もできた。ウインチのワイヤーをロープと交換して、動作チェックと強度の確認をする。問題はない。大丈夫のはずだ。
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