人工知能のゴースト

チリノ

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ゴースト、ブッチャーを捕らえる

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時刻は午前0時を回っていた。深夜の時間帯だ。

木枯は吉川の消えた路地裏を静かに歩いていた。自分以外の人影は見当たらない。

それどころか、野良猫の一匹すら通らない。辺りはシンと静まり返っている。

ただ、アスファルトを踏みしめる木枯の靴音が、路地裏内でコツコツと、微かに聞こえるだけだ。

(さて、俺の誘いに乗ってくるかな……)

吉川を襲った奴がここらを縄張りにしているなら、自分に目を付けるはずだと木枯は考えた。

吉川が生きていれば、そのまま金を回収する。

吉川が死んでいれば、殺した奴から金を回収する。

もっとも、もうこの場所から居なくなっているか、警戒心が強ければ姿を見せないかもしれないが。

それならそれで、この路地裏ももいくらか安全になったということだろうから、

以前のように、取引の場に使えるようになるはずだ。

その時は、噂が広まる前にこの場所でボディーガードの仕事をすれば、

危険手当がついて、いくらか稼げるはずだ。例え危険がなくても。

木枯は夜空を見上げた。虚空の闇だけが広がっている、見慣れた夜空だ。

電子煙管をポケットから取り出し、口に咥える。

それから肺一杯にリキッドジェルの煙を吸い込み、木枯はゆっくりと吐き出した。

肺に充満していた紫煙が、ゆらゆらと揺らめきながら、闇の中に溶け込んでいく。

今夜は一旦、寝床に戻るかと踵を返そうとした途端、木枯は後頭部目掛けて襲いかかる風圧を感じた。

木枯はさっと横に飛び交い、その風圧を避けた。そのまま木枯が、身体を回転させて相手と向き合う。

「後ろからの一撃を躱されたのは初めてだ……」

そこには、怪物のマスクを被り、右手にスタンガン警棒を握り締めた影法師が立っていた。

「……一体、どこから現れた?」

木枯の問い掛けにマスク姿の怪人物が無言で返す。

「ダンマリか、お前だな、吉川を襲った野郎ってのは。他にも浮浪者や夜鷹、ヤクの売人なんぞが、

この路地裏で行方知れずになってんだ、全部、テメエの仕業か?」

マスク姿の怪人物──ブッチャーが木枯にじりじりと詰め寄りながら答えた。

「俺は病気なんだ。身体中の血が乾いていく病に罹っている。

それを治療するには薬が必要だ。人間の血肉、臓物という薬がな」

「なるほどな。病気ってんなら、ま、人を襲うのもしょうがねえわな」

軽口を叩きながら、ブッチャーと相対した木枯は、横歩きで円を描きながら相手の隙を伺った。

その次の瞬間、ブッチャーが木枯に向かって警棒を投げつけた。

木枯はそれを難なく躱した。だが、それは隙を作るための誘いだ。

相手が避けたと同時に、ブッチャーは勢い良く躍りかかった。

ブッチャーの両手の袖口から、二本の肉斬り包丁が滑り出す。

二本の肉斬り包丁を猛然と振るいながら、ブッチャーが木枯の右肩に刃を走らせた。

鮮血が闇夜の中に飛び散る。顔を歪める木枯──ブッチャーの両眼を静かに見据えた。

「お前も食ってやるぞ」

「さて、そいつはどうかな」

「強がるんじゃない」

にじり寄るブッチャーに木枯が不敵な笑みを浮かべた。

「後ろを見てみな」

「その手は食わないぞ」

「そうかい、じゃあ、あばよ」

次の瞬間、ブッチャーの後頭部目掛けて、ゴーストがフルスイングしたバットがヒットした。


縛り上げられ、ブッチャーは地面に転がされていた。

「この野郎、吉川食った挙句に俺まで食おうとしやがってよ。

おかげで服が破れちまったじゃねえかよ」

木枯が右肩を撫でながら舌打ちする。

ブッチャーに斬りつけられた傷口は既に塞がっていた。

木枯は、細胞を未分化する「脱分化能力」を有している。

脱分化能力は、筋肉や骨などに分化し、形成された細胞を幹細胞にまで逆戻りさせ、

それによって損傷した部分を再生させる働きがある。

この能力によって、木枯は手足を切り落とされても、眼球を失っても、背骨をへし折られても元通りに再生する。

そして、闇医者に頼めば、金は掛かるが、この改造手術は受けられる。

もっとも、木枯レベルの再生能力を手に入れるには、それに加えて遺伝子のスイッチを入れるための訓練が必要になるが。

DNAの塩基配列自体を変化させず、遺伝子の働きを決定するシステムを「エピジェネティクス」という。

そして、このシステムは柔軟に変化する性質を有する。

ウエイトトレーニングなどを行うと、筋肉の新陳代謝機能に影響を及ぼすことが知られているが、

これは筋肉に関わる遺伝子のスイッチが、訓練によってオンになっているからだ。

そして、このトレーニングは、遺伝子レベルで影響を与え、エピジェネティクスを変化させる。

つまり、いくら素晴らしいDNAを持っていても、トレーニングし、使っていかなければあまり意味がないのだ。

最高の遺伝子改造を受けた全くトレーニングしなかった者と、

最低の遺伝子改造を受けた真面目にトレーニングを積み重ねた者とでは、

後者のほうが優れているのはそのせいだ。

「それでこいつをどうするつもりだ」

ブッチャーを見下ろしていたゴーストが、木枯に視線を向けた。

「そうだなあ、おい、お前、逃がして欲しいか?」

「逃がしてくれるのか?」

「事と次第によってはな」

そういうと木枯が、親指と人差し指を丸めて円を作り、ブッチャーの鼻先に突き出した。

「金で解決するってことか」

「そうだ、テメエなんぞ、このまま警察に突き出しても俺たちにゃ、一銭の得にもならねえし、

吉川は食われちまってるから、その代金を本人から回収することもできねえ。

だったらよ、テメエが払え」

ブッチャーはゴーストと木枯を交互に見やった。

「俺が言うのもなんだが、お前らもかなりクレイジーだな。

普通の人間なら俺みたいなのを前にすれば、恐ろしがったり、気味悪がるんだがな」

「へ、置きやがれ、自慢じゃねえが、生まれてきた時にゃよ、

お袋の腹の中に頭のネジを何本か置き忘れてきたこの俺よ、

テメエなんぞにビビるほど、俺の感受性は豊かじゃねえんだ」

「それにあんたは生きるために人間を食らっただけなんだろう。

誰だって自分の命は惜しいんだから、それは仕方がないことではないのか」

ゴーストの言葉にマスクの下でブッチャーは苦笑した。
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