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しおりを挟む「……あの、実は俺、前々からずっとお話ししてみたいと思ってて……」
そう恥ずかしそうに口元を両手で覆いながら呟く春の、潤んだ瞳。
涙の膜でキラキラと光って見えるその瞳が宝石のように美しく、目を見開いた雅が息を止めたが、しかし春は尚も恥ずかしげにそっと可憐に微笑むだけだった。
「常連さんですし、年も近いだろうし、でも中々話しかけるタイミングがなくて……。だから、この間の事、本当に凄く嬉しかったんです」
「っ、」
「あはっ、なんか突然変な事言ってすみません」
「いやっ、」
「……」
「お、……俺も、話してみたかった、から、」
だなんて、アンダーグラウンドでは名を知らぬ程有名で過激な言葉を放つ“K“らしからぬ拙さで告げた雅に、しかしそんな事など知らない春が息を飲んでは目を丸くする。
それからへにゃりと眉を下げ、至極嬉しそうな顔で笑った春はやはりとても愛らしくて。
それに引き寄せられるよう、雅が思わずもう一歩カウンターへと近付いた、その瞬間──。
「春さん、豆の在庫なんですけど、」
という、のそりと奥からやって来た男の声が二人の何とも言えない空気を裂いた。
「っ、」
「わっ! 良介……」
「あ、接客中にすみません、って、あれ、いつもの常連さんじゃないですか! いらっしゃいませ!」
「おわ、……ど、どうも……」
雅に気付き、弾けるような笑顔で笑って声を掛けてきたのは、春と仲が良すぎると若干、いやかなりモヤモヤしていた、良介で。
その姿はやはりひたすらに爽やかで、笑うと少しだけ尖った犬歯が覗く顔はまるで犬のように愛らしく、男前さとどこか可愛さを持ち合わせている良介の圧に押され気味なまま、雅は目をぱちくりと瞬かせては返事をした。
普段接客している時も常に笑顔で人当たりは良さそうだったが、これといって注文以外のやり取りをした事などない良介が自分を見て人懐こそうな笑みを浮かべている事に、なんでだ? と小さく首を傾げた雅。
しかしそんな雅の疑問など気にせず、春の隣に立った良介は尚もニコニコとした笑顔で、口を開いた。
「良かったですね春さん。ずっと来るの待ってましたもんね」
だなんて言っては春に笑う、良介。
しかし春はその言葉を聞いた途端、少しだけ顔を引きつらせた。
「っ、あはは。そうだね。あの、さっきも言いましたが怒ってもう来てくれないかもと思ってたんで、ついついこの子にも軽く相談しちゃってたんですよ」
「っ、……そう」
「いや、軽くなんてもんじゃなかったじゃないですか。何言ってるんですか。バイトじゃない日も毎晩凹みまくって、どうしよう~~なんて埒明かない事を悠希と俺にぐだぐだ言ってきたじゃないですか。正直そろそろいい加減にして欲しかったんで、ほんと来てくれて良かっ、モゴッ」
「あはは! 良介! ちょっと黙ろうか!」
ペラペラと話す良介の口を慌てて塞いだ春が、「あは、あはは。すみません煩くて」だなんて言うが、その顔には青筋が浮かんでいて。
そういう一面を見てしまえば当たり前に男らしくて純粋に格好良いと思うものの、良介の言った悠希というのが誰なのかも知らず、そして毎晩という単語がズキッと少しだけ胸を刺したが、雅は二人を暫く見たあと、それから何故か兄弟のようだと堪らずふっと笑ってしまった。
「……本当に怒ってなかったし、単に忙しかっただけだから」
そう優しい声で呟いた雅が、マスク越しに未だ笑う。
そんな雅の柔らかな雰囲気を感じたのか春が目を丸くし固まるので、……だからなんで俺が笑ったらそんな態度するんだよ。と雅はトラウマがフラッシュバックしそうになったが、それから頬を染めふにゃりとした甘い笑顔を見せた春に、今度は雅が目を見開いてしまった。
「……」
「……」
「えへへ。……あっ、ご挨拶が遅れてすみません。俺、一宮春っていいます。気軽に春って呼んでくださいね」
「っ、……久我雅です。俺の事も雅で良いんで……」
一目惚れをし、通い詰めて早四ヶ月。ようやく本人の口から正式に名前を教えてもらった雅が、少しの達成感に包まれながら自らも自己紹介をする。
「……えっと、じゃあ、雅さん、って呼ばせてもらいますね……」
「っ、……うん」
春の唇から溢れる、自身の名。
好みの声に、そして好きな人に名前を呼ばれる事は、こんなにもむず痒く嬉しいのか。
だなんて生まれて初めての衝動に雅は息を詰まらせ、うん。と呟くしか出来なくて。
細胞は活性化し血液が沸騰してしまったかと思うほど全身が熱く、……マスクをしていて良かった。と雅はきっと真っ赤になっているであろう顔を見られなくて済んだことにホッとしながらも、春の耳障りの良い声で紡がれた自身の名を脳内でひたすらに再生し続けた。
「素敵な名前ですね」
「……は? いや、普通だけど……。……でも、そ、そっちは、似合ってる……」
「っ!」
不意に寄越された謎の賛辞に不思議そうな顔をしたあと、しかし照れ臭そうに首の後ろをポリポリと掻きながらガラにもなく素直に本音を口にした雅が、視線をさ迷わせる。
そんな雅に今度は春が息を飲んだのが分かったが、しかし雅はもう直視する余裕すらなく、綺麗に磨かれた床を見つめるしか術がなかった。
「……春って、綺麗な、名前だから……」
「……あり、がとうございます……」
「……」
「……」
それきり黙ってしまった二人は、まるで甘酸っぱい思春期真っ只中の中学生のようで。
そんな二人を交互に見ては、……いや何これ。と良介は何とも言えぬ顔をしていて、そのどこか間抜けで滑稽な光景を、店内に流れる美しいジャズの音楽だけが優しく柔らかくしっとりと包み込んでいくだけだった。
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