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一話
しおりを挟む「お前男に抱かれてるでしょ」
そう言いながらこちらを見てくる事務所の先輩に、立花樹は目を丸くし見つめ返した。
それから、突然の落雷めいたその台詞に、急になにを、と口ごもる。
その横では慌ただしげに店員が横を通りすぎてゆき、雑然とした店内のその喧騒が耳の奥で響いてはどくどくと鳴る心臓の音と合わさり、ひどくうるさく感じた。
【 セックスの定義とは何かしら 】
どこにでもあるありふれた居酒屋の、どこにでもいる先輩後輩の飲みの席。ましてや互いに(立花はまだまだ駆け出しだが)役者として活躍している身で、そんなあけすけな言葉を投げつけられるとは微塵も思っていなかった立花が、目の焦点さえも狭まっていくような感覚に陥っていれば、
「俺もそっちだからさ」
なんて更に爆弾を投下され、とうとう立花は、ちょっとまってください情報過多! と頭を抱えた。
なんでいきなりこんな話になったの? 今まで普通に飲んでたじゃん! ていうか別に先輩の性的指向をどうこう言うつもりもないし気になんかしないけど、俺はそっちじゃない! 普通に女の子が好きだし!
なんて立花が心の中で叫ぶ。
だがそれは心の中に留めておくだけで、音にする事はなかった。
何故なら、なぜそんな事を言われたのか思い当たる節が立花にはありまくるからである。
この、少しだけつり上がった猫目がチャームポイントの、けれど人懐こい笑みが人気の若干チャラそうな見目をしている立花樹は、有名な俳優やアイドルを沢山世に出している聖高校の芸能科の出である。そしてその時の同期は皆アイドルや同じ役者をしており、もう第一線で活躍している者も居る。
そんな逞しい同期の中に、スーツアクターになるべく地道に頑張っている妹尾健太という人物が居り、そしてその妹尾こそが立花の思い当たる節で。というか妹尾しか思い当たる節がなく、なにがどうしてそうなったのかなんて明確な言葉はないが、この妹尾と立花は勿論友人であり、そしていわゆる世間一般でいう所の、セックスフレンドでもあった。
確か、二十歳になり浮かれすぎて飲みまくった翌日に、お互い真っ裸のまま目が覚めてから、そこからズルズル、それはもうズルズルと、今もなお続いている。
そんな関係だからこそ、俺はそっちじゃないと声高らかにも言えず、しかしそっちじゃないならなぜ、と言われてしまえば自分自身答えなんて出なさそうで、立花は言葉を濁すしかなかった。
「えっ、なんで俺が、その、」
言外に肯定とも取れるような言葉をしどろもどろに呟いた立花のその戸惑いを、
「男に抱かれてる体してる」
なんて拾っては投げ捨てた先輩のドストレート級な台詞に、とうとう立花の目の前がくらくらと揺れだした。
しかし、なんだそれ。と唖然としている立花を他所にグラスの中に残っていたアルコールを一気に飲み干したあと、先輩は笑った。
「まぁだからなんだっていう話なんだけどな。でもお前あんまりにも無防備だからさ、先輩としてはなんか心配になっちまって。悪い。忘れてくれ。……そろそろ終電無くなるし帰るか」
そう言い残し、テーブルの上に置かれた会計伝票を手に取って歩き出す先輩。
ひらりと揺れた手書き伝票の汚い字がやけに目に留まり、立花は暫く呆けたあと、慌てて立ち上がり先輩の後を追った。
そのあとお互い特に何を言うでもなく夜を歩き、駅で、「それじゃあまた明日。悪いなほんと、忘れてくれ。まぁでも何か困った事があったら相談しろよ」色々と笑いながら手を振る先輩を見送った立花。
そして立花もほぼ誰も居ない終電間近の電車にガタンゴトンと揺られ、家路へと着いた。
それから風呂に入り、歯を磨き、顔を洗い、ようやくベッドへと潜り込んだあと、暫く天井を見ていた立花だったが、突如カッと目を見開いた。
「えっやばくね俺!?」
なんて誰に言うでもなく、しかし大声で叫んだ立花が、がばりと上体を起こす。
爛々とした瞳でじっと宙を見ては、童貞も卒業してないのにむしろ女の子みたいになってんの俺!? てか男に抱かれてる体ってなんだよ先輩! こえーよ! なんて心のなかで叫び、悶々とこれからの事を考えてみれば、恐怖しかなく。
これはやばい。まじでやばい。呑気に妹尾に抱かれてる場合じゃなかった。男の沽券に関わるのでは? と青ざめた立花は、ずるりとベッドから這い出し、先ほど床に放り投げたままだったリュックから、携帯を取り出した。
暗がりに灯る、ブルーライト。
その目映さに目を細めつつ、電話もラ○ンの先頭も一番初めに記されている妹尾という文字に、お前も呑気に俺を抱いてんじゃねーよ! お前のせいで俺は! と八つ当たりの言葉を吐きつつ、トーク画面に文字を入力した。
『とうぶん、おまえと会わない』
というだけの一文を書いて、送りつける。
それから数分も経たぬうちに、
『は?』
と日本語にも満たない一言だけを寄越してきた妹尾。
それを無視していれば、
『突然なに、なんかあった?』
なんて追撃してきた文字。
それに少しだけ考えあぐねたあと、
『なんもない、けど、お前とは今会えない』
と返してから、立花は何故だか胸の奥がもやっとする気持ち悪さを抱えつつ、飲みすぎたかな、なんて流しては携帯をぽいっと放り、目に入らないよう遠ざけた。
……ごめんな妹尾、俺、男になるわ。
なんて何に謝っているのか分からぬ謝罪を心の中で呟いた、その時。
またしても返事がきたのかピロンと間抜けな音が部屋に響いたが、それに聞こえぬ振りを通すため、立花は枕にぎゅうっと顔を埋めて眠りについたのだった。
そんな、翌朝。
目が覚めると妹尾からのメッセージがピコピコと光っていて、それを見もせず雑誌の撮影があるためスタジオへと向かった立花は、たまたま居た同期を見つけ、がしりと肩を組み朝の挨拶もおざなりに、合コンのセッティングを頼み込んだ。
「まじで俺彼女ほしいの! 頼む!」
「珍しいじゃん、お前今までそういうの何気に来なかったのに」
どういう心境の変化よ? なんて同期に笑われ、確かに言われてみればそうかもしれない。と立花はそれまでの記憶を辿った。
そして思い返せば基本妹尾との約束が先に入っていたため断っていたと気付いてしまって、俺の体を抱くだけじゃ飽きたらず俺の出会いのチャンスまで潰してたのか! 妹尾! と妹尾にとってはあずかり知らぬ事で腹を立てながらも、立花はもう一度頼み込んだ。
「早急に彼女を作らないと男としての沽券が……!」
「なんだよそれ。まぁいいけど。ちょうど週末にモデルとの合コンがあるし。じゃあ幹事に樹も参加したいって言ってたって伝えとくわ」
そう言う友人に、ありがとうありがとう! と握手をしたあと、これでもう俺は妹尾だけを知っている俺じゃなくなる!ざまーみろ! なんて良く分からない事を考えつつ、立花は天に向かってガッツポーズをしたのだった。
***
それから月日は流れ、俺は合コンに行って可愛い彼女作って童貞卒業する! と立花が心に誓った出来事から、一ヶ月半後。
しかし立花は心なしか曇った表情のまま、ザァザァと頭からお湯を被っていた。
無駄に照明が落とされた風呂場のなか、最近のラブホテルはこじゃれてんだな。なんて横目で盗み見た浴槽。
そこにはジャグジーやらなにやら良く分からないボタンが付いていて、それらを見つめつつ立花は何度目か分からぬ溜め息を吐いた。
そう。今立花が居るのは紛れもなく、ラブホテルである。
だがここ最近すっかりお馴染みとなったその光景と、しかしこのあと来るかもしれない絶望にじとりと目の前のタイルを睨み、その後ふりふりと飛沫を跳ねあげさせながらかぶりを振っては、立花は気合いのガッツポーズをした。
「いや、今日こそは! 今日こそはイケるって俺! 気合いだぞ気合い!」
なんて叫ぶ立花の声が、虚しく響いてゆく。
それから、キュッ。と蛇口を捻りお湯を止め風呂場から出た立花は、バスローブを体に巻き付け戦場へと向かったのだった。
薄暗い室内に、無駄にデカいベッド。
これでもかというほどまさしくヤる為だけにある部屋のなか、数時間前に出会ったばかりの女の子がベッドに寝転んでいる。
こんなところに連れ込んでおいて何をとは思うのだが、女の子がこんなに簡単にホイホイ男にお持ち帰りされてしまうのは如何なものか。なんて思いつつ、立花はベッドへとにじり寄った。
「あっ、いつきくん、お帰りぃ」
未だアルコールが回っているのか、ふわふわとした口調のまま女の子が立花に向かって手を伸ばす。
その手を掴みながら曖昧な笑顔を浮かべた立花は、こんなに可愛くてふわふわしてて、俺のこと雑誌で見た時からずっと好みだったって言ってくれている子が目の前に居るのに思い出すのはなんで妹尾の顔なんだろう。と思いながら、その顔を払拭するよう、ギシッとベッドを揺らし女の子の体に乗っかった。
見上げてくる、きらきらとした瞳。
艶々で弾力のありそうな、ぷっくりとした唇。
柔らかそうな、頬。
そのどれもが欲しくて堪らなかった筈なのに、やはり思い出すのは妹尾のギラついた瞳だとか、薄く、それでも形のよい唇だとか、精悍さ溢れる輪郭だとかで。それを見上げて俺はどんな顔をしていたんだろう。今の子のような顔をしていたのだろうか。と立花は思いながら、ああくそっ、やっぱり。と心のなかで叫んでは鼻を啜った。
──立花が童貞を卒業する。と誓ってから、一ヶ月半。
その間に、何度も合コンをした。
そして意外にも自分がそこそこモテると知ったと同時に、付き合うだとかをすっ飛ばしてこうしてセックスしても良いよと言ってくれる女の子が何人もいて、それなのに俺は、と立花がまたしても鼻を啜る。
ほんと俺が言えた事じゃないけどさ、もっと自分を大事にしなよ。という想いと、なんでこんな童貞を捨てる絶好のチャンスでいっつも妹尾を思い出すんだよ。という情けなさに、女の子の上に乗っかったままぼろぼろと涙を落とせば、唖然とした表情を見せる女の子。
「えっ、なに、」
そう溢し、ドン引きなんだけど。といった顔をされるというこの光景も、実はこの一ヶ月半、お馴染みとなっていて。
お持ち帰りに成功して、だがいざという時に失敗して、ごちゃごちゃになってみっともなく泣く。というとんだ恥を晒している事に立花は嗚咽を溢しながら、しゃくりあげてしまった。
「ごめ、ん……俺やっぱり、」
「は、ほんとなに、こわいんだけど、てかなんで号泣? キモッ」
そう心底軽蔑したように吐き捨て、立花の腕からするりと抜けた女の子。
先ほどのふわふわとしたオーラはどこへやら、ひどく苛立った様子で素早くベッド下に落ちていた服を着始め、
「あーもー最悪。一応芸能人だし顔もまぁ良いしって思ってたのにとんだ腑抜け野郎じゃん。まじ勘弁なんだけど、じゃあね」
なんて捨て台詞を吐いてから、女の子が部屋を出てゆく。
その華奢な後ろ姿を見送りながら、またしても小さくごめん、と呟いた立花は、なんの温度もしない冷えたシーツにぼすりと倒れ込んで、ほんと何やってんだろ、俺。なんてぼんやりと考えていた。
その時、不意に机の上に放っておいた携帯がピリリと鳴り出し、もそりと起き上がっては携帯を掴み着信先を見た立花は、更に顔を歪ませた。
それは、もう当分会わない。なんて一方的に距離を置いた、しかし今まさしく立花の頭を悩ませている張本人、妹尾からで。
ラ○ンの返事は来ないと知ったのか、こうして電話を掛けてくるようになった妹尾にまたしてもなんだか泣きそうになった立花は、苦しい、と胸を抑え、ぼふっと枕に顔を埋めた。
だが思い浮かべるのはやはり妹尾の顔や声や匂いで、それにぐすぐすと訳もなく鼻を啜りながら、立花は虚しくも自分一人しか居ないラブホテルで泣き疲れ、朝を迎えたのだった。
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