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しおりを挟む慎重に息を殺しているシュナは今、夜に紛れるよう、獲物を狩るよう、草木の間に潜り込んでいた。
辺りはタイヤの焼けるような鼻につくアルファの臭いが充満しており、近くにいるシュナが放つ若いアルファの匂いを警戒しているようだった。
──テアを連れて無傷で帰ってくる。とノアに約束をした翌日。
シュナは直ぐ様行動を開始し、朝日も昇らぬうちに出発しては川の上流を目指し歩いた。
そして数時間後、川の上流でノアを捕らえていた群れを見つけたシュナは慎重に距離を取りながらも、その群れを観察していた。
ノアから聞いた話では、その群れは小さく、三人のアルファと、二人のオメガ、そして三人のベータだけで構成されているらしい。
だがいくら小さな群れとはいえ多勢に無勢の為、シュナは夜になるまで行動する事を避け身を潜めていたが、たった数時間だけでも見て分かる程、この群れの有り様は酷いものだった。
アルファ同士が喧嘩し合う怒鳴り声は絶えず響き、奴隷のように扱われるベータ。そして二人居るらしいオメガの姿は見えなかったが、ボロボロな小屋から漂う不衛生な臭いと精液の臭いが、この群れがいかに無秩序であり野蛮であり劣悪なのかを露にしていて。
それを目の当たりにしたシュナは憤り、だが思わず放ってしまった怒りの匂いを感じ取られてしまったのか、今群れのアルファ達は戦闘態勢を取っている。
敵に悟られてしまうような失態を犯した己をシュナは未熟だと恥じたが、しかしやはり、腹の奥底から湧き出る怒りはどうしようもなかった。
昨夜、ノアが目を伏せ、拳を白くなるほど握りながら語った、過去。
幼い頃に両親を亡くした上にこんな奴らにほぼ一年近く監禁状態にされていたと言っていたノアの姿が、閉じた瞼の裏で今でもはっきりと浮かび上がっている。
それはあまりにも悲しく、惨たらしく、自身の群れしか知らなかったシュナには青天の霹靂だったが、そういえばノアは一度もここが自身の「群れ」だと言った事が無かった事を思い出し、目の前が怒りで真っ赤になる感覚になったが、しかしシュナは深く深く、呼吸を繰り返した。
ノアが言っていた、弟のテアと二人で監禁されていた場所。それは少しだけ離れた場所にあり、苔が酷くこびりついた、風が吹けば今にも倒れてしまいそうな、物置小屋だった。
どうやらそこに今もテアは居るらしく、オメガやベータ、そしてアルファのものではない、純粋な若木の凛々しい爽やかさを感じさせる香りが、微かに漂ってくる。
その香りの中にノアの甘く瑞々しい桃の香りが染み付いており、シュナはその二つの健康的で優しい香りにようやく自身を落ち着かせ、テアがまた逃げ出さないようにと見張りとして立っている一人のアルファが、隙を見せることを待った。
……一時間、二時間、三時間、と何も起きぬまま、時ばかりが過ぎて行く。
そうして夜が一段と深まり、梟の声が森を浸し始めた頃。
どうやら若いアルファが近くには居るものの脅威ではない。と見なしたのか、この群れのパックアルファは警戒を解き、寝床に向かったのが見えた。
それに同調するよう気が弛んだのか、テアを見張っていたアルファの男が大きくあくびをしては、ぶるりと身震いする。
そして尿意を感じたのか、閉じ込めている小屋の扉を一度蹴り、「今度出たら殺すぞ!!」と叫んだ男は反対の茂みへと消えていった。
途端に、しんとした静寂さを蔓延らせる森。
その静けさに、シュナがごくりと唾を飲み込む。
誰も居ない絶好のチャンスが、今、目の前に広がっている。
それを確認し、研ぎ澄ました神経で辺りを警戒しながら瞳を爛々と鈍く夜に光らせたシュナは、そしてついに音を立てず立ち上がり、その苔むした汚い物置小屋へと走った。
狩人が獲物を狩るように、しなやかに、そして迅速に。
夜を駆けるシュナはまさしく狼のように身軽でそれでいて厳粛で、物置小屋の鍵を素早く破壊したあと、その中へと足を踏み入れた。
カビやすえた臭いと共に、テアのだろう香りが鼻の奥で広がる。
光のない物置小屋に差す、月明かり。
その中で土のままの地面に後ろ手で縛られながら転がっている、少年から青年へと変わり始めている年若い男をシュナはしかと捉え、そしてその男ことテアもまた、シュナを見ていた。
驚きに見開かれた目は切れ長で美しく、すっと通った高い鼻と凛々しい眉は、ノアとは正反対である。
だがそれでもどちらも美しく、似ていないな。なんて思いつつも、されど今はそんな事を考えている場合ではないとシュナはテアの前に素早く座り、それから声を潜めてテアの顔を見つめた。
「あなたはテアですよね? あなたをここから連れ出す為に来ました。あなたの兄のノアは今俺の小屋に居て、あなたが来るのを待っています」
「……お前誰。なんでノアを知ってるの」
シュナの声に警戒心を剥き出しにしながら、テアが答える。
その声はノアよりも随分と深く男性的であり、しかし今は会話をしている時間すら惜しいとシュナはテアの腕を縛っている紐をナイフで切りながら、端的に返事をした。
「俺はシュナ。川から流れてきたノアを助けました。そして今、俺はあなたたち二人を助けたい。とりあえず立ってください。話をするよりもまずここから立ち去る事が最優先です。テア」
折りたたみナイフをポケットに閉まったあと、ほら。とテアを立ち上がらせる為に手を差し出すシュナ。
しかしテアはその手を取る事なく自分で立ち上がっては、唸り声をあげそうなほどの強い眼差しでシュナを見ている。
それに一度溜め息を吐いたシュナは、ノアが渡してくれた貝殻を慎重にズボンのポケットから取り出し、テアへと見せた。
「……!これは、ノアの……!」
「あなたが俺を信用しない時、これを見せてとノアが持たせてくれました」
「……」
その貝殻は小さく、しかし綺麗なピンク色で艶々と輝いている。
それは美しく、きっとテアも同じ貝殻を持っていて、合わせるとぴったりとくっつきペアになるのだろう。
これを持たせてくれる際、ノアがとても大事そうに取り出しては、両親の形見なんです。と話していた事から、この貝がどれだけ二人にとって大事な物なのかくらいシュナも分かっているつもりで、それをテアの手にそっと渡し、それから真っ直ぐにテアを見つめた。
「俺と一緒に来てくれますか? テア」
シュナの深く静かな声にテアは未だ警戒を解く事なく、しかし手にした貝殻をじっと見たあとシュナを見上げては、小さく頷いた。
それにシュナが、良いね。と呟き、さっと踵を返しては小屋の扉へと身を寄せ、隙間から誰か居るかを確認した。
幸い未だ誰も居らず、辺りはしんと静まり返っている。
パチパチと焚き火が燃える音。
小さな鳥達の鳴き声。
草木の、ざわめき。
それだけがただ静かに静寂を揺らしていて、シュナは小さく一人で頷いたあと、後ろで同じよう息を潜めているテアを見た。
「テア、走れますか」
テアの顔や腕に浮く、殴られたのだろうと分かる痣。
それに顔を歪めながら、酷なことを強いていると知っていつつも、シュナが呟く。
その声にしかしテアはしっかりと頷き、平気だと言うようにシュナを見ていて、シュナも頷き返したあと深呼吸をした。
「行こう」
それだけを呟いたシュナが、素早く小屋を飛び出す。
それにテアが続き、二人は音を立てぬよう細心の注意を払いながらも地の上を素早く走り、そして側の草木の中へと素早く身を滑り込ませては、振り返る事なくただひたすら駆け抜けて行った。
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