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しおりを挟む──アルファとして一人前だと認めてもらうための洗礼式でシュナが群れから離れて、早いもので季節は夏を過ぎ、秋を越え、気付けば冬が終わろうとしていた。
夏の陽射しは肌を焦がし息苦しくさせ、しかし秋が山々のキノコや果物の実りで恩恵をもたらしてくれ、だが冬は凍えるような寒さでシュナを殺そうとした。だがシュナはそんな一人の生活のなかで、色々な事を学んだ。
シュナはこの一年の間で狩りを呼吸するのと同じくらい自然と行う事が出来るようになり、毒のキノコを嗅ぎ分けられ、草木を噛んで過ごした為に多少の毒への耐性もついている。
かつ他の群れから追い出されたのだろうアルファと運悪く出くわし、戦い、腕に消えない傷痕を抱えたものの、この場所を明け渡すことなくそのアルファを打ち負かし追い払ってもいる。
その経験は貴重な思い出として弟のウォルや友人らを楽しませ興奮させる最高の語りになるであろうし、冬の初め頃には熊をナイフで仕留めた事もあり、寒さを凌ぐための暖かな毛皮ですら手に入れている為、良い手土産話の証拠となるだろう。
そんな数々の困難を乗り越えたシュナは自信と誇りを持ちながら、未だ彼の群れへの愛を失う事なく抱えたまま、来週にでもここを立とう。とちょうど群れへ着いた頃には春になっているだろうと胸をときめかせ、群れを出た頃よりも随分と精悍さが増した表情で小川へと向かっていった。
シュナが持ち合わせている衣類はたったの数枚であり、それを洗う為と水浴びの為に、小川に辿り着いたシュナ。
春がもうすぐそこまで近付いているものの未だ水は冷たく、そこに手や身体を浸すのは恐ろしいが、日が暮れ今よりもっと気温が低くなる前に。と昼の太陽が地を温めてくれる時間帯にやって来たシュナはしかし、そこで何か異変を感じ神経を研ぎ澄ませた。
木々の上を旋回している鳥達は普段よりも騒がしく、小川の向こうから水と共に交じる、知らない匂い。
それはごく僅かだが確かにシュナ以外の人間の存在を明らかにしていて、シュナが眉間に皺を寄せる。
だが小川の上流から流れてくる人を見つけた瞬間、シュナは大きく目を見開き服を着たまま、勢い良く小川の中へと入っていった。
ザブンッ、と辺りに響く水飛沫の音。
冷たい水は流れは緩やかだったものの急速に体温を奪ってゆく。
しかしそれを気にせずシュナが流れてきた人の方へ一目散に向かえば、どうやら気を失っているらしい人間はピクリともせず。そのぐったりとした腕を掴み、肩へ回したシュナはまたしても脇目も降らず一目散に岸へと戻り、流れてきた人間を陸へと押し上げた。
冷たい真水はシュナの芯を冷えさせ、けれどもそれすら感じずその人間の上に股がり表情を覗き込んだシュナは、未だ少年のようなぽっちゃりとした頬を持った男を、見た。
その頬と同じく厚くぽってりとした唇が印象的で、けれどその唇は血色がなく、シュナは慌てて頬を叩き、それから心臓に耳を押し当てた。
それは小さいが確かに、……トクン、トクン。と脈打っており、シュナはもう一度頬を叩いたが、しかし何の反応も無く、シュナはその少年の顔に自身の顔を近付けた。
鼻を摘まみながら、口を開かせ、酸素を吹き込むシュナ。
そしてすぐさま心臓の上で手をポンプさせ、その動作を何回か繰り返したその時、ようやく少年がゴボッと大量の水を吐いては、ヒューッと喉を鳴らした事にシュナは安堵の息を吐いた。
「ゴホッ、ゴホッ、っ、カハッ、」
「落ち着いて、ゆっくり、ゆっくり息を吸え」
仰向けになったままの少年が目を見開き、苦しそうに咳き込んでいる。
その上に未だ馬乗りになったまま、シュナは少年の額にかかる鈍い色を放っている金色の髪の毛を払い、じっと見つめ返した。
少年の顔にシュナの濡れた髪や顔から滴る雫が、ポタ、ポタ。と落ちていく。
そんなシュナの言葉を反芻するようゆっくり、だがしっかりと酸素を肺に送るため少年が大きく何度も深呼吸をし、その喘ぎと健気な姿にシュナが少年の頬を長い指で擦り、良い子だ。と言わんばかりに褒め撫でれば、少年はようやくシュナを音ではなく人として認識したのか、ぱっちりとした二重の目を大きく見開き、シュナの顔をまじまじと見た。
青空の下、二人の視線が交じり合う。
──その永遠にも一瞬にも思えた時間を裂いたのは、少年の大きな叫び声だった。
「いや!! 離せ!! 俺に触るな!! 離せ!!」
少年の声はパニックに満ち震えていて、その金色の瞳に映る盛大な拒絶にシュナは驚きに目を瞬かせたあと、尋常ではないその嫌がりように慌ててその少年の上から退き、両手を上げた。
「待て、少年、落ち着いてください」
シュナは精一杯の、だが硬さを含んだ声で少年を宥めようとしたが、少年は自身の身体を強く抱き締め後退りながら、またしても声をあげるだけ。
「アルファなんて嫌いだ!! 近寄るな!!」
そう甲高い声で尚も叫ぶ少年にシュナは、何? と眉間に皺を寄せ、けれどもそれから慎重に、少年を怖がらせぬよう注意しながら、ゆっくりと口を開いた。
「……確かに俺はアルファだが、あなたを傷付けたりしません」
「嘘だ!!」
二重の愛らしい目に涙をいっぱいに溜め、はっきりと宣言し首を横に振る少年。
その姿はとても弱々しく見えて、シュナは困ったように眉を下げながらも、再度口を開いた。
「……少年、あなたは怪我をしています」
シュナがじっと少年の顔に走る切り傷や身体の打撲傷に目を向け、厳粛な声を出す。
そうすればようやく自身の状態に気付いたのか、初めて少年はシュナから目を逸らし自身の身体を見ていて、身を捩った瞬間に足首を痛めているのか顔を歪ませたのが分かった。
「もう一度言います。俺はあなたを傷付けません。……だから、どうか俺に手当てをさせてくれませんか」
「っ、」
シュナが頭の中で庇護するべきだと喚く自身のアルファ性の声に従い懇願するよう囁けば、少年は息を飲んだあと、至極驚いた表情を見せた。
「……あ、あなたは今、俺にお願い事をしていますか?」
「はい。あなたはとても怯えているし、傷付いています。それを俺は放っておけません」
シュナが誠意を込めて呟けば、少年は幽霊を見ているかのように目を大きく見開いたまま口をぽっかりと開けていて、その大げさ過ぎる態度にシュナはまたしても眉間に皺を寄せたが、少年は先ほどの荒々しく刺のある態度から一変しひどく困惑した迷子のよう、目をさ迷わせただけだった。
「……今薬を取ってきます。ここから動かないでください」
未だシュナに怯え、だがそれだけではない訝しげな眼差しを向けてくる少年にシュナはそう端的に言い放ち、それから踵を返して森のなかを走った。
木々の間を恐ろしいスピードで駆け抜け、夏の終わり頃にようやく完成した小さな小屋の中へと戻ったシュナは綺麗なタオルと唯一の綺麗な服(残りの洗う為に持っていった服は今も川辺に置き去りのままだろう)、それから薬を手に取り、またしても小川へと走り出す。
それはあまりにも必死で、もちろんアルファであり過保護な性質があるからだとは自覚しているが、それだけではない何かが腹の奥で渦巻いているような気がし、シュナはその不可解さを今一処理できぬまま、けれどもそんな事を考えている場合ではないと森のなかを駆け抜けた。
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