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続く続かない話

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 底冷えするような寒さが染みる夜。
 空は星さえ見えず、墨を垂らしたかのような闇を纏っている。
 この暗闇では数メートル先であっても、外灯なしでは見えやしない。
 ポツリ、ポツリ、と申し訳なさ程度の心許ない外灯の明かりだけの夜道。
 その道を覚束無い足取りで寒々と腕を擦りながら歩く男の名は、吾妻幸太郎といった。
 好青年らしさが滲む美しい顔に似合わず、昭和の名残を感じさせるリーゼントにも似た髪型。だがそれが妙に相まって男らしさを強調させているようにも見える吾妻は、吹き荒れる冷たい風に鼻先を赤くしながら悴んだ手を温めようと息を吹き掛けちらりと腕時計を見やったが、時刻はもう零時を過ぎていて、思わず重い溜め息を溢していた。


 今年二十歳になったばかりの吾妻は大学のサークルで行われた飲み会の帰りであり、数十分前に摂取したアルコールが体を重くさせ、だが何処かふわふわとした心地にもさせていた。 
 人当たりの良さと持ち前のコミュニケーション能力の高さからよく色々な人や先輩から声を掛けられていたが、以前はまだ『二十歳になっていないから』と断っていた飲み会。
 だがその免罪符も外れ、そして先輩の誘いを無下にする訳にもいかず、結局店が閉まるまで居座ってしまったのが吾妻の運のツキであった。
 体の表面は寒かったが内側を渦巻く酒の熱さがなんとも気持ち悪く、白い息を吐きながら吾妻が夜空を仰げば、自分の体と外界との境界線が曖昧に滲んでしまいそうなほど、辺りは暗かった。

 しんしんと静かな夜がより一層骨身を震わせ、手をダウンジャケットのポケットへとおざなりに突っ込んで進んでいれば、夜露に濡れたアスファルトの香りが鼻に付く。
 まるで世界に一人ぼっちになってしまったような錯覚さえ感じてしまって、何とも幻想めいた考えだ。と一人笑っていれば、その時丁度横断歩道が見えた。
 そこへ吸い寄せられるようにふらふらと近寄って行った吾妻だったが、帰り道ではない所へと足を向けてしまったのは酔っ払いの成せる技であったのだろう。
 それに、真っ直ぐ帰ったとしても迎えてくれるのはボロアパートの部屋のみであるし、明日は休みである。少しくらい寄り道したって咎めるものはなにもない。と開き直ってもいる吾妻はそう思えば夜の散歩も楽しいもので、昔誰に教わるでもなくしていたように、黒いところを踏んでしまっては駄目。だなんてルールのもと、白線のみを踏んで歩いた。

 童心に返ったような、そんな愉快な気分のまま躍起になって足を前に踏み込んでいき、少しばかり足に弾みを付け渡りきった先。
 新体操選手のように手を伸ばして一人満足していれば、不意に何処からか小さな声がした。

 ──耳に響く、掠れた声。

 高くも低くもなく、だがなんとも言えない心地好さが滲むその声は、小さく小さく、しかしハミングを刻んでいるようだった。
 途切れ途切れなその声に惹かれるまま、吾妻はふらふらと雑居ビルが建ち並ぶ道を行き、右へ左へと迷路のような道に自ら迷い込んでゆく。
 次第に段々と道幅は狭くなり、外灯も壊れたまま光を灯してはいない。
 壁にはよく分からない沢山の落書きがされ、排水溝からは白い煙が昇ってはゆらめいて、辺りは垂れ流されたドブ臭さが漂っていた。

 この先は危ない。

 直感はそう告げてくるというのに、酔っていて正常な判断が出来ないせいだと自分に言い聞かせ、吾妻が尚も声を頼りに歩いていく。

 段々とはっきりしてくる声。
 耳障りの良い声は、吾妻の知らぬ歌を口ずさんでいる。
 だかその何処か哀愁が漂うような美しい声に惹き付けられ抗う事が出来ず、淡々と紡がれる音程を辿り路地へと吸い込まれるように近付けば、その先は行き止まりなのか、積み上げられた段ボールの山が暗がりの中でも見えた。



 積まれた山のその頂上。声の主が座っている。
 声からして男性だという事は分かっているが、その人は壁に凭れ深くフードを被っていて、顔が見えない。
 足をぶらりと揺らしながら鼻歌を口ずさんでいるその姿が何処か日常とかけ離れて見えて、ほぅ、と吾妻が思わず感嘆にも似た息を吐く。
 だがその時、ふと、自分は此処まで来てどうするつもりだろう。と突然思ってしまった。
 話し掛けるべきだろうか?
 声に誘われるまま来てしまいました。なんて馬鹿正直に言った所で、不審がられるのが落ちである。
 そう漸く正常を取り戻しつつある脳が、そのまま何事もなく引き返せ。と告げてくる指令に従い吾妻が踵を返そうとしたその瞬間、ザリッ、と小さな音を靴裏が捉えた。

 砂利を噛み砕いたその音に、今まで聞こえていた不思議な声がピタリと止まる。
 ああ、気付かれてしまった。邪魔にならないように消えようと思ったのに。
 そう申し訳なく思い足元を見ていた顔を上げれば、ゆぅらりと黒い影が蠢いた気配を目の端で捉える。
 だがそれも一瞬。
 奥の段ボールの山に居た筈のその声の持ち主が、吾妻の目の前に居た。

 ──瞬間移動。

 そう表すのが正しいような瞬発力で、忽然と吾妻の前に立ちはだかったその男。
 衣擦れの音さえほぼせず、まるで風のようだなんて吾妻が場違いな事を思いながら、その人を見る。
 細く、だがとても背が高い。
 猫背であろうに自分の背よりも遥か上にある顔は、黒いパーカーフードで隠れて良く見えなかった。

 近付いた事で分かったが、黒のパーカーの上に学ランを羽織っている事から学生なのだろう。足元はスニーカーという至って普通の若者らしい出で立ちであったが、何処からどう見ても怪しさしか感じない路地裏にひっそりと居た事と、漂うオーラから感じるピリピリとした殺気が、年下であるというのに只者ではないと警告音を鳴り響かせ、脊髄を震わせる。
 冷や汗がたらりとこめかみから垂れていくのを感じつつ、邪魔して悪かった。と呟こうとした吾妻の声は、突如として伸びてきた手によって阻まれた。

 ガシッ、と容赦なく掴まれた頬。
 押し潰された空気が唇から間抜けに響き、しかし痛みに顔が歪む。
 ミシミシと骨が軋むような音が聞こえ、そのまま潰されてしまいそうな恐怖に吾妻の足がガクガクと震え始めたが、細い腕の何処にそんな力があるのか分からない程の力強さのまま、離されない指先。
 かさついた体温の低い指の感触と、今だ顔が見えないその恐怖に、吾妻の喉が引きつった音を出す。
 そんな吾妻を見下ろす男は誰かに殴られたのだろうか、唯一見える唇の端は切れ血がこびりついていた。

 ……不良という奴なのだろうか。

 そう吾妻が思ったその時、不意に目の前の唇が開き、残像として残りそうな程の白い歯がガチンッ、と凶悪に鳴る音がした。

 暗く、闇のような路地裏。
 向かい合う二人を照らすかのように雲が途切れ、満月が顔を出す。

 不意に、ガクン。と首を傾げた男が片手でゆっくりとフードを降ろし、月の明かりにぼんやりと照らされる男。
 見下ろしてくるその顔はまさに、吾妻の目には異形の者のように見えた。


 美しい顔立ちであったが、表情が乗らない、つるりとした能面たる顔。
 今日の夜のような漆黒さをたたえる有隣目めいた瞳に見つめられてしまえば蛇に睨まれた蛙のように視線を逸らすことが出来ず、男の鋭い鼻先がより一層爬虫類さを際立たせている。
 薄い唇は傷付いたままジクジクと赤く濡れていて、 

「……誰だお前」

 そう紡がれた声は、先程聞いた音とは程遠く、凍えてしまいそうな冷たさが滲んでいた。

 顔を掴まれたまま見下ろすその顔を吾妻は見上げたが、表情が読み取れない。
 ただ警戒心剥き出しであるという事だけは分かるため、落ち着かせようと掴まれた頬の痛みに耐えなんとか声を出そうとしたその時、強烈な白が視界を焼いた。



「おいお前ら! 此処で何してる!」

 乱暴に叫ばれた声。
 目映い白の光に、うっ、と吾妻と男が顔をしかめた先に見えたのは、警官の姿で。
 ハンドライトを持ち近寄ってくる影に、目の前の男はチッと舌打ちをした後、漸く吾妻の頬から手を離した。



「こんな暗がりで何してるんだ。揉めてるのか君達。ん? キミ高校生か。今何時だと思ってるんだ」

 男のぶらりと垂れた長い腕が振り子のように揺れるさまを吾妻がぼんやりと見ていれば、高圧的に問い詰めてくる警官。
 だが、目の前の男は煩わしそうに眉間に皺を寄せるだけで、質問には答える気はないようだった。


 先程は焦りと恐怖で気付かなかったが、男はサイドを刈り上げた金髪という明らかに不良と分かる髪型であるし、まるで喧嘩をしていました。と言わんばかりに唇の端は切れ青アザを浮かばせている。
 それに加え、先ほどのシーンはどう見ても自分がこの男に脅されているように映っただろう(まぁ実際そうだったが)。このまま行けば目の前の男は補導されてしまうかもしれない。と焦った吾妻は思わず、人当たりが良いと評判の笑顔を浮かべ警官を見た。

「巡回ですか? お疲れ様です。お恥ずかしながら僕ら兄弟なんですが、喧嘩してしまいまして……。弟が家を飛び出したもんで慌てて追っかけてたんですよ。ですが弟ももう頭は冷えたみたいですし、もう帰りますんで見逃してくれないでしょうか」

 べらべらと嘘を並べ立て愛想笑いをする吾妻は、特に暴行をされた訳でもないしむしろ不用心に近寄ってしまったのは自分の方なのだから。と持ち前の人の良さで庇っただけだが、目の前の男はその吾妻の意図が分からなかったのか、ピクリと片眉を上げ不審そうに吾妻を見下ろしている。
 だが男のその機微な表情に、幸いにも警官は気付いていないようだった。

「あ、そうなんですか。それはそれは。……実は私にも弟が居るのでお兄さんのお気持ちお察しします。まぁ私は迎えになんて行かなかったですけどね。あ、これは警官としてはあるまじき言葉でしたかね、ははは」

 それどころか吾妻の穏やかな雰囲気にほだされたのか一気に態度を変えそうにこやかに笑う始末の警官に、吾妻は心のなかでほっと胸を撫で下ろし、人懐こい笑みを浮かべ続けた。

 それからそのまま談笑を暫し交えたあと、最後には木偶の坊のように突っ立ったままの男の背を叩き、

「こんな良いお兄さん中々居ないぞ。大事にするんだぞ弟君」

 なんて言い出した警官。
 だが、触るなと身を捩った目の前の男のせいでまたもや警官が不機嫌そうな顔をしたので、吾妻は慌てて腕を引き、ではこれで、お勤めご苦労様です。とにこやかに笑いながらその場を後にした。




 暗い夜道を、見知らぬ男の腕を掴んだまま警察官に見送られ歩く。

 その謎の体験が何故か少しばかり面白く感じた吾妻は、酔いも覚めてきたというのに未だ夢の中のようだ。なんて小さく笑ってしまい、現実は小説より奇なり。と心のなかで呟いたが、まぁでもそれは言い過ぎか。なんて思いつつ歩いた。
 そんな吾妻の後ろ姿を訝しげに見やる男が角を曲がって警官の姿が見えなくなった途端、吾妻の腕を振り払った。

「……お前なんのつもりだ。俺を助けたつもりか」

 辛辣にそう吐き捨て、威嚇するよう吾妻を見つめる男。
 その言葉に後ろを振り返った吾妻は刺々しい態度の男に向かって、にへらと笑った。

「お節介だったか、ごめんな。まぁでもいいじゃん、補導されずに済んだんだから」

 楽観的な言葉を吐き、未だへらへら笑う吾妻のその顔を見下ろしては、……何が良いお兄さん、だ。こんな不審者捕まえてよく言ったなあの節穴警官。だいたい、この男はさっき俺に顔を掴まれて死ぬほどビビっていたのを忘れたのか。等と男が思っているなど露知らず、吾妻は男の指摘通り先ほど脅され恐怖に震えていたという事をもう忘れたのか、

「まぁこれも何かの縁だしお節介ついでに家すぐそこだから唇の傷、手当てしてやるよ。手当てしたら家までタクシーで送ってやるから」

 なんて言い出している。
 だがいよいよ男は底の知れない吾妻の善にうすら気持ち悪さを感じたのか、……構うな。と言い残して去っていこうとしたが、その腕を吾妻がもう一度掴んだ。

「そんな格好でうろついてたら今度こそ補導されるぞ」

 真っ直ぐな瞳で見つめてくる吾妻のその言葉に男は意外にも押し黙り、考え込む素振りをしてみせている。
 どうやら補導はされたくないらしい様子の男の少しだけ見えた人間らしさに何故か吾妻は安堵の息を吐いて、まだまだ高校生だもんな。なんてまたしても楽観的な笑みを浮かべた。

「手当てしたらちゃんと送り届けてやるから安心しろ」

 そう屈託ない笑みを見せる吾妻を無遠慮に頭の先から足の爪先まで眺めた男は、得体の知れない偽善者め。どんな裏があるんだ。と思いつつ、まぁ何かあれば殴って逃げればいいだけか。なんて一度目を逸らす。
 それにこちらにとってマイナスな事はない。と打算し、使えるモンは使うべきだな。なんて小さく鼻を鳴らした男は、出会って初めて不敵な笑顔を見せたのだった。


「……そこまで言うなら、良い兄さん、に面倒見てもらうか」

 やはり高くも低くもない、けれどとても耳障りの良い声でそう呟いた男の鋭い眼光に、思わず吾妻が息を飲む。

 ……やっぱり言わなきゃ良かったかもしれない。

 そう顔を青ざめさせる吾妻の綺麗に固められた髪の毛を、凍えそうな寒さを引き連れた風が撫でてゆく。

 相変わらず墨を垂れ流したような夜空にぽっかりと浮かび上がる満月だけが、またしても蛇に睨まれた蛙のように見つめ合い、しかし互いの名前さえ知らない二人の奇妙な出会いを、じっと見下ろしていた。



【 続く続かない話 】




 
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