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キズは自分にしか分からないこと
一 行動
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目覚ましの音が鳴り響いた。
数秒して、唸りながら時計に手を伸ばす。アラームを止め、そのまま時計を掴んで引き寄せると、純は身を起こした。首元辺りまで掛かっていた布団が背中から滑り落ちていく。
「おはよう、純」
まだ眠気のある頭で時刻を確認していると、挨拶をしてくる者がいた。
「おはよう」
すぐ近くから聞こえた声に顔を上げると、ベッド脇にいた声の主に純は挨拶を返した。
すでに制服に着替えている彼は、宮原良智という同室者である。短い黒髪をした、一年の頃の幼さをまだ残した生徒だ。
良智とはクラスも同じで、席も隣同士という奇遇である。
昨夜、純はあっさりとこの自室まで帰ることができた。
噴水にいた彼が去っていった方向へ取りあえず純も進んで行ったところ、直進していただけで林から出たのである。迷っていた純は、それに対して横に移動していたので、なかなか出られずにいただけだったのだ。
「起きたばかりだけど、食堂いかない? 俺、お腹空いちゃっててさ」
挨拶を交わした早々、良智は空腹を訴えてきた。
「別にいいよ」
本当は、起きたばかりで空腹感はなかったのだが、純は承諾した。今はまだ空いていなくても、朝食が出来上がるのを待っていればその間に空いてくるだろうと思ったからだ。
「それじゃあ、行こう」
了承が得られると、まるで楽しみにしていたとでもいうように良智は動き出した。なんとなく、以前から約束をしていた親に不安を持って確認をした子供が嬉しがるのに似ているかもしれない。
遅く寝た分、十五分だけだが遅く起きただけで、良智はこんな反応になるらしい。
でも、それだけ減っていたというなら、起きるのを待たずに先に行っていればよかったものを。転校してまだ日が浅いとはいえ、食堂の使い方ぐらいもう覚えている。
そう思いながらも、純はまあいいかという思いにも至っていた。
まあ、それはいいとして。
「あ、良智。着替えてないんだけど」
純は起きたばかりだ。普段着っぽい格好で寝てはいるが、家ではないのだから、さすがにこの格好で大勢がいる所に行くのは抵抗がある。
「じゃあ、早く着替えてよ」
振り返った良智はせかしてきた。なんだか不満そうな声色もあったように聞こえたが、それは決して自分のせいではないはずだ。
「…………」
それに、いくら起きたばかりの者に言ってくるほどだとしても、起きるまで待っていたのだから、もう少し待ってくれてもいいのではないか。そう思ったのだが、腹の鳴る音が聞こえてき、純はその思いは口にしないでおくことにした。
「なあ、良智」
着替えながら純は呼びかけた。
「三浦興って知ってる?」
尋ねたのは、昨夜、噴水の所であった生徒のことだ。
「知ってるよ。てか、同じクラス」
隣の自分のベッドに腰掛けて待っていた良智はそう答えてくれた。
互いに壁に寄せられたベッド同士の間それなりの広さがあるのだが、その幅がこの部屋の自由なスペースの半分だったりする。とはいっても、室内そのものは狭いと言えるほどではない。だが、狭くはないが広くもなく、ベッドが二つも入ってしまえば狭い。さらには、窓際に、壁を向いている机がベッドに並んで置いてある他、収納スペースに収まりきっていない各自の私物で、自由さは実際の部屋の半分くらいしかない。
「そうなのか?」
返ってきたことに、純は少し意外にさせられた。
同じ学年というのは手帳に記されていたので分かっていたが、まさか、クラスも同じだとは思ってもいなかった。
「まあ、今日でまだ三日目だしね。知らなくても仕方ないさ」
知らぬ理由を良智は理解してくれていた。たった二日間で三十人以上を覚えるのは、よほど人覚えが得意でないかぎり難しいことだ。ましてや、自分の紹介はあってもクラス全員の紹介があったわけではなく、全員と話したわけでもない。他にも覚えなければならないことも多く、それを覚えていく最中に話したクラスメイトの半分以上は忘れてしまっていたりする。覚えているのは、隣席で同室の良智と数人だけだ。
「でも、なんで?」
「生徒手帳、拾ったから」
「え? いつ?」
純の返答に良智は不思議そうにした。
それもそうだろう。この二日間、慣れない純のためにと、良智はずっと共にいたのだ。知らない出来事はないと言ってもよい。
「昨日の夜。林の中にある噴水の所で」
純は言った。寝た後のことなど良智が知らなくて当然だ。
「なんで夜なんかにそんなとこ行ってるのさ」
良智は不審げにした。
「なかなか眠れなくて。ちょっと、散歩に出たんだ」
「それで、あそこに着いて、拾ったわけ」
「ああ」
純は肯定した。そこまでに至る事実はもう少し長いが、さすがにそこまでは言いたくはない。
「んー、食堂で渡す? 教室で渡す?」
出来事を一言も言わなかったためか、良智もそれだけだと信じてくれたようだった。早くも返すための方法へと進めてくれる。
「早いうちがいいから、食堂にする」
返すだけだ。いや、謝りたいし、不可抗力であったことを早く伝えたい。それと、どう思っているのかも知りたい。
さすがに、転んでの事が故意的なものだと思っているはずがないだろうが、勘違いしてしまう者はしてしまう。
「分かった。じゃ、行こ」
決めると、良智は腰を上げた。その頃には純も着替え終わっていたからだ。
「ああ」
歩き出した良智に純も続いていく。
「興は、いつも俺たちより遅くくるから、今日は見つけやすいように入り口近くに座る?」
「そうする」
空いてればだけどと、短い廊下を歩みながら付け足された提案を純は受け入れた。俺たちとは、良智がいつも一緒に食事を取っている親友のことだ。
「それと、来たら教えてほしいんだけど」
「分かった」
見たけど、と続きそうになったのを飲み込んで頼むと、あっさりと了承が返ってくる。
噴水での出来事など恥ずかしくて言えないことだ。
生徒手帳を拾った。
あくまでも、それだけで済ませようと純は思っていた。でも、隠そうとするならば、良智もいないところでしないといけないだろう。
「それでさ、興なんだけど」
そんなことを思っているとも知らず、ドアを開けようとした手を止めた良智は、何かがあるような口振りで振り向いた。重要なことらしく、表情もいくぶん真剣みを持っている。
「なに?」
「話しかけてこなかったし、まだいいかなって思ってたんだけど……興は、校長と養護教諭の親戚なんだ」
「ってことは、接しにくい奴ってこと?」
良智の言わんとすることを純は予測した。
養護教諭はともかく、校長と血縁者とあっては無闇やたらな接し方はできないだろう。何で告げ口をされるか分かったもんじゃない。
けど、そういう意味ではなかった。
「そんなことないよ。みんなと変わらないし、俺たちとも仲が良かったからね。それにまず、興自体が校長のこと忘れてること多かったし」
「それはそれで校長が不憫だな」
校長ということで、学校内だけだろうが笠に着ることもできるのだ。なのに、それ以前に忘れられているとは。校長からすれば悲しいことだろう。良智も苦笑している。
「まあ、ほとんど接点がない人で、養護教諭に言われるまで気づかなかったらしいからね」
元から接点がないなら仕方がないかもしれない。
「それじゃあ、いいんじゃないのか? 何が駄目なんだ?」
興自身が皆と変わらないのなら、何も問題はないんじゃないのか。
「今のは情報。言っておいた方がいと思ってね」
それならば問題がない内容で当たり前だが、では、何が問題なのか。
「でね。興、不良に目、付けられててさ」
良智はじゃっかん声量を落とした。ドアはまだ開けておらず、聞かれる心配はないはずだが、それでも声を忍ばせてしまいたくなることらしい。真剣みを帯びた一番の理由はこれのためだったのかもしれない。
「特に、三年の横田って人のグループなんだけど……そのことで、興も周りと関わらなくなっててさ。だから、興と関わるなとは言わないけど、気をつけてね」
つまり、不良に気をつけろということだ。性質が悪い奴は一緒にいるだけでも絡んでくる。興に目を付けている不良もそんな奴らなのだろう。
「分かった」
純は頷いた。純とて厄介なこととは関わりたくない。
でも、目を付けられて他人と距離を置くなんて。普通は距離を置かれてしまうものだが、興という人物は、周りのことも考えているのだろうか。
「にしても、校長の親戚だってのに、よく絡んだよな」
それから、純はその不良らへの感想を述べた。いくら興が校長のことを忘れてたとしても、血縁者である分、意識のされ方は違うだろうし、下手をすれば退学にもなりかねなくなる。そんな危険があるというのに絡むなんて、なかなかに度胸がある。不良だからだろうか。
「よほど気に入らなかったみたいだよ」
だから、学校の代表者の親戚でも絡んだのか。それでも、やはり度胸があると思えてしまう。
「今でも絡んでるらしいからね」
「そんなに長く絡まれてるのか?」
いつから絡まれているかは知らないが、長期であることを感じさせる言い方に純は聞いた。
「まあ……一年の頃からだし」
「一年? 去年から絡まれてるのか?」
そんなに長いと、逆にそれ以外で接点があるんじゃないかと思えてもしまうのは自分だけだろうか。
「うん。去年よりは減ったけど、それでもなくなったわけじゃないから。気をつけてよ?」
「分かった」
減ったとしても、第三者にまで影響がくるほどなら当然、関わる気はしてこない。
二度目の忠告に、純は異論もなく頷いた。
□□□
純が転校してきた条蓮高校は、この地方では一つしかない全寮制の男子校だ。
全寮制のため、全生徒を収めなければならない寮はそれなりに大きい。
なんと、四階建てだ。生徒の部屋は二階から四階となっており、学年ごとに階で分けられている。
純たち二年は四階だ。卒業生が入っていた階が新入生の階となるので、今の二年の階は四階となったということである。
部屋割りは、同クラスの二人で割り当てられ、残った者は別のクラスの者と、それでも残った者は一人部屋となるらしい。他の学年と組まされることはないという。純の同室者の良智はそんな感じで残ったからではなく、元々いた同室者が転校していったために一人部屋となっていただけだという。もしそれがなければ、純が一人部屋となっていた。
そして一階には、食堂や風呂場など、共用で使う場所が集まっている。
着いた食堂に入ると、半分近くが埋まっていた。この二日間はもう少し早く、人もあまりいない時に来ていたのだが、遅く起きた分と話していた分の時間差は大きいようだ。
そんな食堂も、全寮制である分、席も全員分が用意されており、結構な広さがある。それでも、若者しかいないからか、半分くらいしかいなくとも結構な騒がしさがある。
「あ」
「良智」
入ったところで周囲を見回していた良智が発見する声を出すのと、良智を呼ぶ生徒がいたのはほぼ同時だった。
呼んだのは、出入り口近くの、それでも少し離れた席にいた一人の生徒である。
「遅かったな」
「起きるのが遅くなってさ」
「それと、興のこと話してたんだ」
探していた生徒でもある彼の所に歩んでいくと、先に声をかけてきた彼に純と良智は簡素に説明した。
「あいつな。ま、ほどほどにって感じだな」
「そうだね」
興の名が出たことに、彼も彼なりの意見を口にする。それに良智も同意を示す。
彼は、石井景一という。クラスは別だが、良智と部活が一緒で仲が良く、その関係で純も初日から仲良くなった生徒だ。
そんな景一は、髪を軽く茶に染めており、自分たちと変わらない話し方をしているのに落ち着いた雰囲気を持っている。純と同じく青年期を迎え初め、大人びを持ち始めているというのもあるかもしれないが、一番は、快活な性格のようである良智と比較ささっているからが大きいかもしれない。でもその分、頼りにできそうと思える雰囲気も強く出ている。
「興、来てる?」
「まだじゃないか?」
再び食堂内を見渡しながら尋ねる良智に、景一も見回しながら答えた。純も見回すが、らしき顔は見当たらない。というか、判断できない。
「そのうち来るだろ。まず、ご飯、頼んでこいよ」
「そうする」
どうやら、二人から見ても興は見当たらなかったらしい。ひとまずの自分たちの行動を促してくる景一に、良智は頷いた。
「行こ、純」
「ああ」
続いて良智にも促され、純は歩き出した。
食事は、厨房前のカウンターで頼むようになっている。といっても献立は決まっており、来たことを伝え、番号札を貰って待つ仕組みだ。給食とファーストフードが混ざったような感じである。
番号札と交換で朝食を生徒に渡す担当者に来たことを伝え、二人でまとめられた番号札を渡される。献立が決まっているわりにはカウンターから見える厨房内は忙しそうだった。やはり、人数が多いとそうなるのだろう。生徒はこれからも来るし、もっと忙しくなるに違いない。
目的の人物が来たのは、席へと戻る途中のことだった。
「純。来たよ」
いち早く気づいた良智が教えてくれる。
出入り口を見てみると、入ってきたところらしい二人の生徒が並んで歩いていた。一人は黒髪、もう一人は暗い茶髪だ。
だけれど、二人まで絞られているというのに、純はどちらであるか確信が持てなかった。一応の予測はつけられてはいるのだが、迷子に加えてのアクシデントの方が記憶に強く、相手の顔のことまでは全くといっていいほど残っていないのだ。写真も、まじまじと見るわけにはいかないだろうと思い、噴水で見たきりだ。
「どっち?」
「右にいる方」
聞いてみると、知らないことに疑問を持たれることなく教えてくれた。実物には会っていないことになっているので、特に疑いも持たれなかったようだ。
「分かった。行ってくる」
「俺は戻ってるからね」
さすがに手帳を返すだけのことに、良智は付いてこようとしなかった。付いてきたら断ろうと思っていたのだが、手間が省けた。
「分かった」
言葉だけで返すと、純は興の元へ足を向けた。
「興」
「ん?」
今日はどんな朝食か。そんな他愛ない話をしているところへ呼びかけると、良智が言った通り、右側にいた暗い茶髪の生徒が反応を示した。もう一人の黒髪の生徒は顔だけを向けてくる。
「ああ、お前」
こちらを認めると、彼は知っている者を見た反応を示した。彼は純のことを覚えていたらしい。まあ、クラスが同じだというし、さらには昨夜の出来事だ。印象深くはなっているだろう。
「わりぃけど、先に頼んでおいてくんないか?」
「分かった」
興が黒髪の生徒に言うと、事情を知っているのか、ただ単に聞き入れただけなのか。了承した連れは、それ以外は特に言葉もなく歩んでいった。頼んでいてとは朝食のことだろう。
「悪かったな」
それから、会話が聞こえないだろう程まで連れが離れると、興は謝ってきた。
「え?」
一瞬、なぜ謝られたのか純は分からなかった。けど、すぐに蹴られたことを思い出した。
「昨日、蹴っちまっただろ」
思った通り、謝罪の理由はその事だった。
「転んでああなったのは偶然だろ? なのに、蹴っちまったから。悪かったな」
「分かってくれてたならいいんだ」
純が一番気にしていたことだ。勘違いされていなくてよかった。気持ちがいっきに落ち着いていく。
「そっか」
一方の興も、良かったとでもいうようにかすかに頬を緩めた。彼も彼で気にしていたのかもしれない。
「言えてよかった。それじゃあな」
「あー、ちょっと待って」
歩き出した興に、純は少々、焦って止めた。興から謝ってきたことで一番の目的を果たせたが、二つ目の目的がまだ残っている。
「これ」
自分に背を向ける形になるくらいは進んだところで振り向いた興に、純は取り出した生徒手帳を差し出した。
「俺の?」
「うん」
「サンキュ」
手帳を受け取ると、純が持っている理由など気にもならないのか、軽く礼を言って興は再び歩き出した。
「ああ、ちょっと待っ、……!?」
それに、純は咄嗟に呼び止めようとした。
意味があったわけではない。すべての目的も達したし、止める理由はない。
しかし、呼ぶ意味がないことに気づいた時に、事は起こった。
呼び止めようと純も無意識のうちに足を一歩動かした瞬間、足の感覚がなくなったのだ。
それは、昨夜の噴水での時と同じ現象でもある。感覚がなくなった足は動かず、それに対して身を前に出していたことで純の体が傾ぐ。
「ん?」
その時には、呼び止められたと察した興が振り向いてもいる。
「!」
その彼に、倒れる純が迫る。そしてその時には、興にとってももう遅い。
興を巻き添えに、純は倒れてしまう。
だが、倒れてみると、下敷きにするほど興を巻き込んではいなかった。身を支えるように後ろに手を突いているだけで、興の上体は起きたままだ。純はその下ーー足の方を下敷きにしてしまっただけだったのだ。
しかしである。その顔のある位置は――
「ごめん!」
気づいた瞬間、純は勢いよく顔を、身を起こした。
その目に入ったのは、興の半眼である。自ら気づいたとはいえ、それが間違いのない事実として伝えている。
またしてもやってしまった。それも、二日続けて。
純は、興の股間に顔を埋めてしまったのだ。
「分かってる。これも不可抗力なんだろ?」
興の言葉は、半眼になったわりには静かなものだった。その反面、周りで動揺めいたざわつきが起きているのはどうしてか。
「もちろん!」
純は力強く肯定した。
「そうか。なら、早くどけろ」
「え? あ、ごめん」
言われ、純は気づいた。身を起こしたとはいえ、興の足はまだ純の下にあったままだったのだ。
よけながら立ち上がった純に続いて興は立ち上がると、それ以降は何もなく、無言で去って行ってしまう。
「…………」
怒った、のだろうか。けど、言動にその素振りはない。呆れたのか。よく分からないが、昨夜の反応も大きかったことから、彼にとっては強く意識させられてしまうことなのかもしれない。
「純!」
そこへ、焦り気味の声が耳に入った。顔を巡らすと、良智と景一が駆け寄ってきたところだった。
「大丈夫? 純」
「ああ。ちょっと転んじゃった」
「見てたから分かるって」
「また何もない所で転んだよね」
「まあ……ちょっと……」
実は、純は片足に後遺症を持っている。それが転ぶ原因になっているのだ。
だけど、二人にはそのことは言っていない。なので、転んだ原因も分からないことだ。
けど、言うつもりはないし、知られる気もない。純にとっては他人に言いたくないことだからだ。
「でも、何もされなくてよかったな」
「昨日は蹴られたけどな」
「は?」
「え?」
なぜ、不審そうな反応をするのか。疑問に思ったのは本当にの僅かのことだ。立て続けに聞き返した純は焦ることになった。
「……いや! 今のは、その! なし!」
今のは完全に失言だ。
「純?」
しかし、口ごもることもなく、声量が弱まることすらもなくさらりと出てしまったため、二人にはしっかり聞こえてしまっている。
「昨日ってなに? もしかして会ってるの?」
険を含んだとまではいかないが、良智の口調は少しきつくなっていた。
手帳を拾ったことだけで済ませようとしていたことは、良智からすれば嘘をつかれていたことにもなるのだ。
「いや……その……」
純は言いどもってしまった。なんと返すべきか。
「あー……」
「まあまあ」
返答に窮していると景一が入ってきた。
「言いにくかったんだろ? 別にいいじゃんか。責めんなよ」
景一は、純の気持ちの憶測を立てられたようだったが、まさにその通りである。
「責めてるわけじゃないけど……」
良智は言葉を弱くした。
「それに、言いたくなさそうなことを、他にも人がいる所で聞かない方がいいって」
景一の言葉は純にとってありがたいものだった。ちゃんと周囲を見ているし、頼りにできる印象通り、頼れる存在のようだ。
が、その好感は、次の言葉で崩れさることになった。
「聞くなら、部屋に戻ってからにしろよ」
そんなことを言ったのだ。
「え?」
純は耳を疑った。
「ん?」
それに、景一聞き返してくる。
「結局、話さなきゃなんないのか?」
景一の言い方だと、そういうことになる。
「だって、俺も気になるしな」
すましたものだった。景一は臆面もなく認めてしまった。
「…………」
それには、純の気も沈んでしまわずにはいられない。話したくないという思いだけが胸中を占める。
だが、好奇心だけからきている発言というわけでもないようだった。
「興だぞ。気にもなるだろ」
黙した純に景一が述べた訳は、別の者のことだったからだ。
興という言葉の裏には、親戚のことや不良のことなど、興の人間関係に関することが隠れているに違いない。そんな興と接触したとなれば無視もしにくいのだろう。でも、もしそうなら、気になるという単語の裏には、純への心配があればいいなと、純は思った。
数秒して、唸りながら時計に手を伸ばす。アラームを止め、そのまま時計を掴んで引き寄せると、純は身を起こした。首元辺りまで掛かっていた布団が背中から滑り落ちていく。
「おはよう、純」
まだ眠気のある頭で時刻を確認していると、挨拶をしてくる者がいた。
「おはよう」
すぐ近くから聞こえた声に顔を上げると、ベッド脇にいた声の主に純は挨拶を返した。
すでに制服に着替えている彼は、宮原良智という同室者である。短い黒髪をした、一年の頃の幼さをまだ残した生徒だ。
良智とはクラスも同じで、席も隣同士という奇遇である。
昨夜、純はあっさりとこの自室まで帰ることができた。
噴水にいた彼が去っていった方向へ取りあえず純も進んで行ったところ、直進していただけで林から出たのである。迷っていた純は、それに対して横に移動していたので、なかなか出られずにいただけだったのだ。
「起きたばかりだけど、食堂いかない? 俺、お腹空いちゃっててさ」
挨拶を交わした早々、良智は空腹を訴えてきた。
「別にいいよ」
本当は、起きたばかりで空腹感はなかったのだが、純は承諾した。今はまだ空いていなくても、朝食が出来上がるのを待っていればその間に空いてくるだろうと思ったからだ。
「それじゃあ、行こう」
了承が得られると、まるで楽しみにしていたとでもいうように良智は動き出した。なんとなく、以前から約束をしていた親に不安を持って確認をした子供が嬉しがるのに似ているかもしれない。
遅く寝た分、十五分だけだが遅く起きただけで、良智はこんな反応になるらしい。
でも、それだけ減っていたというなら、起きるのを待たずに先に行っていればよかったものを。転校してまだ日が浅いとはいえ、食堂の使い方ぐらいもう覚えている。
そう思いながらも、純はまあいいかという思いにも至っていた。
まあ、それはいいとして。
「あ、良智。着替えてないんだけど」
純は起きたばかりだ。普段着っぽい格好で寝てはいるが、家ではないのだから、さすがにこの格好で大勢がいる所に行くのは抵抗がある。
「じゃあ、早く着替えてよ」
振り返った良智はせかしてきた。なんだか不満そうな声色もあったように聞こえたが、それは決して自分のせいではないはずだ。
「…………」
それに、いくら起きたばかりの者に言ってくるほどだとしても、起きるまで待っていたのだから、もう少し待ってくれてもいいのではないか。そう思ったのだが、腹の鳴る音が聞こえてき、純はその思いは口にしないでおくことにした。
「なあ、良智」
着替えながら純は呼びかけた。
「三浦興って知ってる?」
尋ねたのは、昨夜、噴水の所であった生徒のことだ。
「知ってるよ。てか、同じクラス」
隣の自分のベッドに腰掛けて待っていた良智はそう答えてくれた。
互いに壁に寄せられたベッド同士の間それなりの広さがあるのだが、その幅がこの部屋の自由なスペースの半分だったりする。とはいっても、室内そのものは狭いと言えるほどではない。だが、狭くはないが広くもなく、ベッドが二つも入ってしまえば狭い。さらには、窓際に、壁を向いている机がベッドに並んで置いてある他、収納スペースに収まりきっていない各自の私物で、自由さは実際の部屋の半分くらいしかない。
「そうなのか?」
返ってきたことに、純は少し意外にさせられた。
同じ学年というのは手帳に記されていたので分かっていたが、まさか、クラスも同じだとは思ってもいなかった。
「まあ、今日でまだ三日目だしね。知らなくても仕方ないさ」
知らぬ理由を良智は理解してくれていた。たった二日間で三十人以上を覚えるのは、よほど人覚えが得意でないかぎり難しいことだ。ましてや、自分の紹介はあってもクラス全員の紹介があったわけではなく、全員と話したわけでもない。他にも覚えなければならないことも多く、それを覚えていく最中に話したクラスメイトの半分以上は忘れてしまっていたりする。覚えているのは、隣席で同室の良智と数人だけだ。
「でも、なんで?」
「生徒手帳、拾ったから」
「え? いつ?」
純の返答に良智は不思議そうにした。
それもそうだろう。この二日間、慣れない純のためにと、良智はずっと共にいたのだ。知らない出来事はないと言ってもよい。
「昨日の夜。林の中にある噴水の所で」
純は言った。寝た後のことなど良智が知らなくて当然だ。
「なんで夜なんかにそんなとこ行ってるのさ」
良智は不審げにした。
「なかなか眠れなくて。ちょっと、散歩に出たんだ」
「それで、あそこに着いて、拾ったわけ」
「ああ」
純は肯定した。そこまでに至る事実はもう少し長いが、さすがにそこまでは言いたくはない。
「んー、食堂で渡す? 教室で渡す?」
出来事を一言も言わなかったためか、良智もそれだけだと信じてくれたようだった。早くも返すための方法へと進めてくれる。
「早いうちがいいから、食堂にする」
返すだけだ。いや、謝りたいし、不可抗力であったことを早く伝えたい。それと、どう思っているのかも知りたい。
さすがに、転んでの事が故意的なものだと思っているはずがないだろうが、勘違いしてしまう者はしてしまう。
「分かった。じゃ、行こ」
決めると、良智は腰を上げた。その頃には純も着替え終わっていたからだ。
「ああ」
歩き出した良智に純も続いていく。
「興は、いつも俺たちより遅くくるから、今日は見つけやすいように入り口近くに座る?」
「そうする」
空いてればだけどと、短い廊下を歩みながら付け足された提案を純は受け入れた。俺たちとは、良智がいつも一緒に食事を取っている親友のことだ。
「それと、来たら教えてほしいんだけど」
「分かった」
見たけど、と続きそうになったのを飲み込んで頼むと、あっさりと了承が返ってくる。
噴水での出来事など恥ずかしくて言えないことだ。
生徒手帳を拾った。
あくまでも、それだけで済ませようと純は思っていた。でも、隠そうとするならば、良智もいないところでしないといけないだろう。
「それでさ、興なんだけど」
そんなことを思っているとも知らず、ドアを開けようとした手を止めた良智は、何かがあるような口振りで振り向いた。重要なことらしく、表情もいくぶん真剣みを持っている。
「なに?」
「話しかけてこなかったし、まだいいかなって思ってたんだけど……興は、校長と養護教諭の親戚なんだ」
「ってことは、接しにくい奴ってこと?」
良智の言わんとすることを純は予測した。
養護教諭はともかく、校長と血縁者とあっては無闇やたらな接し方はできないだろう。何で告げ口をされるか分かったもんじゃない。
けど、そういう意味ではなかった。
「そんなことないよ。みんなと変わらないし、俺たちとも仲が良かったからね。それにまず、興自体が校長のこと忘れてること多かったし」
「それはそれで校長が不憫だな」
校長ということで、学校内だけだろうが笠に着ることもできるのだ。なのに、それ以前に忘れられているとは。校長からすれば悲しいことだろう。良智も苦笑している。
「まあ、ほとんど接点がない人で、養護教諭に言われるまで気づかなかったらしいからね」
元から接点がないなら仕方がないかもしれない。
「それじゃあ、いいんじゃないのか? 何が駄目なんだ?」
興自身が皆と変わらないのなら、何も問題はないんじゃないのか。
「今のは情報。言っておいた方がいと思ってね」
それならば問題がない内容で当たり前だが、では、何が問題なのか。
「でね。興、不良に目、付けられててさ」
良智はじゃっかん声量を落とした。ドアはまだ開けておらず、聞かれる心配はないはずだが、それでも声を忍ばせてしまいたくなることらしい。真剣みを帯びた一番の理由はこれのためだったのかもしれない。
「特に、三年の横田って人のグループなんだけど……そのことで、興も周りと関わらなくなっててさ。だから、興と関わるなとは言わないけど、気をつけてね」
つまり、不良に気をつけろということだ。性質が悪い奴は一緒にいるだけでも絡んでくる。興に目を付けている不良もそんな奴らなのだろう。
「分かった」
純は頷いた。純とて厄介なこととは関わりたくない。
でも、目を付けられて他人と距離を置くなんて。普通は距離を置かれてしまうものだが、興という人物は、周りのことも考えているのだろうか。
「にしても、校長の親戚だってのに、よく絡んだよな」
それから、純はその不良らへの感想を述べた。いくら興が校長のことを忘れてたとしても、血縁者である分、意識のされ方は違うだろうし、下手をすれば退学にもなりかねなくなる。そんな危険があるというのに絡むなんて、なかなかに度胸がある。不良だからだろうか。
「よほど気に入らなかったみたいだよ」
だから、学校の代表者の親戚でも絡んだのか。それでも、やはり度胸があると思えてしまう。
「今でも絡んでるらしいからね」
「そんなに長く絡まれてるのか?」
いつから絡まれているかは知らないが、長期であることを感じさせる言い方に純は聞いた。
「まあ……一年の頃からだし」
「一年? 去年から絡まれてるのか?」
そんなに長いと、逆にそれ以外で接点があるんじゃないかと思えてもしまうのは自分だけだろうか。
「うん。去年よりは減ったけど、それでもなくなったわけじゃないから。気をつけてよ?」
「分かった」
減ったとしても、第三者にまで影響がくるほどなら当然、関わる気はしてこない。
二度目の忠告に、純は異論もなく頷いた。
□□□
純が転校してきた条蓮高校は、この地方では一つしかない全寮制の男子校だ。
全寮制のため、全生徒を収めなければならない寮はそれなりに大きい。
なんと、四階建てだ。生徒の部屋は二階から四階となっており、学年ごとに階で分けられている。
純たち二年は四階だ。卒業生が入っていた階が新入生の階となるので、今の二年の階は四階となったということである。
部屋割りは、同クラスの二人で割り当てられ、残った者は別のクラスの者と、それでも残った者は一人部屋となるらしい。他の学年と組まされることはないという。純の同室者の良智はそんな感じで残ったからではなく、元々いた同室者が転校していったために一人部屋となっていただけだという。もしそれがなければ、純が一人部屋となっていた。
そして一階には、食堂や風呂場など、共用で使う場所が集まっている。
着いた食堂に入ると、半分近くが埋まっていた。この二日間はもう少し早く、人もあまりいない時に来ていたのだが、遅く起きた分と話していた分の時間差は大きいようだ。
そんな食堂も、全寮制である分、席も全員分が用意されており、結構な広さがある。それでも、若者しかいないからか、半分くらいしかいなくとも結構な騒がしさがある。
「あ」
「良智」
入ったところで周囲を見回していた良智が発見する声を出すのと、良智を呼ぶ生徒がいたのはほぼ同時だった。
呼んだのは、出入り口近くの、それでも少し離れた席にいた一人の生徒である。
「遅かったな」
「起きるのが遅くなってさ」
「それと、興のこと話してたんだ」
探していた生徒でもある彼の所に歩んでいくと、先に声をかけてきた彼に純と良智は簡素に説明した。
「あいつな。ま、ほどほどにって感じだな」
「そうだね」
興の名が出たことに、彼も彼なりの意見を口にする。それに良智も同意を示す。
彼は、石井景一という。クラスは別だが、良智と部活が一緒で仲が良く、その関係で純も初日から仲良くなった生徒だ。
そんな景一は、髪を軽く茶に染めており、自分たちと変わらない話し方をしているのに落ち着いた雰囲気を持っている。純と同じく青年期を迎え初め、大人びを持ち始めているというのもあるかもしれないが、一番は、快活な性格のようである良智と比較ささっているからが大きいかもしれない。でもその分、頼りにできそうと思える雰囲気も強く出ている。
「興、来てる?」
「まだじゃないか?」
再び食堂内を見渡しながら尋ねる良智に、景一も見回しながら答えた。純も見回すが、らしき顔は見当たらない。というか、判断できない。
「そのうち来るだろ。まず、ご飯、頼んでこいよ」
「そうする」
どうやら、二人から見ても興は見当たらなかったらしい。ひとまずの自分たちの行動を促してくる景一に、良智は頷いた。
「行こ、純」
「ああ」
続いて良智にも促され、純は歩き出した。
食事は、厨房前のカウンターで頼むようになっている。といっても献立は決まっており、来たことを伝え、番号札を貰って待つ仕組みだ。給食とファーストフードが混ざったような感じである。
番号札と交換で朝食を生徒に渡す担当者に来たことを伝え、二人でまとめられた番号札を渡される。献立が決まっているわりにはカウンターから見える厨房内は忙しそうだった。やはり、人数が多いとそうなるのだろう。生徒はこれからも来るし、もっと忙しくなるに違いない。
目的の人物が来たのは、席へと戻る途中のことだった。
「純。来たよ」
いち早く気づいた良智が教えてくれる。
出入り口を見てみると、入ってきたところらしい二人の生徒が並んで歩いていた。一人は黒髪、もう一人は暗い茶髪だ。
だけれど、二人まで絞られているというのに、純はどちらであるか確信が持てなかった。一応の予測はつけられてはいるのだが、迷子に加えてのアクシデントの方が記憶に強く、相手の顔のことまでは全くといっていいほど残っていないのだ。写真も、まじまじと見るわけにはいかないだろうと思い、噴水で見たきりだ。
「どっち?」
「右にいる方」
聞いてみると、知らないことに疑問を持たれることなく教えてくれた。実物には会っていないことになっているので、特に疑いも持たれなかったようだ。
「分かった。行ってくる」
「俺は戻ってるからね」
さすがに手帳を返すだけのことに、良智は付いてこようとしなかった。付いてきたら断ろうと思っていたのだが、手間が省けた。
「分かった」
言葉だけで返すと、純は興の元へ足を向けた。
「興」
「ん?」
今日はどんな朝食か。そんな他愛ない話をしているところへ呼びかけると、良智が言った通り、右側にいた暗い茶髪の生徒が反応を示した。もう一人の黒髪の生徒は顔だけを向けてくる。
「ああ、お前」
こちらを認めると、彼は知っている者を見た反応を示した。彼は純のことを覚えていたらしい。まあ、クラスが同じだというし、さらには昨夜の出来事だ。印象深くはなっているだろう。
「わりぃけど、先に頼んでおいてくんないか?」
「分かった」
興が黒髪の生徒に言うと、事情を知っているのか、ただ単に聞き入れただけなのか。了承した連れは、それ以外は特に言葉もなく歩んでいった。頼んでいてとは朝食のことだろう。
「悪かったな」
それから、会話が聞こえないだろう程まで連れが離れると、興は謝ってきた。
「え?」
一瞬、なぜ謝られたのか純は分からなかった。けど、すぐに蹴られたことを思い出した。
「昨日、蹴っちまっただろ」
思った通り、謝罪の理由はその事だった。
「転んでああなったのは偶然だろ? なのに、蹴っちまったから。悪かったな」
「分かってくれてたならいいんだ」
純が一番気にしていたことだ。勘違いされていなくてよかった。気持ちがいっきに落ち着いていく。
「そっか」
一方の興も、良かったとでもいうようにかすかに頬を緩めた。彼も彼で気にしていたのかもしれない。
「言えてよかった。それじゃあな」
「あー、ちょっと待って」
歩き出した興に、純は少々、焦って止めた。興から謝ってきたことで一番の目的を果たせたが、二つ目の目的がまだ残っている。
「これ」
自分に背を向ける形になるくらいは進んだところで振り向いた興に、純は取り出した生徒手帳を差し出した。
「俺の?」
「うん」
「サンキュ」
手帳を受け取ると、純が持っている理由など気にもならないのか、軽く礼を言って興は再び歩き出した。
「ああ、ちょっと待っ、……!?」
それに、純は咄嗟に呼び止めようとした。
意味があったわけではない。すべての目的も達したし、止める理由はない。
しかし、呼ぶ意味がないことに気づいた時に、事は起こった。
呼び止めようと純も無意識のうちに足を一歩動かした瞬間、足の感覚がなくなったのだ。
それは、昨夜の噴水での時と同じ現象でもある。感覚がなくなった足は動かず、それに対して身を前に出していたことで純の体が傾ぐ。
「ん?」
その時には、呼び止められたと察した興が振り向いてもいる。
「!」
その彼に、倒れる純が迫る。そしてその時には、興にとってももう遅い。
興を巻き添えに、純は倒れてしまう。
だが、倒れてみると、下敷きにするほど興を巻き込んではいなかった。身を支えるように後ろに手を突いているだけで、興の上体は起きたままだ。純はその下ーー足の方を下敷きにしてしまっただけだったのだ。
しかしである。その顔のある位置は――
「ごめん!」
気づいた瞬間、純は勢いよく顔を、身を起こした。
その目に入ったのは、興の半眼である。自ら気づいたとはいえ、それが間違いのない事実として伝えている。
またしてもやってしまった。それも、二日続けて。
純は、興の股間に顔を埋めてしまったのだ。
「分かってる。これも不可抗力なんだろ?」
興の言葉は、半眼になったわりには静かなものだった。その反面、周りで動揺めいたざわつきが起きているのはどうしてか。
「もちろん!」
純は力強く肯定した。
「そうか。なら、早くどけろ」
「え? あ、ごめん」
言われ、純は気づいた。身を起こしたとはいえ、興の足はまだ純の下にあったままだったのだ。
よけながら立ち上がった純に続いて興は立ち上がると、それ以降は何もなく、無言で去って行ってしまう。
「…………」
怒った、のだろうか。けど、言動にその素振りはない。呆れたのか。よく分からないが、昨夜の反応も大きかったことから、彼にとっては強く意識させられてしまうことなのかもしれない。
「純!」
そこへ、焦り気味の声が耳に入った。顔を巡らすと、良智と景一が駆け寄ってきたところだった。
「大丈夫? 純」
「ああ。ちょっと転んじゃった」
「見てたから分かるって」
「また何もない所で転んだよね」
「まあ……ちょっと……」
実は、純は片足に後遺症を持っている。それが転ぶ原因になっているのだ。
だけど、二人にはそのことは言っていない。なので、転んだ原因も分からないことだ。
けど、言うつもりはないし、知られる気もない。純にとっては他人に言いたくないことだからだ。
「でも、何もされなくてよかったな」
「昨日は蹴られたけどな」
「は?」
「え?」
なぜ、不審そうな反応をするのか。疑問に思ったのは本当にの僅かのことだ。立て続けに聞き返した純は焦ることになった。
「……いや! 今のは、その! なし!」
今のは完全に失言だ。
「純?」
しかし、口ごもることもなく、声量が弱まることすらもなくさらりと出てしまったため、二人にはしっかり聞こえてしまっている。
「昨日ってなに? もしかして会ってるの?」
険を含んだとまではいかないが、良智の口調は少しきつくなっていた。
手帳を拾ったことだけで済ませようとしていたことは、良智からすれば嘘をつかれていたことにもなるのだ。
「いや……その……」
純は言いどもってしまった。なんと返すべきか。
「あー……」
「まあまあ」
返答に窮していると景一が入ってきた。
「言いにくかったんだろ? 別にいいじゃんか。責めんなよ」
景一は、純の気持ちの憶測を立てられたようだったが、まさにその通りである。
「責めてるわけじゃないけど……」
良智は言葉を弱くした。
「それに、言いたくなさそうなことを、他にも人がいる所で聞かない方がいいって」
景一の言葉は純にとってありがたいものだった。ちゃんと周囲を見ているし、頼りにできる印象通り、頼れる存在のようだ。
が、その好感は、次の言葉で崩れさることになった。
「聞くなら、部屋に戻ってからにしろよ」
そんなことを言ったのだ。
「え?」
純は耳を疑った。
「ん?」
それに、景一聞き返してくる。
「結局、話さなきゃなんないのか?」
景一の言い方だと、そういうことになる。
「だって、俺も気になるしな」
すましたものだった。景一は臆面もなく認めてしまった。
「…………」
それには、純の気も沈んでしまわずにはいられない。話したくないという思いだけが胸中を占める。
だが、好奇心だけからきている発言というわけでもないようだった。
「興だぞ。気にもなるだろ」
黙した純に景一が述べた訳は、別の者のことだったからだ。
興という言葉の裏には、親戚のことや不良のことなど、興の人間関係に関することが隠れているに違いない。そんな興と接触したとなれば無視もしにくいのだろう。でも、もしそうなら、気になるという単語の裏には、純への心配があればいいなと、純は思った。
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