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第三章 ハンターの眼差し

若い焦燥

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 三人だけになってしまった「直轄ジマ」で、片桐はまだ減らず口を叩いていた。

「何だよ『子供が生まれたら』って。まだ結婚するかどうかも決まってないっての!」

 今年二九になる片桐には、将来を意識して付き合う女性がいるらしかった。

「分かんないよ。順番逆になっちゃうパターンも、世の中結構あるからねえ」

 宮崎はいささか下品な笑い声を立てた。しかし、相槌を打つべきか困っている美紗が視野に入り、慌てて話題を変えた。

「ここも悪くないと思うけどなあ。僕はね、ここでしっかり経験積んで、将来は、情報政策の第一人者として、防衛省に君臨するか政権内部に入り込むつもりですよ」

 銀縁眼鏡のレンズを光らせた宮崎は、不敵な笑みを浮かべた。ふざけているつもりのようだったが、口の悪い比留川にも一目置かれている内局部員の発言は、単なる冗談には聞こえなかった。
 対照的に、彼より五歳ほど若い片桐は、全く覇気のない顔で、机に頬杖をついた。

「自分の夢に届く能力に恵まれた人がうらやましいですよ。富澤3佐だって、CGSシージーエス(陸自の指揮幕僚課程)一発合格でしょう? 僕なんて、正直言って、試験受けるかいまだに悩んでるんですよ。去年までは興味なかったし。将来何したいとかも分からないし、出来ることも少なそうだし。もう焦るばっかで……」

 思春期の高校生のような発言を、美紗は眩しそうに聞いた。将来に漠然とした不安と苛立ちを抱きながら過ごした日々が、自分にもあった。
 元々おっとりした性格の美紗は、いずれ行きたい道が見えてくるだろうとのん気に構えていたが、父親の失職が、生活のすべてを変えた。今は、立ち止まれば、その時点ですべてが終わる。


「迷ってるなら、語学の勉強でもしたら? それなりのスコア出さないと、選抜試験を受けられないんでしょ? 受験しなくても役に立つのは間違いないし。いい語学教材教えるからさ」
「宮崎さんのはレベル高すぎて、僕には使えないですよ」

 宮崎は、小中学時代の九年間を海外で過ごし、キャリアとして防衛省に入った後も、国費で欧州の大学院に留学し、そこで修士号を取得していた。まさに、片桐がうらやむ経歴の持ち主だ。

「どうせCS(空自の指揮幕僚課程)に入る奴らなんて、宮崎さんや富澤3佐みたいに何でもそろってる人たちばっかですよ。僕なんか、もし受かっても、後で絶対一人だけ苦労するんだから。英語もイマイチ出来ないし」

 片桐は、広い部屋全体に聞こえそうな大仰なため息をついた。宮崎は、美紗に向かって大げさに顔をしかめた。これ以上フォローしきれないと言いたげだ。
 美紗は、すっかりふてくされた1等空尉に、遠慮がちに話しかけた。

「片桐1尉、私も海外経験ないんですよ。留学も全然」
「えっ、そうなんだ?」

 宮崎と片桐が同時に反応した。

「大学に行っていた時は、家の事情で、途中から学費も何もほとんど自分で工面しなくてはならなくなって、結局、海外で勉強する機会はないまま終わっちゃいました。だから、年単位で留学した友達とは大きく差がついてしまいましたし、経験がないせいでチャンスが来ないというのも、私、分かります。自分のやれる範囲でやっていくしかないですけど……、もどかしいですよね」

 留学経験がない、という事実は、曲がりなりにも語学系の職に就く美紗にとっては、ずっとコンプレックスだった。今まであまり話したくないと思っていた過去を、なぜこの場で口にしているのか、自分でも不思議だった。

「ここでは、私は、相当、出来の悪いほうだと思うんです。情報局に来られて嬉しいのは間違いないんですけど、本当にここにいていいのかって、毎日考えてしまって……」
「語学だけ出来りゃいいってもんでもないよ。取りあえず、うちのチームに入ったのは正解じゃない? 調整業務も地域担当のほうの仕事も、広く浅く経験できるから、将来の選択肢が増えるわけだし。ラッキーって思っときなよ」

 宮崎は、銀縁眼鏡を外すと、意外にも人懐っこい目で美紗に笑いかけた。
 一方、一人で文句を並べ立てていた片桐の口は、急に悲しそうなへの字になった。

「すいません。僕、ずっと鈴置さんにいろいろ失礼なこと言ってたよね」

 片桐は、大きな音を立てて机の両端に手をつくと、驚いて目を見開いた美紗に、額をこすりつけんばかりに頭を下げた。

「僕が悪かったです。これから心を入れ替えて精進します」
「エリート君の富澤3佐の檄より心に響いちゃったよねえ」

 宮崎がニヤニヤしながら茶化すと、片桐は真面目な顔で付け加えた。

「四回で合格できるように頑張りますから」
「…って、CSって、四回までしか受けられないんじゃなかった?」

 未来の高級官僚が呆れて声を上げると、直轄ジマの近くに位置する総務課から、忍び笑いが聞こえてきた。



 若手しかいない『直轄ジマ』がやっと静かに仕事を再開してしばらくすると、班長の比留川が額に汗を浮かべて戻ってきた。

「鈴置。今日の午後、特に急ぎの案件抱えてないよな。今やってる情報交換会議なんだが、一時半から始まるセッションだけ、あんた入ってくれるか?」



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