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第二章 ホーセズネックの導き
第1部長の提案
しおりを挟む「私が拝見していいのですか?」
統合情報局より下位の組織に所属する美紗が持つセキュリティ・クリアランス(秘密情報取扱資格)では、原則的に『秘』指定の文書にはアクセスできないことになっていた。
「取りあえず問題になりそうなところは消してあるから、大丈夫だ」
確かに、文書の一部が事前に塗りつぶされた状態で印刷されている。美紗はやや緊張した面持ちでそれを読み始めた。
第1部長は、その様子を横目に見ながら、片桐が美紗に「部員の宮崎さん」と紹介した不在者の席に座った。直轄チームの面々は、上官に土産の菓子をすすめつつ、自分たちも再び饅頭を食べ始めた。
しばらくして美紗が顔を上げると、直轄ジマの一同は一斉に注目した。美紗はしどろもどろになりながら、自分の思うところを話した。
「背景事情の解説内容が、最後の『分析』の部分にほとんど反映されていないように感じます。所見のところで、前半の説明と一致しない箇所もあるので、結論が矛盾しているように見えるというか……」
第1部長が栗毛色の髪をかき上げて苦笑を漏らすと同時に、片桐を除くチームの面々がクスクスと笑い出した。
「それ、僕の書いたやつ……!」
片桐が立ち上がって美紗から書類を奪い取った。
「そうだ」
美紗からむくれ顔の片桐に視線を移した第1部長は、急に厳しい顔になった。
「前にも言っただろ。分析と結論を主観で書くな。肝心なところに自分の感想を書いてどうする。素人さんにも一目瞭然の駄文だぞ」
片桐の向かいに座る富澤が、太い一文字形の眉をひそめ、ぼそぼそと美紗に耳打ちした。
「片桐1尉ね、今度、CS(空自の指揮幕僚課程)受ける予定なんだ。論述試験に備えて、空同士のよしみで日垣1佐が仕事と指導を兼ねていろいろ彼に書かせてるんだけど、今のところ、あんまり指導の甲斐がないみたいで」
美紗は、悪いことを言ってしまったと困惑顔になった。
「そうだ、片桐。お前、彼女に文書指導してもらったらどうだ。飲み込みの悪い奴を手とり足とり指導するほど1部長は暇じゃないからな」
比留川の痛烈な嫌味に、「直轄ジマ」の一同はゲラゲラと笑った。美紗は一人、冷や汗をかきながら、気の毒そうに片桐のほうをちらりと見た。しかし、当人は全く気にしていない様子で、「是非! お願いしまあす!」と、大仰に頭を下げた。
直轄チームの面々が爆笑すると、少し離れた所に位置する会計課のほうから怒鳴り声が聞こえてきた。
「直轄ジマ! さっきからうるさい!」
第1部長は、美紗と先任の松永3等陸佐を部長室に招き入れた。大きな執務机の前にあるソファをすすめられた美紗は、松永に促されて、奥の側にちょこんと座った。
高級幹部の個室に入るのも、1佐の階級を付けた人間と差し向かいで話すのも、初めてだ。元からの童顔が露骨に不安そうな表情を浮かべ、いよいよ頼りなさそうになった。
「自己紹介がまだだったね。統合情報局第1部長の日垣貴仁です」
日垣は、耳に心地よい低い声で名乗ると、美紗の真向いに座った。斜めに流した前髪が、端正な顔立ちに優しげな印象を与えている。
美紗は、厳めしい役職名から想像するイメージとはあまりにかけ離れた雰囲気の相手にしばし戸惑い、それから慌てて挨拶を返した。
「鈴置美紗と申します。あの……いつも、お騒がせしてます」
緊張しすぎて「お世話になっております」と言うべきところを間違えた。隣に座っていた松永がイガグリ頭を掻いて苦笑いしたが、日垣は気に留めず本題に入った。
「これはあくまで『打診』と受け取ってくれていいのだけど、うちでやってみようという気はないかな」
美紗は驚いて、物静かな顔立ちの第1部長を見つめた。
「本当は、地域担当部で専門性をじっくり高めるほうがいいんだろうが、鈴置さんは……英語以外の語学は経験なしだったね」
日垣は、美紗の人事情報が書かれているらしい紙を見ながら話した。
「技術関係のところは経験の浅い事務官にはとっつきにくいし、地域担当部所属の英語専門職は、英語圏に在住経験のある者が優先的に配置されているから、ちょっと厳しいな。鈴置さんは、留学も特にしていないようだね」
「行きたかったんですが……」
美紗は、沈んだ声で、学生時代に叶わなかった夢を話した。
大学に入学後、すぐに一年間の海外留学を希望して勉強を始めたが、二年時になって父親が失職した。退学の憂き目には合わずにすんだが、それ以後は、卒業までの学費と生活費を奨学金とアルバイトで捻出しなければならなくなり、留学どころではなくなってしまった。
自分の落ち度ではない要因でチャンスを逸したことが、後々のキャリアに不利に影響していく。景気の安定しない世の中で、美紗のような不運な若者は珍しい存在ではなかった。
「情報局にいれば、研修の枠組みで海外留学か海外勤務のチャンスもある。キャリアパスの一環として、成績優秀な職員を、海外の軍事関係の教育機関や我が国の在外公館に派遣する制度があるんだ。君が希望する留学とはちょっと違うかもしれないが……興味はある?」
美紗は目を輝かせた。隣に座る松永がつられて嬉しそうな顔になるのをちらりと見た日垣は、急に柔和な笑顔を消し、
「もちろん、上司の推薦を受けられるだけの結果を出すのが先だ」
と、厳しい口調で付け加えた。
切れ長の目で見据えられ、美紗は心細そうにまた下を向いた。松永が慌てて美紗を励ました。
「大丈夫だ。あなたは筋は悪くなさそうだし、仕事のやり方はきちんと指導するから」
美紗はわずかに涙目になりながら、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「では決まりだ。明日から鈴置さんには私の直轄チームに入ってもらう。人事的な話はこちらで処理しておくから、彼女が仕事に慣れるまでは、松永3佐、サポートよろしく頼むよ」
「自分がですか?」
「鈴置さんを指導するって、さっき言っただろう」
イガグリ頭の3等陸佐は、はあ、と間の抜けた返事をした。将来の航空幕僚長と噂されるこの第1部長が若手に急に手厳しい発言をする時は、必ず何か魂胆があることを思い出した。
今回はこの若い女性職員の面倒を見ると自分に言わせたかったらしい、と気が付いたが、もう手遅れのようだった。
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