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第七章 アイスブレーカーの想い

暮れゆく日(1)

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 あの人が来ていた。聖夜の夜に、「いつもの店」に……。


 それが何を意味するのか分からないまま、仕事納めの日を迎えた。

 統合情報局第1部のフロアは、普段より人が少なく、静かだった。夏季休暇の時と同様、常に一定数以上の人員を確保するために、年末年始を挟んだ一か月の間に職員が交代で休みを取っているからだ。
 直轄チームでは、班長の松永とチーム最古参の高峰が、一足先に休暇に入っていた。

 一年で最後の業務日には、事務所内で納会が行われるのが慣例だった。緊急の事案が無ければ、昼前には部署ごとに簡単な酒の席が準備され、職員同士が一年の労をねぎらい合う。
 第1部のフロアでも、十一時半を回った頃から、缶ビールを開ける音が聞こえ始めた。

「日垣1佐、まだ戻って来ないっすねえ」

 七つの机の上に並んだ缶ビールとツマミを見ながら、片桐が恨めしそうな声を出した。

「そういえば、ずっといないなあ」
「(統合情報)局長の所に行ってくる、っておっしゃってたと思うんですけど……」

 顔を見合わせる美紗と小坂の横で、内局部員の宮崎はやれやれという様子で肩をすくめた。

「それじゃ、局長のトコで間違いなく捕まってる。あの人、酒好きの話好きだから。副局長も交じって三人でもう飲んでんのかも」
「我々もそろそろ始めましょうか。待ってると、うちの部長はかえって気にするタイプですからね」

 先任の佐伯の「英断」に、小坂と片桐は大人げない歓声を上げた。五人で使い捨てのコップにビールを注ぎ合い、乾杯の態勢を取る。

「じゃ、班長いないので、私が一言だけ」

「手短にお願いします」
「すでに無礼講モードっすね。小坂3佐」
「あら、無礼と無礼講は意味が違うのよ」

 茶々を入れ合う部下たちに、佐伯は咳払いをひとつすると、ただでさえひょろ長い体をピシリと伸ばした。

「この一年、皆、ご苦労さまでした。特に、夏には某大国の案件で大変な目に遭いましたが、一人一人の頑張りと最高のチームワークで無事に修羅場を乗り越えられ、班長の松永2佐も私も、大変誇りに思い深く感謝するところです。また、今年は我らが片桐1尉のCSシーエス(空の指揮幕僚課程)合格というめでたい出来事もありました。彼の快挙と、我々の絆に乾杯!」
「乾杯!」

 五人が唱和すると、「直轄ジマ」からほど近い総務課からも祝いの言葉が飛んできた。
 すでに結構アルコールが入っているらしい大声に、片桐は心底嬉しそうに何度も頭を下げた。そして、コップの中身を一気に空にすると、「差し入れがあるんすけど」と言って、机の下から弁当包みのようなものを出した。派手な花柄の包みの中には、大きめのタッパーが入っていた。

「何それ」
「カノジョに持たされたんす。今日納会があるって言ったら、CS受験でいろいろお世話になった皆さんに食べてもらってくれって……」
「ずいぶん気配りのカノジョさんだねえ」

 佐伯と宮崎が感嘆しきりという顔で頷き合う傍で、小坂は好奇心旺盛な子供のように目を輝かせた。

「片桐のカノジョの手作り料理? オレもゴチになっていいの?」
「ぜひ食ってやってください。あ、ちょっと温めてきますんで」

 片桐はタッパーを手に、総務課の近くに置いてある電子レンジの所へ行った。しばらくすると、総務課が何やら騒ぎ出した。しかし、片桐はまるで相手にせず、熱くなったタッパーを持って戻ってきた。

「カノジョの手料理っつったら、どこ行っても冷やかされるよなあ」
「いえいえいえ、さ、どうぞ」
「では、ありがたく!」

 「直轄ジマ」の真ん中に置かれたタッパーの蓋が開けられると、紙皿と割り箸を持った小坂が、それに飛びつかんばかりに身体を伸ばした。そして、数秒間その姿勢で停止した後、滑稽な渋面をゆっくりと片桐に向けた。

「何、このニオイ……。これ食いもん?」
「焼きそばっすよ、タイ風の。ヒトのカノジョの得意料理に文句つけないでもらえます?」
「得意料理? マジですごいニオイなんだけど!」
「これ、ナンプラーだよ。タイ料理には必須の調味料。魚醤みたいなもん」

 宮崎が銀縁眼鏡の下で鼻を動かした。

「片桐1尉のカノジョって、タイ人?」
「違いますよ。ただ、タイ料理にハマってるだけです。クリスマスの時もタイ飯食いに行きましたから」
「そりゃ相当気合い入ってるね」

 宮崎は、湯気とともに立ち上る生臭い香りに構わず、大ぶりのエビが見え隠れする麺の山に箸を伸ばし、大きくひとすくいした。

「うん。美味い。本格的な甘辛酸っぱさでいいね」
「甘辛酸っぱい……って、どんな味なんですか?」
「鈴置さん、タイ料理食べたことない? 百聞は一口にしかず。お試しあれ」

 宮崎に促され、美紗も片桐の持参したものに手を出した。初めて口にしたエスニック料理は、鋭くも深い味わいだった。唐辛子の味が強いのに、なぜかコクを感じさせる。鼻にツンとくるハーブの香りは癖が強く、いかにもエキゾチックだ。

「とても刺激的ですけど、美味しいですね」
「でしょお!」

 片桐が目を細めて嬉しそうに笑う。それを、小坂と佐伯が揃って怪訝そうに見た。

「まあ、女の人は結構タイ飯好きだって聞くけど……。宮崎さんがこのニオイに抵抗ないのは、やっぱりそのケがあるから?」
「さあ、どうかしらねえ?」

 宮崎は、奇妙な目つきで小坂を見やりつつ、再びナンプラーの香る米粉の麺を紙皿に取った。

「確かに、男でタイ料理が好きってのは、あまり聞かない感じするね。片桐1尉は、ナンプラーとかパクチーとか平気なんだ?」
「はあ、もう慣れました」

 苦笑いを浮かべる片桐に、小坂はますます顔色を変えた。

「大丈夫なんか? 結婚したら、二日に一回はこういう類の晩飯になるんじゃね? 『味覚の不一致』って結構キツそ……」
「前もって分かっていれば、問題ないでしょう。……きっと」

 佐伯が頼りないフォローを入れる。

「少なくとも事前の覚悟はできる」
「じゃ、オレ、大須賀さんの得意料理を先に聞いとこうかなあ」
「そういう発想にいくか……」
「もし『得意料理はチョコケーキ』だったら、どうします?」
「うはあ、その可能性は否定できないな。あのボディだし……」

 頭を抱える小坂と、その彼をさらにからかう面々を見ながら、美紗はふと、自分には得意料理と呼べるものが何もないことに気付いた。

 母親は教育には熱心だったが、家事一般のことを積極的に娘に教えようとはしなかった。二人で台所に並ぶことさえなかった。
 今思えば、家の中で生きる人生を強いられた母親にとっては、創作的な活動であるはずの料理も、決して世間に認められることのない屈辱的な労苦でしかなかったのかもしれない。

 美紗がそんなことをぼんやりと考えていると、第1部の入り口を開錠する電子音が聞こえた。
 内開きの扉が開くと、日垣が顔を覗かせ、途端に不快そうに眉をひそめた。

「あ、すいません。先に始めてしまいました」
「それは全然構わないんだが……、すごい匂いだな。何を食べてるんだ」
「片桐のカノジョの手料理です。来年、嫁さんになるそうで」
「……」

 普段は冷静沈着な1等空佐がリアクションに困る様子に、場にいる面々は遠慮なく爆笑した。


 日垣は、直轄チームを皮切りに各課を回って職員たちと一通り歓談すると、総務課長と共に、一階下にある地域担当部のフロアへと行ってしまった。情報局内の各部長たちと年末の挨拶を交わした後は、内部部局や航空幕僚監部を回るのだろう。

 第1部の長が納会の場を離れると、それが一応のお開きの合図となった。一時間もしないうちに無人となる課がある一方、酒好きな者が長を務める部署では夕方近くまで職員が集う。
 直轄チームのメンバーは、しばらくの間、騒がしく世間話をした後、それぞれが所掌する地域担当部に顔を出しつつ、適宜解散することになった。

 美紗が担当先の第5部に行くと、いつもの倍近い人数がひしめき合っていた。普段は秘区分のより高い建物の中で働く画像課と電波課の関係者たちが、納会のために出向いて来ていた。
 賑々しい会話が飛び交う中、顔見知りの職員が美紗の姿に気付き、すぐに談笑の輪の中に招き入れてくれた。

 第5部で地域情勢の分析業務を担う専門官やその卵である若手職員の中には、学生時代の留学や在外公館勤務などで、己が担当する国や地域で実際に生活した経験を持つ者も多かった。
 酒の席で、国際色豊かな思い出話が惜しみなく披露される。美紗にとってはそのひとつひとつが純粋に面白かった。語るべき経験を何も持たない自分が、仕事仲間として受け入れられていることに、居心地の良さも感じていた。


 第5部では、部長を始め職員の多くが宴会好きだったのか、結局、納会は夕方まで続いた。
 後片付けまで付き合った美紗が第1部のフロアに戻ると、すでに日が暮れかかっていた。第1部所属の職員は皆帰ってしまったらしく、灯りは全て消されていた。

 美紗は、薄暗い部屋の中に入り、自分の席に座り込んだ。ついさっきまでの高揚にも似た感覚が、無音の空間にすうっと吸収されていった。

 年内に日垣と顔を合わせるのはこの日が最後だったが、当の彼とはほとんど話せなかった。もっとも、そんな時間があったとして、人目のあるところで彼の真意を聞くわけにもいかない。


 なぜ、二十四日にあの店に来ていたの?
 その日、あなたは、誰を、想っていたの?


 淡い期待が、泡のようにふわりと浮いて、消える。


 
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