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第七章 アイスブレーカーの想い
アイスブレーカーの想い(1)
しおりを挟む客が多くなってきたのか、バーの中はいつしか、静かにアルコールを味わう人々のさざめきに満たされていた。聞き取れない程度の話し声が、シェーカーを振る軽快な音と混ざり合い、穏やかな旋律が漂うほの暗い空間へと溶け込んでいく。
「貴女は、奪ったわけじゃない」
バーテンダーは、耳に心地よい低い声で、ひとり静かに語った。
「貴女は、日垣さんの大切なものを、もしかしたら日垣さん以上に、守ろうとしたんです。……でも、守るのは奪うよりよほど辛いでしょう。傍にいて欲しいと思いながら、そう言えないことも多かったのではないですか。休日に二人で外を歩くこともできず、彼の誕生日を共に祝うことすらできない……」
美紗は、膝の上で両手を握りしめ、小さく頷いた。限界まで心の奥底に抑えつけてきた想いを、自分より年下だと言う彼はなぜ、こうも容易に察するのだろう。
目に涙を溜めたまま、美紗は征のほうを見上げた。そして、驚愕と恐怖に息を詰まらせた。
「……どうしました?」
ゆったりと話す彼の顔には、間違いなく、三十過ぎといった風情の男の落ち着いた笑みが浮かんでいた。くせのあるこげ茶色の前髪の下で、藍色の瞳が悲しげに美紗を見つめていた。
「篠野さん、じゃない……? でも、そんな……」
目の前に座るモノトーンの制服姿を呆然と見ながら、美紗は藍色の目をしたもう一人のバーテンダーのことを思い出していた。
一年半ほど前の夏の夜、あのバーテンダーは、青と紺の合間のような色をした特別なブルーラグーンを作ってくれた。美紗に「濃い青のほうが似合う」と言っていた彼の没個性的な顔は、はっきりとは覚えていないが……。
「あの時の、バーテンダーさん、なんですか? でも、篠野さんは……?」
「僕が篠野ですが」
無機質に聞こえた言葉は、征の声でありながら、まるで別人のようだった。丁寧ながら温かみのない口調は、まさに、一年半前に一度だけ見たあのバーテンダーを彷彿とさせた。
無表情な藍色の目をしていた彼の言葉が、ふと思い浮かぶ。
『……貴女自身、何を望まなければ、最後までお二人の時間を大切にできるのか、もうすでに、ご存じなのでしょう?』
「何を望んではいけないのか、分かっていました。でも、日垣さんがどこまで許してくれるのか、それしか、考えられなくて……」
美紗は両手で顔を覆った。
篠野征を名乗るバーテンダーに、記憶の中のバーテンダーの姿が重なる。二人分の藍色の目が、責め立てるように見つめてくる。
望んではならないものは、共通の未来。
望んではならぬものさえ望まなければ、誰も悲しませずに済むと思っていた。あの人が許す範囲のものを望んでいれば、限りある時間を大切に過ごせると思っていた。
できることなら、どこまでも、許してほしいと願いながら……。
「許す? 日垣さんのほうが許すのですか?」
わずかに首をかしげる藍色の目のバーテンダーに、美紗はうなだれるように頷いた。
二人で会い続けることを
腕の中に私を抱くことを
共に夜を過ごすことを
あの人は、許してくれた――。
「でも、誕生日に貴女が傍にいることを、許さなかった」
「それで、いいんです」
美紗は目の縁に溢れる涙を何度もぬぐった。
バーテンダーは、「そうですか……」と呟くと、目を閉じて椅子の背に身を預けた。黒いベストに付けられた金色の名札が照明の光を鋭く反射し、一瞬だけ「SASANO」と書かれた黒い文字がくっきりと浮かび上がった。
美紗は思わず「あ」と声を上げた。
「やっぱり、篠野さん、ですよね。すみません。私、今、変なこと言って……」
「そんなことありませんよ」
征は柔らかい笑顔を向けた。しかし、それはやはり、少年の域を出たばかりの初々しい笑みとは違っていた。
つい先ほどまで見せていたはずの子供っぽい丸い目は、夜景を映す窓ガラスの中に見た幻影だったのか。自分より年下だと言っていた彼の人懐っこい言葉遣いは、静かな音楽の中に紛れた幻聴だったのか……。
「鈴置さんのお誕生日の時は、どうしていたんですか?」
美紗は、ドキリとして胸元を押さえた。問いかけてくる藍色の目は、ひどく優しげだった。
「日垣さん、お祝いしてくれたのでしょう?」
「……一昨年の誕生日に、誕生石のついたアクセサリーをくれました」
一瞬だけ「去年はどうしたの」と言いたげな顔をした征は、それでも、淀みなく言葉を継いだ。
「鈴置さん、何月生まれなんですか?」
「十一月です」
「では、トパーズを?」
「日垣さんは、そう言ってたんですけど、でも、色が、違うんです。黄色じゃなくて、オレンジとピンクが混ざったような……」
美紗は、白いブラウスの襟の下に指を入れると、中に隠れていたネックレスのチェーンをゆっくりと引き出した。続いて現れた雫型の石は、ペンダントライトの灯りの下で、オレンジ色にもピンク色にも見える柔らかな光を放った。
「この色合いは、おそらくインペリアル・トパーズの一種ですね」
和名で「黄玉」と呼ばれるトパーズは、黄褐色の宝石、というイメージが強い。しかし実のところ、この名を持つ石の色は無色透明から赤、黄、青と非常にバリエーションに富んでいて、中には人工的処理によって色が付けられている石もある。
当然ながら天然物のほうがより高く評価され、中でも、「インペリアル・トパーズ」と呼ばれる種類のものは、屈折率が高く色みや輝きに優れるがゆえに、より高い値が付けられる――。
そんなことを語りながら、征は、美紗の手の平に載せられた石を、眩しそうに見つめた。
「日垣さんは、お店の人に選んでもらったって、言ってました」
「じゃあ、宝石屋の言いなりに買わされてしまったのかもしれないですね」
「えっ……」
「大丈夫ですよ。売る方は、ちゃんと客の懐具合を見抜いた上で勧めてきますから」
藍色の目がいたずらっぽく細まる。つられて美紗が口元を緩めると、征は安堵したような笑みを浮かべた。
「トパーズにいろいろ種類があるなんて、知りませんでした。篠野さんは、宝石にも詳しいんですね」
「いえ、そちらは全く。最高級のトパーズはシェリー酒と同じ色だと聞いたことがあって、それで、アルコールつながりでちょっと調べたことがあるんです。人の手を加えて石の色を自在に変えられる、というところも、なんだかカクテルに似ていて面白いなと思いまして」
「カクテルの色は思い通りに出せるものなんですか?」
「では、鈴置さんの石と同じ色をしたカクテルを、作ってみましょうか。それなら飲めるでしょう」
美紗の返事を待たずに立ち上がった征は、ベテランの風格を漂わせながら、ほぼ席の埋まったカウンターのほうへと歩いていった。
テーブル席に一人残された美紗は、窓ガラスに映る自分の姿を見た。
手を首の後ろに回し、アジャスターを調整してネックレスのチェーンを短くする。常に一番上まできっちり留めていたブラウスのボタンをひとつ開けると、ピンクとオレンジの二色に輝く誕生石が、襟元からちらりと見える位置に収まった。
このトパーズは、私と同じ
人の目を避けるようにブラウスの下に隠れていた石は、あの人を好きになった日から今日までの自分の姿だった。それで構わないと思ってきた。
でも、この石は、本当は、日の光の中で輝きたかったのかもしれない。
もしかしたら自分自身も、あの人と一緒に日の当たるところを歩きたいと、心の片隅でほんの少しだけ、望んでいたのかもしれない……。
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