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第六章 ブルーラグーンの資格

青の幻想(1)

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「今回の一件で、八嶋さんが自分自身の問題に気づいてくれればいいが、どうだろうね」

 日垣は水割りを飲み干すと、再び和やかな表情に戻った。この「隠れ家」にいる時にしか見せない笑顔が、美紗の胸によぎる漠然とした不安感を、霧散させていった。

 ふと、テーブルに置かれたタンブラー型のウイスキーグラスに目が留まった。下半分に流れるようなカットが入ったそれに、キャンドルホルダーの光が当たり、氷だけになった中身がきらきらと輝いている。

「あの、お飲み物、同じものにされますか?」

 言いながら、美紗はテーブルの端にあったアルコールのメニューに手を伸ばした。

「そうだな。次は、君のイメージのお酒を飲んでみようか」
「私の?」
「青い色の……。ブルーラグーン、というんだったね」

 日垣は、恥ずかしそうに頷く美紗にわずかに微笑み、それから、カウンターのほうに顔を向けた。程なくして、マスターが衝立から顔を覗かせた。

「ブルーラグーンを。君は?」
「私はまだ……」

 カクテルグラスの中には、マティーニがまだ三分の一ほど残っていた。

「定番のものになさいますか。それとも……」

 マスターが、ちらりと美紗のほうを見やる。美紗は、ますます縮こまりながら、日垣が「鈴置美紗さんのイメージのものを」と応えるのを、聞いた。


 しばらくして、水の入った小さめのタンブラーが美紗の前に、そして、日垣の前には、青と紺の間のような色合いのカクテルが置かれた。
 細身のグラスの中で、ソーダの泡が恥ずかしそうに揺れ動く。それを、日垣は愛おしげに眺めた。

「あ、あの、普通のブルーラグーンは、もっと水色に近いんだそうです。でも、私には濃い青のほうが合う、ってバーテンダーさんが……」

 問われてもいないのに、美紗は、特別に深い青い色のことをしどろもどろに説明した。切れ長の目が見つめる先は自分をイメージして作られたカクテルのほうだと分かっているのに、まるで自分自身が彼の視線に囚われているような気がした。

「確かに、『礁湖ラグーン』にしては青が少し深いかな。心静まるような色だ……」

 そう言って、日垣は静かにブルーラグーンに口を付けた。

「少し、甘いね」
「オレンジのリキュールが入っているって聞きました。あ、どんな味なのか、先に言えばよかったですね」
「いや、この優しい色と味わいは、君のイメージそのままだ。すべてを言わなくても、黙って、分かってくれる……。そんな感じだね」

 美紗は顔が強く火照るのを感じた。一方の日垣は、グラスを少し持ち上げて、中の透き通る青を覗くように見つめた。

「このカクテルを作ったバーテンダーさんは、さすがプロだけあって、少し話しただけで、相手の気質が分かるんだろうね。それとも、『みさ』という語感から、色的なインスピレーションを得たのか……」

 下の名前を口にされて、ドキリとした。日垣の顔を見ることができずに、かわりに彼の手の中にあるブルーラグーンを見つめる。

 青と紺の合間のようなカクテルの色
 冷たい雨の夜に独りで見た、イルミネーションの色
 大事なことを諭すかのように鋭く光っていた青い海と、同じ色

 しかし、今、華奢なグラスの中にある「青い海」は、彼の大きな手に優しく抱かれて、あの時とは違う、優しい光を降りこぼす……。


「……さん? 大丈夫?」

 美紗はびくりと震え、肩にかかる黒髪をわずかに揺らした。

「あ、すみません。少し、ぼうっとして……」

 中身が半分ほどになったカクテルグラスをテーブルに戻した日垣は、遠慮なくクスリと笑った。

「少し酔った? 珍しいね」
「いえ、あの、……そのカクテルの色のような場所のことを思い出して……」

 美紗は、言い訳をする子供のように慌てて言葉を継いだ。

「場所? イルミネーションか何かの?」
「あ、そうです。お庭のようになった所がイルミネーションで飾られているんですけど、青一色に光っていて、海みたいで……」
「イルミネーションの『海』か。綺麗だろうね」
「来るときに通った大通りを少し行った所の、高いビルの裏手なんですけど……」
「すぐそこの?」

 日垣は、椅子からわずかに身を乗り出して、客やバーテンダーたちの影の向こうに大きく広がる窓の外を見やった。
 星のない夜空の下で、無数の街灯りが瞬いている。その中にひとつ、ひときわ高い光の塔がそびえていた。

「今日も、やっているかな」
「たぶん……」

 美紗が答えると、日垣は腕時計をちらりと見た。十一時半を少し回ったところだった。まだ、終電までには一時間ほどある。

「酔い覚ましに、少し歩こうか」

 優しげな眼差しに、美紗は、はにかんで頷いた。残り少なくなったマティーニをそっと口に含むと、恍惚にも似た心地よさが身体中に沁みていった。


 
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