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第六章 ブルーラグーンの資格

略奪者との対決(2)

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「当たり前じゃない、そんなこと。最終的に決めるのは、たぶんそちらの班長なんでしょ? でも、鈴置さんが日垣1佐のコネで今の席にいるんだったら、松永2佐が何を言っても通らないんじゃないかって、それだけが気がかりだったんだけど」
「ま、つなが、2佐……?」
「直轄チームの人事を実質的に決めるのは松永2佐でしょ? 人事課長はあくまで人事管理してるだけなんだから」

 八嶋は、言葉を失っている美紗を呆れたような目で見た。

「取りあえず、ある意味フェアにやれることだけは分かって良かった。ありがとう」

 場違いな礼の言葉は、美紗にはほとんど聞こえなかった。完全に頭の中が真っ白になっていた。
 なぜ「席」の意味を勘違いしたのだろう。危うく、奇妙なことを口走るところだった。

 八嶋香織は「いつもの店」のことなど知りはしない。ただ、日垣貴仁のすぐ下で働くことを願っているだけだ。それでも、彼女の想いはやはり、並々ならぬものなのだろうが……。


「私のほうは、もう、うちの班長とも課長ともだいたい話がついてるの」

 黙りこむ美紗の前で、八嶋は急に楽しげに語りだした。

「松永2佐がOKしたら、鈴置さんと私のトレードになるんだって。渉外班のほうは、大使館の付き合いとか海外機関との交流事務とか、メインの仕事はそんなとこ。時々、会議通訳に入ったりするけど、通訳の仕事は個人の能力に応じて割り振られるから、今できなくても大丈夫。たぶん、研修って形で通訳の専門学校にも行かせてもらえるし」

 会議通訳は高度なスキルを要求される。前提となる語学力はもちろん、発話内容の全体を素早く把握し、聞き手に分かりやすい言葉で訳し伝える専門的な技能がなければならない。非常に難しい仕事だが、外資系企業で働いた経験を持つ八嶋は、それを当たり前のようにこなせるのだろう。
 美紗には、それに匹敵するほどの実力はない。二人並べば松永がどちらを選ぶかは、考える余地もなさそうだった。

「ああ、最近聞いたんだけど、省内でうちの渉外班を希望している人って、結構いるんだって。何でか分からないけど、人気あるみたい。だから、私とチェンジするのは、鈴置さんにとっても、決して悪くない話だと思うんだよね」

 言葉の端々にあからさまな優越感が見える。しかし、美紗の気に障ったのは、それとは全く別のことだった。

「それでも、直轄チームのほうがいいんですか」
「?」
「うちの仕事は部内調整がほとんどです。英語を使う機会なんて、横田(在日米軍司令部)とのやり取りぐらいしかありません。残業も結構多くて自腹で勉強する時間も取れないですし、研修に行かせてもらう話なんてまず来ないですけど……」

 能力を活かすという点でも、待遇面でも、八嶋にとっては、渉外班にいるほうが間違いなく有益であるように思えた。それを捨ててまで、日垣貴仁の傍にいたいのか……。

「それは承知の上よ」
「じゃあ、どうして……」

 分かり切った答えを聞きたいわけでもないのに、つい尋ねる言葉を口にしてしまった。美紗は、すっと表情を消した八嶋の視線に耐え切れず、下を向いた。

「鈴置さん、ホントに気付いてないんだ」

 尖った声が美紗の胸を突き刺す。

「今、特定の担当って持ってる?」
「えっ……、あの、5部の所掌を……」
「それなら、5部に結構ツテが出来たでしょ?」
「ツテ、というか、私は連絡係のようなものですから」
「そうじゃなくて」

 八嶋は苛立たしげに美紗の言葉を遮った。

「5部の仕事してたら、そこの課長さんや専門官の人たちと親しくなるでしょ。それに、5部の人がどこかに情勢報告に行くときは、あなたも一緒について行くでしょ?」
「でも、私はその場に座ってるだけです」
「5部長にも顔ぐらい覚えてもらえるじゃない」
「それは、そうですけど……」
「いいなあ、そういう繋がりができて。専門官のポストが空いたら真っ先に声かけてもらえる可能性だってあるんじゃない?」

 八嶋の言う通り、調整先である第5部の面々とは、仕事を通じてそれなりに親しくなった。ベテランの専門官から、担当地域に関する事柄や専門官の業務について教わる機会もたびたびあった。しかし、そういうやり取りが人事的な話につながるとは思えない。
 怪訝な顔をする美紗に、八嶋はさらに尋ねた。

「それに、日垣1佐も、相当顔が広いでしょ?」
「よくは知らないですけど、たぶん、そうだと思います」
「何しろ、未来の空幕くうばく長(航空幕僚ばくりょう長)の有力候補だしね。そういう人の近くにいると、お得な話もたくさん来るんだろうな、と思って」

 探るような目が、美紗をじっと見つめてくる。

「お得?」
「人脈の広い人の傍にいるといろんな情報が入ってくるし、人事の話も早いうちから聞こえてくると思うんだよね。それに、日垣1佐は空自だけじゃなくて内局(内部部局)にもパイプがありそうだから、適当に口を利いてもらえば、希望するポストに行けるチャンスだって巡ってきそうだし」
「そんなこと、あるんですか?」
「ついこの間、あったばかりじゃない!」

 八嶋は突然、語調を強めた。声こそ押さえているものの、眉間にしわを寄せた顔は今にも怒りを爆発させそうだった。

「総務課の吉谷さん、九月一日いっぴ付けで空幕に異動になったでしょ。あれは、日垣1佐の傍にいたからよ」
「空幕からの引き抜きじゃなかったんですか?」
「やっぱり、日垣1佐の近くにいると、詳しいんだね」

 神経質そうな釣り目が、憎々しげな色に染まる。美紗は慌てて頭を振り、相手の言葉を否定した。事の次第を日垣から直接聞いたなどとは、とても言えない。

「じゃあ、吉谷さんが空幕に行くことになったきっかけも知ってる?」
「あ、い、いいえ……」
「日垣1佐に同行してレセプションに出席して、会場で空幕副長(航空幕僚副長)と話す機会があったの。それが今回の異動につながったわけ。他人の人脈に便乗したいい例でしょ」

 吉谷綾子は、決して空幕への転属を望んでいたわけではない。レセプションへの同行を自ら願い出たわけでもない。会場で吉谷が空幕副長と会うことになったのは、全くの偶然に過ぎなかった。そもそも、日垣と空幕副長の険悪な人間関係に「人脈」という表現は適さない。
 しかし、そういった詳細を話すわけにもいかず、美紗は口をつぐんで黙っていた。

「副長が吉谷さんに直接、『うちに来てもらえないか』って言ってたんだから」
「八嶋さんも、その場にいたんですか」
「そ。たまたまその時、吉谷さんの近くにいて、話の一部始終を聞いてたの」

 忌々しげに吐かれる言葉を聞きながら、美紗は、在京フランス大使館のレセプション行事に向かう日垣貴仁と吉谷綾子の姿を思い出した。
 「夫妻」として、並んで歩く二人。彼らを見送った美紗は、嫉妬と敗北感に苛まれながら、独り雨の街を歩いた。その同じ頃、八嶋香織は、レセプション会場で別の嫉妬と敗北感を感じていたのか……。

 別の嫉妬――

 ふと、思い至った。

 八嶋さんが求めているのは、彼じゃない……。


 
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