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第六章 ブルーラグーンの資格
夏季休暇(1)
しおりを挟む「この調子で、あと十日くらい世界平和が続いてくれるといいんだがなあ」
直轄班長の松永2等陸佐は、席に座ったまま、大きく伸びをした。盆休みの週も木曜日を迎え、第1部長の留守を預かる彼の任務も、今日一日を残すのみとなっていた。
「テロリストも某国の独裁政権も、我が国の慣習なんかに配慮してくれませんからね」
内局部員の宮崎が銀縁眼鏡をきらりと光らせながら言葉を継ぐと、松永は「全くだ」と肩をひそめた。
対外情報活動を担う統合情報局に勤める職員が一週間前後の夏季休暇を満喫できるか否かは、ひとえに国際情勢にかかっている。
世界のどこかで、安全保障に関わる由々しき事件でも発生しようものなら、当該地域を担当する人間は、盆正月など関係なく、市ヶ谷に拘束されてしまう。佐官相当以上の幹部であれば、帰省や旅行で遠方にいようとも、電話一本で呼び戻されることもある。
総務系のセクションで構成される第1部では、そのような目に遭う人間はほとんどいなかったが、唯一の例外が、第1部長直轄チームに所属する七名だった。
「呼び出しくらったら、後から休暇の取り直しってできるんですか?」
東京から遠く離れた実家で休日をのんびり過ごした小坂3等海佐は、相変わらず人懐っこい顔を松永のほうに向けた。やや日焼けした肌が、白い制服のせいで、ますます目立っている。
「まず無理だな。元々、夏季休暇は九月中旬までに消化しないと取得の権利が消えるし、妙な事案が起こったらひと月以上はバタバタしっぱなしだから」
「うはー。そうなんですか。無事に休めて良かったあ」
「運が良かったことに感謝して、せっせと働け」
「了解ですっ」
小坂は妙にはつらつとした声を出した。この週は、先任の佐伯3等海佐とチーム最年長の高峰3等陸佐が、揃って休暇を取っていた。諫め役が二人とも不在なのをいいことに、小坂はいつもにもまして陽気だった。
対照的に、彼の左隣に座る美紗は、全く浮かない顔で黙々と資料整理をしていた。先の週末にいつもの店で「新人」バーテンダーと話したことが、ずっと気になって仕方がなかった。初めて顔を合わせた彼の言葉が、頭から離れない。
『その方の価値観に、ご自身を委ねてみてはいかがですか』
藍色の瞳のバーテンダーは、前と同じように店に来ればいい、と言っていた。怯えずにあの人を大切に想えばいい、というようなことも言った。
それは、一歩を踏み出せという意味なのか。あの人が許容するギリギリのところまで、想うままに飛び込めということなのか。
『限りある時間を、後悔のないように、お過ごしになってください』
バーテンダーの言葉のとおり、あの人の傍にいられる時間は限られる。幹部自衛官は、基本的に全国転勤が前提になっているからだ。
別れの時が、彼の異動というさほど遠くない未来に訪れるのか、それとも、八嶋香織という女によって今すぐにもたらされるのか。違うのは、そこだけだ。
美紗は小さなため息をついた。日垣貴仁がいずれ手の届かないところへと去っていくことは、初めから決まっている。同じ結末しか用意されていないと分かっていて、行動することに何の意味があるのだろう。
『日垣さん、安心したような、少し寂しそうな、お顔をしていましたね』
名も知らぬバーテンダーに続いて、意味深なことを口にしたマスターの物静かな笑顔が浮かぶ。
日垣は、いつもの店に行かなくなった美紗のことを、少しは気にかけてくれたのかもしれない。しかし、安堵した顔を見せたらしい彼の真意は、どこにあるのだろう。
美紗は顔を上げ、無人の第1部長室を見やった。前の週の金曜日から一週間の休暇を取っていた日垣は、Uターンラッシュを避けるために、敢えて週末を待たずに東京に戻る日程を組んでいた。
明日、彼は第1部に姿を見せる。そして、明日は金曜日だ。不在間に溜まった細々とした用事を片付けた後、彼はおそらく、いつもの店に足を運ぶに違いない。
再び「隠れ家」を訪れることを、あの人は好ましく思ってくれるだろうか。傍にいたい、と態度で示すことを、あの人は受け入れてくれるのだろうか。
いつもの店に行くべきか、明日までにはとても決められないような気がして、美紗はまた嘆息した。
あの人の価値観を試すような真似をするのは、怖い
試して、拒絶されて、
それまでの日々をあっさり思い出にできるほど
私はたぶん、大人じゃない
唇から三度めのため息が漏れる。
「鈴置さん、夏バテえ?」
底抜けに明るい声と共に、小坂がいたずらっぽい笑顔を寄せてきた。
「ずいぶんお疲れじゃない? 休み、まだ取ってなかったんだよね? 来週あたり、バーンと休んでリフレッシュしてきたら? 実家でぼーっとするだけで、だいぶ違うよ」
「ダメだぞっ! 来週は俺が休むんだからっ!」
間髪入れず、窓際に座る松永が、立ち上がらんばかりの大声で割り込んで来た。彼の斜め前に机を構える宮崎は、わずかに後ろにのけぞりながら、銀縁眼鏡を右手でかけ直した。
「松永2佐、先週は鈴置さんに『一週間ダーっと休んでいい』とか言ってませんでした?」
「事前調整なしでそんなに休まれてたまるか!」
普段にもまして静かな部屋に松永の声が響いたが、宮崎と小坂は全く動じず、「ケチな上司だなあ」などと茶化して笑い合った。
「来週は、まだ片桐がCS(空自の指揮幕僚課程)の試験でいないし、週の半ばには高峰3佐が出張の予定だから、うちのシマ、人があまりいないんだよ。盆明けになると、大抵、上の連中は用もないのに何か報告しろと言ってきて、くだらん仕事も増えるし」
「人手が足りなくなったら、休暇中の直轄班長を呼び出します」
「ふざけんな!」
松永は喚きながら机を叩いた。その本気とも冗談ともつかないリアクションに、部下二人はますます派手な笑い声を上げる。
「全く。せっかく片桐がいないのに、ちっとも静かにならんな、うちの『シマ』はっ」
「賑やかなのが取り柄ですからね」
「静かになっちゃあ、落ち着かんでしょう、ねえ、鈴置さん」
妙なところで小坂に同意を求められた美紗は、相槌に困って目をしばたたかせた。
「あの、私は、大丈夫です。お休みは今月末と九月にいただくことになってますから……」
「目の下、クマできてるよ」
小坂は、小麦色になった顔に白い歯を見せて、自身の目元に人差し指を当てた。
品のない囁き声を聞き逃さなかった松永は、ちろりと美紗の顔を見た。イガグリ頭に相応しい荒々しい顔つきが、すうっと気遣わしげなそれに変わる。
「明日休め」
「本当に、大丈夫ですから」
美紗が言い終わらないうちに、松永は机の引き出しから三文判を取り出した。
「来週、丸々一週間休まれたら、真面目に困るんだ。明日と土日の三日間でしっかり休んで、復活しといてくれ」
宮崎と小坂の手を経由して、直轄班長の印鑑が美紗の机に置かれた。仕方なく、美紗は四度目のため息をついて、休暇申請の手続き書類を書いた。
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