カクテルの紡ぐ恋歌(うた)

弦巻耀

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第四章 二杯のシンガポール・スリング

星のない夜空

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 週末が近づくと、美紗は、総務課が配信する統合情報局幹部のスケジュールをまめにチェックするようになった。
 第1部長の午後五時以降の行動予定欄が空白になっている金曜日は、仕事が終わり次第、「いつもの店」へ行く。顔を出すと、必ず日垣がカウンター席に座っていた。二人揃うと、マスターは無言で、奥まった「いつもの席」へと案内してくれた。

 衝立に隔てられた空間で話す内容は、もっぱら仕事のことばかりだった。市ヶ谷の中しか知らない美紗にとって、国の内外で幅広い職務を経験している日垣の話は、いつも意外性に富んでいて刺激的だった。

 仕事帰りにバーで一緒に飲み、ひとしきり話をして、終電に間に合うように店を出る。ただそれだけの時間が、不思議な興奮と安らぎに満ちていた。

 日垣は、美紗が大学時代に出会った同年代の男達とは、全く違っていた。
 世間知らずで子供じみていて自分のことだけで手いっぱいの彼らと、長年、巨大な組織の中で有能と評されてきた1等空佐の彼。本来、比べること自体が無意味だが、社会に出て数年余りの美紗に、そのような思慮深さはなかった。





 十二月に入ったばかりの金曜日は、師走とは思えない暖かさだった。
 約束したわけでもないのに、馴染みのバーに向かう地下鉄の中で、美紗は日垣とばったり会った。「いつもの店?」と短く聞かれ、はにかんで頷くと、彼は静かに手で髪をかき上げ、嬉しそうに笑った。


 美紗を連れた日垣がバーの中を覗くと、店内は満席だった。忙しそうに立ち働く若いバーテンダーの一人が、常連客の彼に、「十五分もあれば『いつもの席』が空きそうだ」と教えた。
 日垣は店員に向って天井を指さすジェスチャーをすると、美紗のほうを向いて、「上で待っていよう」と言い、店の入り口そばにある階段へと向かった。

「屋上が喫煙所になっているんだ。本当は安全上好ましくないんだろうけど、煙草好きのマスターがこっそり常連客に開放していてね」

 薄暗い階段を上がり、端のほうのペンキが少し剥がれている鉄扉を開けると、都会の夜空があった。晴れているのに、星は見えない。地上の街灯りだけが美しく光り輝いていた。


 十五階建てのビルの屋上の端で、美紗と日垣は立ち話をした。日中、異様に暖かかったせいか、夜になっても、コートを着ていれば寒さはさほど気にならなかった。

「私が初めてここに来たのは、もう十六、七年前になるかな。その時の上官に『自衛隊を辞めたい』と言ったら、この店に連れてこられた。当時は店の中でも煙草は吸えたと思うんだけど、なぜかこの屋上で話していたのを覚えているよ」

 美紗は、安全柵の向こうに広がる夜の街を眺める日垣の顔を、そっと見上げた。

 統合情報局第1部長を務める彼は、一選抜で昇進の階段を駆け上がり、今や同期の中でも一、二を争う位置にいると聞いている。いずれは航空自衛隊のトップである航空幕僚ばくりょう長にまで登りつめるだろう、と囁かれる彼でも「辞めたい」と思うことがあったとは、意外だった。

「十代の頃はパイロットになりたくてね。一番早く飛行機に乗れるのは自衛隊の航空学生だと聞いて、高校三年の時に受験したんだ」

 海上と航空の両自衛隊では、航空学生と呼ばれるパイロット養成制度を設けている。高校三年次に航空学生の選抜試験を受けて合格すれば、二年間の座学研修などを経て、二十一歳になるまでには操縦桿を握ることができる。


「でも、二次で落ちてしまって」

 一次の筆記試験は余裕で突破したものの、次の段階で不合格となった日垣は、国立大学で航空工学を学ぶ道に進んだ。しかし、パイロットになる夢を諦めきれず、二年次に再び航空学生を、そして、国土交通省所管のパイロット養成機関である航空大学校と、防衛省が管轄する防衛大学校をも受験した。
 防衛大学校は、幹部自衛官候補を育てる教育機関だが、ここを卒業した後に航空機操縦の訓練を受けてパイロットになる者も、若干ながら存在する。日垣にとっては、最後の保険のようなものだった。

 結局、合格したのは防衛大学校だけだった。日垣は、親の反対を押し切り、それまで通っていた国立大学を辞め、二浪したような格好で防衛大学校に入校した。


防大ぼうだい(防衛大学校)で航空要員になることが決まった時は、てっきり、パイロットになれると信じていたんだけどね……」

 一般大で二年、防衛大学校で四年、幹部候補生学校で半年を費やした日垣が、ようやく飛行要員に志願する段階にたどり着いた時には、初めて航空学生を受験してから六年半が過ぎていた。


幹候かんこう(幹部候補生学校)を卒業する時に、最終的な航空身体検査を受けて、そこで初めて、聴力に問題があると言われたんだ」

 その時点で大空を飛ぶ夢は完全に消えた、と懐かしそうな目で語る日垣の様子を、美紗は遠慮がちにうかがい見た。普段のやり取りに特段の支障があるようには思えなかった。
 日垣は、美紗の疑問を察したように、言葉を続けた。

「日常生活には全く問題ないんだ。ただ、仕事で飛ぶパイロットになるには、いろいろな身体条件をクリアする必要があって、空自の操縦課程に入る時の航空身体検査は、特に厳しいらしい。私は、もともと聴力が規定ギリギリだったんだろう。航学こうがく(航空学生)と航大こうだい(航空大学校)がどちらも二次落ちだったのも、たぶん、そのせいだ」
「それを、ご存じないまま、六年もずっと……」

 言葉に詰まる美紗の横で、日垣は星のない夜空をふり仰いだ。

「もし、一回目に航学を受けた時点で不合格の理由を知ることができていたら、通っていた大学を辞めて自衛隊に入るという選択は、なかっただろうね」

 初めから叶わないと決まっている夢を六年以上も懸命に追い続け、自分には可能性がないと分かった時、
 夢に向かって歩き出す者たちを見ながら、自分ひとりだけその場から離脱しなければならなかった時、
 日垣青年は何を思っていたのだろう。


 日垣と並んで夜の街を眺めながら、美紗は静かに泣いた。

 昼間のぬくもりをわずかに残す穏やかな風が、日垣の大きなトレンチコートの裾を、美紗の肩にかかる黒髪を、静かに揺らしていった。


「パイロットになれないと分かったら、なんだか気が抜けてしまって……。その後、要撃ようげき管制(防空専用の航空管制)の職に就いたけれど、戦闘機乗りを地上から見上げるのは、やはり辛くて、数年で辞めたくなった。それをそのまま当時の上官に言ったら、ここに連れてこられて、辞める前に飛行機以外の世界を一つだけ経験していけと言われたんだ。その時にすすめられたのが今の情報職、というわけ」

 日垣は、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべて、美紗のほうに顔を向けた。

「やってみれば、この仕事もなかなか面白くなってね。なんだかんだ言っても、結局、運はいい方だったと思っている。たくさんの素晴らしい人間に出会えたし、……君にも会えた」

 大きな手が、美紗の目に光るものを、そっと拭った。

「君は……、優しいね。私は、自分の歩んできた道には満足している。でも、君が昔の私をそんなふうに想ってくれるなんて、望外の幸せだ。ありがとう」

 もう一方の手が、ごく自然に、美紗の髪をそっと撫でた。



「日垣様。いつものお席、ご用意できましたよ」

 バーの店員が屋上に呼びに来た。美紗は、アルコールが入る前から、何となく体がふわふわするのを感じながら、日垣の後についてビルの中に入った。

「そうだ、前から言おうと思っていたんだけど、職場の外にいる時は、普通に呼んでもらえるかな。階級付きで呼ばれると、街中ではどうも悪目立ちする気がするから」
「普通…って、どんな呼び方ですか」

 防衛省以外で働いたことのない美紗には、どうもピンとこなかった。

「部員の宮崎さんみたいに、『さん付け』がいいかな」

 美紗は、口の中で「日垣さん」と呟いてみた。とても奇妙な感じがした。

 一般部隊ではもちろん、防衛省内でも、上司のことは、役職名で呼ぶか、苗字に階級を付けて呼びかけるのが慣例だった。第1部長を「さん付け」で呼ぶのは、美紗にとっては、なぜかとても敷居が高いことのように思えた。

「何か……ちょっと、変ですよね。日垣1佐……」

 日垣が含み笑いをしながら美紗をじっと見ていた。
 美紗は仕方なく、「日垣さん」と小さな声で言い直した。まるで、ずっと想いを寄せていた男性を初めて下の名前で呼んでしまったような、戸惑いと恥ずかしさを感じた。

 ほんのりと紅潮した美紗の顔を、階下につながる階段の薄暗さが、さりげなく隠してくれた。

     ******


「その時、たぶん、私、日垣さんのこと、好きになったの」

 ぽつんと言った美紗は、頬が少し温かくなるのを感じた。今は、篠野さんのカクテルを飲んでいるせいだ、と思った。

「そっかあ!」

 征は満面の笑顔を浮かべ、落ち着いた店の雰囲気には全くそぐわぬ大きな声を出した。

「この店で生まれた恋って感じですよね! うわあ、何か嬉しいです僕! 何か御馳走させてください!」

 藍色の目を輝かせてテーブルの上に置いてあったメニューを取った征を、美紗は憂い顔で止めた。

「私には、きっとこの『秘密』のカクテルが合ってます。日垣さんを好きだなんて、大きな声で言えないから」

 シンガポール・スリングの入っていたグラスの中で、氷が寂しげな音を立てる。

「何でですか? 日垣さん、いい人じゃないですか。上司だから? 同じ職場だから? そういうのダメとかいう規則があるんですか?」

 無神経な質問を連発する若いバーテンダーに、決して悪気はなかった。美紗は困った顔で、黙っていた。

「年がすごく離れてるから? そんなの関係ないじゃないですか。三十くらい年が離れてても結婚する人たちだっているでしょ?」

 征が無造作に口にした「結婚」という言葉が、今になって胸に刺さる。
 あの人と結婚したいなどと思ったことは、一度もない、はずだった。


 あの人がこの街を去るまでの恋なのだと、初めから承知していたのだから――



 *シンガポール・スリング
   ジンベース/中辛口
   アルコール度数 15度
   カクテル言葉:「秘密」


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