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第四章 二杯のシンガポール・スリング

祝杯の夜

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 その後、日垣は数回、週末のバーで美紗の「メンター役」を務めた。水割りとマティーニを間に挟んだ二人の会話は、他の誰にも言えない秘密事案から、いつしか、ありがちな仕事の話へ、他愛のない愚痴話へと、内容を変えていった。
 その間、件の極秘会議に不審の目を向ける存在は、防衛省の内外を問わず、ついに現れなかった。



 十月も半ばに入りかけた頃、すっかり馴染みになったバーの「いつもの席」で、日垣は、美紗の引き起こした保全事案が部内調査に発展する恐れはまずないだろう、と告げた。

「さしずめ、今夜は祝杯だね」

 そう言って、日垣は水割りの入ったグラスを目の高さに上げた。琥珀色の液体に浮かぶ氷が、軽やかな音を立てる。
 美紗も、華奢なカクテルグラスを両手でそっと掲げ持った。静かにグラスに口をつけると、マティーニの強い刺激が、一か月ほども心の底に溜まっていた不安を一気に押し流した。

 思わずため息をつく美紗の向かいで、日垣も晴れ晴れとした表情をしていた。問題のもみ消しを画策した張本人も、気の弱い「共犯者」を抱えて、実のところ、緊張の毎日だったのかもしれない。

「たくさんご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした。お忙しいのに、たびたびお時間をいただいてしまって……」
「いや、ここで君といろいろ話せて、こう言ってはなんだけど、私は楽しかったよ」

 日垣は穏やかな顔を嬉しそうにほころばせ、髪をかき上げた。それが彼の癖なのだろうと美紗は思った。
 彼が右手を髪にやるのは、どうやら、可笑しさを堪える時と何かを気恥ずかしく感じている時らしい。「未来の航空幕僚長」とも噂される統合情報局第1部長の何とも分かりやすい癖は、不器用でシャイな青年の姿を思わせた。

 第1部の職員の中で、彼の素朴な一面を知る者は、美紗以外には、おそらくいない。

 緊張と不安の日々からやっと解放される。それなのに、美紗はなぜか、微かに寂しさのようなものを感じていた。

 今後、職場の外で日垣と差し向かいで話をする機会はないだろう。
 彼の優しげな目をこんな近くで見つめることも、きっともう、二度とない。


「日垣1佐」

 呼びかけて、美紗は次の言葉に詰まった。

 静かに視線を向けてくる彼に、理由もなく戸惑う。窓ガラスの向こうで、街明かりが、揺らぐ。


 美紗は、聞き取れないほど小さな声で「本当にありがとうございました」と言って、日垣に深々と頭を下げた。

 「ずっと私のメンターでいてください」とは、やはり、言えなかった。

     ******


「あれ? でも確か、去年の春……、あ、梅雨時くらいまででしたっけ、お二人でこちらにいらしてましたよね。……ってことは、ええっと……」

 征は、指を折って計算すると、
「二年、……よりはちょっと短いのかな? その間、ずっと一緒だったんでしょ?」
 と、躊躇することもなく尋ねた。人懐っこい藍色の目は、美紗の顔がわずかに歪むのをとらえてはいないようだった。

 肩にかかる黒髪をかすかに揺らし、美紗は短く頷くと、レモン色と濃赤色が混じり合うコリンズグラスの中を見つめた。

 ひと月ほどで終わったはずのあの人との逢瀬を再開させた原因は、拭い去れない不愉快な過去の中にあったのか。それとも、自覚のないままあの人に魅かれていた自分の心にあったのか。
 その答えは、今も、分からない。


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