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第四章 二杯のシンガポール・スリング

理想の先輩(1)

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 ハンカチを借りたのがきっかけで、美紗は、統合情報局でも最古参の事務官の一人である吉谷綾子と親しくなった。
 鼻筋の通った美人顔の吉谷は、四十代前半とは思えないモデルのような体形でブランド物の服を優雅に着こなし、一見いかにも近寄りがたい雰囲気だった。しかし、話してみれば意外と人当たりも良く、陽気なトークで相手を和ませるのが得意な、優しい「非お局様」だった。



 米国との情報交換会議から十日ほど経ったある日、吉谷は「ランチご一緒しない?」と美紗を誘った。
 約1万人が働く防衛省の敷地内には、典型的な社員食堂タイプからイタリアレストラン風の店まで、食事をする場所は複数あったが、周辺の地理を熟知する吉谷は、美紗を敷地の外へと連れだした。

 吉谷が「御用達」の店のひとつだという寿司屋は、裏手にある門から歩いて五分ほどのところにある地下鉄の駅のすぐ近くにあった。「ここ、夜は高くてとっても入れないけど、ランチは超お得なの」と言って、吉谷は、おすすめだという「海鮮丼セット」をおごってくれた。


 純和風のこじんまりとした店内は、職場の内緒話をするには格好の場所だった。敷地の中の食堂と違い、周囲に顔見知りがいないかと心配する必要もない。

「美紗ちゃん、急に痩せちゃってない? まあ、元から痩せてるけど」

 細い眉を寄せる吉谷に、美紗は「そんなことないです」と答えてうつむいた。

 秋色のシックな服装に身を包み、首元を華奢なプラチナでさりげなく飾る相手は、目を合わせるのもためらわれるほど、洗練された風情だった。品のある姿からほのかにこぼれる香りは、決して食事の場を乱してはいない。
 すべてに気遣いが行き届くベテランに見据えられたら、考えることすべてを悟られてしまいそうだ。

 しかし、吉谷は何かを詮索する風でもなく、ランチセットについている冷たいムースをつつきながら、早口で喋り出した。

「直轄チームはどうも口の悪い人多いわね。特に先任とあの小僧。小僧は口が悪い上にうるさすぎ。あんなのに何か言われても、いちいち気にすることないからね」

 彼女の言う「小僧」とは、美紗の斜め前に座る1等空尉の片桐のことだった。直轄チームで二番目に若い彼は、仕事中でも口数が多い上に、時々不用心な発言をする。
 同じ「シマ」で働く美紗は、彼の言動が表裏のない素朴な性格から生じていることを承知していたが、吉谷には、それがひどく幼稚なものに見えているようだった。

「片桐1尉、いつも賑やかですけど、いろいろ助けてくれることもあるんですよ」

 美紗は苦笑いしてお調子者の航空自衛官のことをフォローした。しかし、その笑顔は少しやつれていた。

「そうなの? まあ、小僧だから、ちょっとでも使えればマシってとこなのかもね。どっちかというと、とげとげのイガグリ3佐のほうが問題か」

 上品な仕草でコーヒーの香りを楽しむ吉谷の口からは、滑稽な言葉が次々に飛び出してくる。美紗を元気づけようと気遣っているようでもあるが、元から強烈に朗らかで豪胆な性格なのかもしれない。

「先任のイガグリはさ、悪い人じゃないんだろうけど、もうちょっと『普通』に話してくれればいいと思わない? 演習場で仕事してんじゃあるまいし」
「私が怒られることばかりしているので……」
「だからってさ、部屋中に聞こえるような声でがあがあ言うことないじゃない。大きな声で怒鳴るのも一種のパワハラでしょ」

 吉谷が直轄チーム先任の松永3等陸佐の悪口を並べ立てるのを、美紗はしょんぼりと聞いていた。


 図らずも極秘会議の場に居合わせてしまった日から、美紗は、全くと言っていいほど仕事が手に付かなかった。
 第1部長の日垣は「一か月ほど待って特段の動きがなければ部内調査はないだろう」と言っていたが、その一か月が恐ろしく長く感じる。
 
 コトが露見すれば、自分も日垣も、不名誉な形で職を追われてしまう。

 そんな不安を顔に出さないように努めようとしても、直轄チームで最古参の高峰3等陸佐の存在が、美紗の心を動揺させた。
 緊急入院した家族の状態が落ち着いたといって早々に職場に戻ってきた高峰は、直轄チームのメンバーを装っているが、その実、世間に公表できない部署に属する連絡員だ。意図せずして彼の正体を知ってしまったことは、他のメンバーにも、高峰本人にも、悟られないようにしなければならない。

 誰にも気づかれずにやっていけるのか、いつの間にかそのことばかり考えている。上官の指示を聞き間違え、作業が緩慢になり、指導役の松永から与えられた簡単な調整業務でミスを連発した。
 松永は、初めの二日間は様子見の構えだったが、三日目になり、ついに「何があったか知らんが仕事に集中しろ」と喚いた。それから後は、美紗が些細な間違いを犯すたびに、派手に叱責するようになった。



「あの時は他人のプライベートを好きなだけいじってたくせにさ。何言ってんのって感じ。見てて腹立つわホント」
「うちのシマ、いつも変な話しててうるさいですよね。お仕事の邪魔になって、すみません」
 
 かみ合わない美紗の応答に、吉谷は一瞬、沈黙した。若い女性職員が彼氏に振られてすっかり意気消沈している、と「直轄ジマ」の男どもが面白半分に騒いでいたのを、当人はまるで気付いていない。そう察した吉谷は、慌てて話題を変えた。

「まあ、あのクソ先任に頭にきたら、富澤クンのお顔でも見て、気分転換して」
「富澤3佐のことですか?」

 美紗から見れば七、八歳は年上の3等陸佐も、大先輩の彼女にとっては、十歳年下の可愛い「富澤クン」になるらしい。

「彼、なかなかのイケメンだと思わない?」
「そ、そうですか?」

 予想外の軽い言葉に、美紗はうっかり不同意の意思表示をした。富澤は、確かに陸上自衛隊の制服が似合う男性的な顔立ちだが、巷で言われる「イケメン」のイメージに比して、かなり骨太く、いかつい雰囲気に見える。

「えーっ、全然興味無しなの? 何てもったいない。だったら、私と席替わってよ」
「でも、富澤3佐は結婚してますよ」
「そうだけど、イケメンはイケメン。彼は私の『王子様』だから」

 形の良い唇の端を上げて艶っぽく語る吉谷も、実のところ既婚者だ。毎日、ほぼ定時に職場を出て、自宅近くの保育園に子供を迎えに行く生活を送っている。

「私にだって、年下のイケメン君を愛でる権利ぐらいあると思うの。見て楽しい『王子様』でもいたほうが、仕事に来るのが楽しいでしょ」

 すまし顔を作る吉谷に、美紗もようやく顔をほころばせた。密かに「王子様」と呼ばれていると知ったら、生真面目な富澤は卒倒するかもしれない。そんなことを思ってクスリと笑うと、胸のあたりが少しだけ軽くなったような気がした。

「しっかし、うちの部は見事にオジサン揃いね。私が昔いた8部と比べると、平均年齢が五歳は違うような気がする。はっきり言って、美紗ちゃん、つまんないでしょ」
「お仕事で手一杯ですから、まだとても……」
「一日中ぶっとおしで仕事ばっかしてると、心がまいっちゃうよ。うつ病防止に、コーヒーでも飲みながら『王子様』見てリラックスできるといいんだけど。美紗ちゃんの好み、いないかなあ。事業企画課あたり、どうだろ」

 吉谷は、大きな目をくるりと動かし、頭の中で、第1部所属の男性陣を検索し始めた。目鼻立ちの整った顔がいたずらっぽく笑うと、華やかな空気が辺りに広がる。年齢を感じさせない雰囲気を作り出しているのは、人目を惹くスタイルや優雅に着こなすブランドスーツだけではないのだろう。
 美紗は、羨望の眼差しで吉谷を見つめた。「王子様」探しより、吉谷の経歴の方に興味を覚えた。

「8部にいらした時は、情報関係のお仕事だったんですか?」
「うん、そう。中途採用で入省して、最初の七年間はずっと8部。私は在欧企業で働いたことがあるから、それで、入ってすぐに欧州関係のところに配置になったの。でも、子供が生まれたら、やっぱり同じ仕事は続けられそうになくて。美紗ちゃんトコもそうだと思うけど、地域担当部も専門官はどうしても即応性が求められるから、やっぱり、子持ちじゃね……」
「それで、総務に変わったんですか?」
「まあね。1部の文書班に来れば幹部待遇にしてくれるっていうから異動して、今に至るってわけ」

 吉谷が班長を務める総務課文書班は、種々の文書の発簡手続きや秘文書の授受に関わる管理業務を担う部署だった。
 いわゆる「ノンキャリア」である事務官の職種は、専門分野ごとにいくつかに分かれているが、総務、人事、会計などの一般行政系と、情報業務を含む語学系は、採用の時点で別々に取り扱われ、入省後のキャリアパスも全く異なる。
 途中で職種を変更するケースは、皆無ではないが、さほど多くはない。別の分野に転向すれば、一から経験を積みなおす手間とストレスを抱えるばかりで、特にキャリア上有利にもならないからだ。


「産休明けの時は、もちろん迷ったけど、気兼ねなく働けるほうがいいと思って、職種転換したの。孫の面倒見てくれるじじばばも近くにいないし、旦那も主夫じゃないから。まあ、職無しパパじゃ困るけどね」

 艶のあるセミロングの髪をふわりと揺らした吉谷は、働く既婚女性なら誰もが一度は抱えるであろう問題を、カラリと話した。
 望まぬキャリア変更を余儀なくされたかもしれない彼女は、それでも、輝いて見える。それが、美紗にはひどく不思議に思えた。

「独身でいたほうが良かった、って思われたこと、ないですか? 子供がいなければ好きなように働けたのに、って」

 吉谷は、まつ毛の長い目をしばたたかせると、美紗の問いに即答した。


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