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5、鬼謀のアイオナイト

341、月が片方、大きくなっている/ 旦那様が迷走してる

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「なにこれ?」

 目が覚めたとき、フィロシュネーの頭上ではカラフルで可愛い玩具のお星さまがプラプラ揺れていた。
 ベビーモビールと呼ばれる、赤ちゃん用の玩具だ。

「なにこれ」

 しかも、ベッドで寝ている自分の手には赤ちゃん用のガラガラが!
 周りにはぬいぐるみと絵本が大量にあって、フィロシュネーは埋もれるようにして寝かされていた。

「なにこれ……なにこれぇ……」

 これが愛読書の『過去に戻って人生をやり直したり転生する物語』なら、赤ちゃんになっているところだ。
 だが、フィロシュネーは赤ちゃんになってはいなかった。
 昨日と同じ十六歳の身体だ。
 それなのに、赤ちゃんみたいに寝かされている。
 
「だ、だれか。だれかー……?」 

 この不可解な状況について教えて!
 フィロシュネーが呼び鈴を鳴らすと、やってきた使用人は、明らかに動揺した顔を一瞬だけ見せた。

「姫君! め、目覚められましたか」
「わたくし、どうして赤ちゃんみたいにされていますの」
「くっ……」
   
 使用人は「痛いところを突かれた!」とばかりに言葉に詰まりつつ、一瞬で表情を取り繕った。

「あ、赤ちゃんなどと。そのようなことはございません」
「では、これはなんなの……」
「旦那様のご指示でございますので、旦那様にお伺いしましょう。旦那様には深いお考えがあるのかもしれません……。少なくとも悪意はないかと、こほんこほん。医師も呼んでまいります。食事もお持ちしましょう」
 
 そう言って退室する使用人に代わり、専属侍女のジーナが「気が付かれましたかっ」と泣きそうな顔でお世話をしてくれる。そして、窓のカーテンをめくり、「たいへんなことが起きたのですよ!」と外を見せてくる。

 一体何が――と、視線を向けて、フィロシュネーは呆然とした。
 
「……なにがありましたの?」 

 夜空に輝く二つの月。
 そのひとつが、とても大きくなっていた。

 * * *

 二つある月のひとつが、大きくなっている。
 
 そんな異変に世界中が大騒ぎしている中、ノイエスタル邸の使用人たちが憩う『階段下の使用人室』では、使用人たちがテーブルを囲んで休憩していた。
 
 この家の使用人待遇はよい。
 休憩時間は他家より多いし、使用人は住み込みも通いも本人の希望通りにできるし、給金も高い。
 貴族が集まるサロンみたいな憩いの場があるし、お菓子やお茶もいただける。
 
 ノイエスタル家は、現在、紅国で最も権勢の強い新興貴族の家。
 それも、単なる貴族ではない。
 国家の仇敵であった『悪い呪術師』を討伐した英雄――女王の騎士サイラス・ノイエスタル卿は、コルテ神殿の神師伯でもある。

 ノイエスタル卿といえば大陸中に名を知られている英雄で、有能で理知的だ。
 元は暗黒郷の傭兵だった彼の気性は穏やかで、下の身分の者への接し方が優しい。良いご主人様だ。
 
 厳しい採用試験を通過して上質な教育を受けた使用人たちは、ノイエスタル卿に忠誠心を抱いている。
 「自分たちは大陸でトップクラスの貴き方々にお仕えするのだ!」
 という誇りを持っている。
 
 ……だが。

「いくらなんでも赤ん坊扱いはないだろう。どうして誰も止めてあげなかったんだ」
「旦那様のなさることに間違いはない。きっとあれでいいんだ」
「いいわけあるか……」
「姫君が目覚める前に元に戻してはいけないのでしょうか? あのままでは旦那様が嫌われてしまうかも……」
 
 使用人たちは戸惑っていた。
 
 彼らの旦那様は完璧超人だ。そう思っていた。
 なのに、婚約者の姫君を邸宅に迎えてから、急激に迷走し始めている!

「思えば前から兆候はあったんだ。旦那様は『もうロリコンと呼ばせない! ~年下令嬢への正しい接し方』やら『思春期の婚約者に嫌われないための中年紳士の嗜み』やら妙な本をコレクションしていていて……」
「主君のご趣味に口出しするのは使用人としてご法度だぞ貴様!」
 
 あんなにクールで超然としてたのに。常識人ですよって感じだったのに。
 お仕えして日々を共にしているうちに「あれ? 思っていたのと違うな」となってきたのだ。
 
「恋は人を変えるという。立派な人物が懸想相手の前だと別人のようになってしまうのは、よくあることだ」 
「それにしても、姫君のお部屋の前でウロウロしたり、悶絶していたり」
「今日は心が乱れているからと距離を取ったり……」

 目撃情報が共有される。

「まあ、いけませんわ。身分をわきまえなさい。仕事中に見た情報を他者に漏らすなどあってはならないことですよ!」

 と窘めるメイド長フラウ・ノーズもいるが。
 
「しかしガラガラは流石に」

 と言われると、メイド長も「それは、そうですわね」と残念そうだ。
 
「赤ちゃん扱いはないでしょう。おかしいでしょう」
 
 ああでもないこうでもないとギャンギャン騒いでいると、彼らが恐れていた報告が届く。
 
「たたた、たいへんですっ、姫君が起きてしまいました」
「悪いことが起きたみたいに言うな」
「でも、赤ちゃん扱いにドン引きしてましたよ」 

 部屋に飛び込んできたメイドの知らせに、全員がざわりとした。
 
「ついに……」 
「起きる前に撤去すべきだと思ったのだが、手遅れか」

 もうだめだ。
 旦那様が婚約者のお姫様に「やだ、きもちわるーい」と思われてしまう。
 全員が深刻な顔を見合わせたとき、家令ジール・スチュアートが全員を代表して立ち上がった。

「主君が道を誤りそうなときに『道を間違っておられませんか』と申し上げるのも、臣下の道」

 初老の家令ジール・スチュアートは、渋く宣言した。

「皆を代表し、私が忠言いたしましょう。赤ちゃんプレイはいけませぬ、と」

「ス、スチュアート様……」 

 頼もしい。でも。
 ――もう手遅れじゃないか。

 全員がそう思ったが、その後、姫君のお部屋は元に戻されたのだった。
 
 * * *

「ジーナ、月はどうして大きくなっているの?」
「それは、原因がまったく不明なのです。怖いですよね、不気味ですね」

 月が大きくなっている。
 何日経っても、変わらない。それどころか、どんどん大きくなっている気もする。
 
 そんな異変を抱えつつ、原因がわからないまま、フィロシュネーは療養期間を過ごした。
 
 使用人たちは腫れ物に触れるかのように慎重な態度で、サイラスはとても過保護で、居心地がいいような、気を使われ過ぎて逆に居心地が悪いような――そんな数日だった。
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