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5、鬼謀のアイオナイト

340、二人のお父様、二人のお姫様、無人の世界、婚約者

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 民の噂通り、フィロシュネーはノイエスタル邸で何日も寝込んでいた。

 発熱した体はだるく、意識はぼんやりと夢を見ていて、夢の中には『お父様』がいた。カントループだ。
 
 カントループは、寂しそうだった。つらそうだった。苦しそうだった。
 そんな彼を知る者が誰もいなくて、手を差し伸べる人がいない無人の世界は、心が痛んだ。

(……カントループ、お父様)  
 フィロシュネーが見ていると、途中でカントループの姿が変わる。
 
(お父様……いいえ。あれは……オルーサ)
 変わったあとの姿は、クラストスになりすましたオルーサだった。
  
 クラストス=オルーサは花壇の前でしゃがみこんでいた。
 後ろには黒髪の幼いお姫様がいて、オルーサにあれこれと話しかけている。でも、伝わっていない。

(オルーサ。ちゃんと返事をしてあげて。振り向いてあげて。可哀想よ)
  
 傷付いた顔をしながらも健気に話しかけるお姫様を見ていてフィロシュネーが同情したとき、オルーサの瞳がフィロシュネーを見た。

「……シュネー」
 父の声が名前を呼ぶ。懐かしい。

「シュネー、パパは……」
 
 「パパは」のあとは、何を言っているのか、わからない。
 フィロシュネーはそれよりも言いたいことがあった。声が届くなら、言わなければと思った。
 
「お父様、お父様。後ろを見てあげてほしいの。だって、その子……とっても一生懸命話しかけているのですもの。……わからないのですか? ……わからないのですか……」


 夢が、覚めていく。
 
 フィロシュネーが目覚めると、ベッドの脇には見慣れた男がいた。
 
「――サイラス」

 目が合って、フィロシュネーはドキリとした。
 一瞬、目の前の男が泣きそうに見えた気がして。

 でも、きっと気のせい。
 目をこすって見直すと、上から見下ろすようにして目を細くしている。見慣れた表情だ。
 思えば、最初に出会った頃からフィロシュネーはこの表情が好きだった。

 とっても貴い身分のフィロシュネーを、まるで道端で珍しい花が咲いているのを見つけたみたいに、品定めするみたいに――不遜に見下している感じがして。
 顔立ちが整っているせいか、どうも不遜な表情が格好良く見えて。
 
(顔がいいのよ。そうよ。そして、ちょっと偉そうで、強そうで……頼もしい感じがするのよ)

 ぼんやりと熱に浮かされた頭で思考しながら表情に見惚れていると、サイラスは眉根を寄せた。
 発する声は、呆れたような響きがある。
   
「前から思っていたのですが、姫は軽はずみに他人に奉仕しすぎなのではありませんか」
「……ひゃい?」

 声が掠れて、ちょっとみっともない。
 フィロシュネーが自分の声を恥じらっていると、サイラスは水を飲ませてくれた。

「ありがとうですわ……お、怒っていますの?」
「自分から不幸になろうとする姫も愚かですが、自分の限界を知らずに積極的に倒れにいく姫も、おばか。……いえ。一番反省すべきでどうしようもないのは、俺ですが」
 
 悩ましげに言うサイラスは、ちょっと懐かしい感じがする。
 まるで、フィロシュネーが石になって元に戻ったときみたい。
 
 サイラスは、「何日も寝ていない」というような顔色だった。
 目の下には隈が出来ていて、指先はカサカサで、冷えていて、目は充血気味だ。
 眉間には深い皺が刻まれていた。
 怒っているわけではないのです、と呟く声は、以前のハルシオンのように不安定な気配がした。
 
「サイラス。ちょっと弱っていますの?」
 意識的に名前を呼んであげると、「弱っているのは姫の方です」という硬い声が返ってくる。
 
「心配してくれていましたの?」
 
 そっと言う声には、申し訳なさと嬉しさが半分ずつ混ざっていた。
 
「せめて『魔力をこれ以上消耗すると倒れる』という限界を見定めて控えていただくですとか……」
「わたくし、魔力を使いすぎましたのね。それで以前みたいに体調を崩して、あなたは心配してくださったのね」

 フィロシュネーは不調の原因を理解しつつ、「でも、人助けができましたわ」と誇った。
 
「……――姫は人助けがお好きですね」

 サイラスの右手が熱をはかるように額にあてられる。
 左手には、青黒く輝く石がある。

「移ろいの石……やっぱり、持っているんじゃない」
「まあまあ」
「まあまあ、じゃありませんっ」
  
 額にあてられた手が頭を撫でてくる。

「フェリシエン・ブラックタロンは手柄が欲しいのです。俺は古なじみでしたし、自分も長く望みが満たされずにいたので、彼の境遇には同情したのですが」
 
「ん……?」

 全部を知っている、という顔で、サイラスが語る。
 これはサイラスではなくて、きっと前世の彼の自我が強い――フィロシュネーはそう思った。

「魔法薬のレシピを姫のお部屋の続き部屋に置いてあります」
「レシピ、ありますの?」
「調べました。空国に材料を用意させて、レシピ通りに作ればいいですよ」

 そんな「調べました」でわかるものなの? という疑問は、彼の左手の石を見ていると質問するのも馬鹿らしくなってくる。

「サイラス。その石は、なんですの」
「便利なラッキーアイテムです」
「ラ、ラッキーアイテム……軽っ……サイラス……」
「俺は世界一幸運な男なので、姫は幸せになります」

 ――言い切った! 

「そ、それは、ありがとう……? サイラス?」
「なぜそんなに名前を呼ぶのですか。おまじないか何かのようですね。悪い気はしませんが」
「おまじないなのよ。あなたが落ち着くといいなって思って。サイラス?」
「姫のおっしゃることがわかりかねますが、俺はこの上なく落ち着いていますが? 姫が心配する事は何ひとつありませんが?」

 コクリと頷くサイラスは、やっぱりちょっと変。けれど、この神様みたいな態度にも慣れてきたような気もする。

(お、思えばこの人、最初から身分の割に無礼でしたし……そ、そうよね。それほど変わっていないといえば、変わっていないような気もするわ)

「熱を一瞬で下げたりは、できませんのね」

 そっと問えば、サイラスは残念そうに頷いた。

「万能のように思えますが、意外とそうでもないのが星の石なのです。困った鳥さんナチュラのせいで、二つに分けられていますし」
「二つに分け……? うん……よくわからないわ……」
「本日はごゆっくりお休みください。考えてもわからないですから、無駄に頭を使わずに」
「なんか、失礼な感じに聞こえる気がするの」
「気のせいです」

 そうかしら。そうかしら……。
 けれど実際、あまり物を考えられる体調ではない気もする。だんだん眠くなってくるし。

「姫。スープを運ばせました。眠る前に栄養を摂りましょう?」
「はい……」
  
 スープをすくったスプーンがいそいそと口元に近付いてくる。軽く口を開けると、食べさせてもらえる。美味しい。

「姫。お口に合いますか?」
「……はい」
 
 半分眠りながらあたたかなスープを味わう耳には、サイラスが細々としたことを語るのが聞こえた。
 
「姫。呪術伯から今後についてのご相談がありましたので、俺がお返事をしておきますね」
「はい」
「姫。続き部屋を用意していたのですが、呪術伯も枯れているとはいえ性別は男ですから、別の部屋にしましょうか。会うときは麻縄で全身縛って騎士で囲みましょうね」
「はい」
「姫。奴は鳥が苦手らしいので、当日は鳥まみれにしてやりましょうね」
「はい」

 ふわふわとした気分で目を閉じると、そのまま寝てしまいそうになる。

「結婚式は春にコルテ神殿で行えることになりましたよ」
「……はい」  
「眠いのですね」
「じつは、そうなの」
「ゆっくり休んでください」
「ええ、ええ……」

 ほわほわとした魔力で全身が包まれる。これは、浄化の魔法かもしれない。
 汗が拭われて、清められる感覚は心地いい。

「ふあ……きもちいい……」
「っ……」
 
 ほわほわと呟けば、ベッド脇からガタッという音が聞こえて魔力が消える。

「……?」
「いえ……、少し刺激的で」
「……おやすみ、なさい……?」
 
「こほん、……失礼……おやすみなさい」
  
(サイラスは変だけど、いつも変だし……もういいわ)
 
 今はとにかく、眠りたい。
 
 フィロシュネーは衝動のまま力を抜いて、心地いい眠気に身を委ねた。

 今度見た夢は、カントループも誰もいない、広々とした大自然だけがある世界だった。
 誰もいない世界では、誰も泣くことがなく、誰も笑うこともなく。
 ただ、のびのびと生えた草が風に揺れていた。

 草も花も石も大地も、皆、ただ何も考えずそこに存在するだけだった。
 
 春に芽吹いて皆が咲き。
 冬になって皆が枯れ――また春になり、新しい命が芽吹く。

 ……その世界はとても平和で、誰も心を乱すことなく、淡々と時間が過ぎていく。

 悪人もいない。
 虐げられる者もいない。
 幸福に喜ぶ人もいない。不幸を嘆く者もいない。

(ここはとても穏やかで静かで……素敵ね)

 ――でも、ここにはわたくしが好きな物語がないわ。

 わたくしが好きな人間がいないわ。人間同士が織り成す感情の波や、関係性がないわ。

 ……この世界を見ているわたくしと、同じことを感じたり考えたりしてくれる存在がいないわ。

(それって、なんだか寂しい。それって、なんだか怖い)

「サイラス、……サイラス」

 ぼんやりと名前を呟くと、手を握ってもらえたような気がした。

「そこにいるのね。わたくし、ひとりではないのね」

 ……よかった。
 フィロシュネーは安心して微笑んだ。 
 
 * * *

 目の前で眠るお姫さまは、春になれば十七歳になる。十七歳ともなれば、ドキッとするような色香を感じさせる瞬間もある。
 
(あ……焦った)

 サイラスはすやすやと眠る婚約者の寝顔から目を逸らし、深呼吸して気を落ち着かせた。
 熱で上気して、眠そうにゆるんだ無防備な表情で。
 
 不意打ちで艶めいた声を出したり、うわごとで名前を呼んだりされて。
 思わず手を握ったら、とても安心したように微笑まれるものだから。
 
 ……情緒が乱されてならないではないか!
 
 状況を忘れて暴走しそうになったではないか。
(俺としたことが……)

 ――この可愛らしいお姫様と暮らすなら、もっと理性を鍛えないといけない。 

 無防備極まりない姫君の夜を見守りながら、婚約者はこっそりと胸に誓うのだった。
 
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