178 / 384
3、変革のシトリン
175、バルトゥスの子、挑発、 十人目の人魚の恋人
しおりを挟む
「楽団がデッキで演奏を始めたようです」
朝食を終えた頃、サロンの外から知らせが齎された。
「人魚たちは演奏を気に入った様子で、空王陛下の友好の挨拶に人間の言葉を返したのだとか」
危険がないならば、と貴婦人たちが好奇心をあらわにしてデッキに向かうので、フィロシュネーは付いて行った。
ゆったりとした曲が演奏されていて、デッキに人が集まっている。
画家のバルトュスが小さな男の子を抱っこしていて、「パパ、人魚さんいなくなったぁ!」という声が聞こえる。
(バルトュスには子供がいらしたのね)
バルトゥスが我が子に注ぐ眼差しには、父親の愛情があふれていた。
集まっていた人の中に、逃げるように距離を取る者たちがいる。先日の騒動で妻と離婚する羽目になった貴族男性たちや、船上での離婚手続きに必要な書類作成に駆り出されて大忙しだった文官たちだ。
「まあ! あたくしの新しいパートナーが小船に乗ってるわ。なにをなさっているのかしら」
サロンメンバーの貴婦人のひとりが海を見る。気まずそうに逃げていく元夫の存在は目に入らない様子だ。
海には、客船の男性を乗せた小船があった。小船はどこかへ向かって離れていく……。
「姫、いらしたのですね」
フィロシュネーの姿を見つけて、サイラスが寄ってくる。
「船内でよからぬことが起きているようです。護衛を増やして、身の安全を第一になさってください」
「それは昨夜聞きました」
「毎朝繰り返しましょう。申し上げても効果が薄いようなので」
サイラスは『お見通し』という顔で、この時間までの顛末を教えてくれた。
「どこかのお姫様が人魚に音楽を聞かせたのだそうで、楽団が演奏を始めたのですよ」
「それはわたくしですわね。身の安全を第一に、自分の部屋のバルコニーで演奏したのですわ」
危ないことはしていないのだ。フィロシュネーは肩をそびやかした。
「……まあ、いいでしょう」
サイラスは諦めたように言って、話を続けた。
「まず、人魚は十人いたのです」
十人はいずれも上半身が美しい女性で、下半身は魚だったと説明してから、サイラスは「もちろん、美しいと言っても姫の美しさにはかないませんのでご安心ください」と付け足した。
「わたくし、自分以外が美しいと褒められて機嫌を損ねるような狭量なお子様に見えますの?」
『機嫌を取られた』――そう感じて言えば、サイラスは「姫は大人なのでしたね」と、また子供扱いな口調で言う。
(これは、突っかかるほど子供扱いされるわね。よろしい! わたくしは大人ですから、優雅に微笑んでスルーして差し上げてよ……!)
フィロシュネーは扇を広げ、「そうよ、うふふ。さあつづきをおっしゃい」と猫撫で声で促してあげた。サイラスは残念な生き物を見るような眼をしてから、視線を海に逸らして話をつづけた。
「人魚は最初、我々が血や油絵具や残飯で海を汚して挑発した、と怒っていたのです。ですが、空王青王両陛下が歌を歌われまして、人魚はうたを返しました」
海にあれこれ落としたのは恐らく《輝きのネクロシス》の仕業だ。フィロシュネーは「迷惑な方々」と思いつつ、首をかしげた。
「歌? 歌ったの?」
歌というのは、あの歌かしら。らーららー♪ と歌う感じのあれかしら。
「その歌です。お二人は仲良く肩を組み、有名な航海の歌『おれたち海賊、人魚に惚れた』をうたわれたのです」
『おれたち海賊、人魚に惚れた』は、その名の通り海賊が人魚に惚れた歌だ。歌詞は熱烈に人魚を讃え、求愛する内容となっている……。
「それ、『わたくしたちが海賊で、お兄様たちが人魚に懸想している』と誤解されないかしら?」
「陛下たちは『落ちたものは事故で落ちた、害意はなかった』と釈明する歌詞をアドリブで付け加えられまして、その歌が気に入った様子で、人魚は人間の言葉で歌い返したのです」
「どんな歌……?」
「人魚のうち九人は求愛を歓迎する、営みの場を用意するので……こほん」
言いかけてから、サイラスは言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。
「……仲良くする場を設けるので、人魚を愛する男性を連れてこいと……人魚は長命な種族で、女性しかいないらしく、生殖するときは陸地の男に協力いただくのが常だそうです」
なるほど、何を言いにくそうにしているのかと思えば生殖の営みの話――
フィロシュネーは納得しつつ、「残りのおひとりは男性お断りなの?」と問いかけた。
「おひとりはずっと昔に愛を誓い合った想い人がすでにいるのだそうですよ」
それはとてもロマンチックではないか――目を輝かせるフィロシュネーに、サイラスはちらりと視線を戻して問いかけた。
「空国の港に伝わる昔話を覚えていらっしゃいますか?」
「ええ。恋人の人魚と一緒に海の底に沈んでいって、途中で浮いて流れていってしまった男性のお話ですわね」
フィロシュネーは昔話を思い出した。
「それです。その男性が十人目の人魚の恋人だったようですよ」
あのお話は実際にあったお話だったのだ、とフィロシュネーが驚いていると、サイラスは足元を視線で示した。ふわふわと漂う死霊がそこにいる。
「あっ」
フィロシュネーは目を丸くした。死霊がこんなところに――それも、青国の預言者の部屋付近で見かけたあの死霊では?
「この死霊くんが教えてくれた話によれば、近くの島にその恋人の死霊がいるらしいのです」
「ねえ、あのう……あたくしの新しいパートナーは浮気をしにいきますの? ねえ……」
サロンメンバーの貴婦人がショックを受けた様子で周囲に尋ねている。真実を知った全員が視線を逸らして言葉を濁す船上は、気まずかった。
「シュネー、どうした? 人魚を見にきたのか、ふむふむ」
そんな現場にやってきた空王アルブレヒトと青王アーサーは「彼らは自分から人魚との関係を望んだのだ」と言って、貴婦人のこころにとどめを刺したのだった。
朝食を終えた頃、サロンの外から知らせが齎された。
「人魚たちは演奏を気に入った様子で、空王陛下の友好の挨拶に人間の言葉を返したのだとか」
危険がないならば、と貴婦人たちが好奇心をあらわにしてデッキに向かうので、フィロシュネーは付いて行った。
ゆったりとした曲が演奏されていて、デッキに人が集まっている。
画家のバルトュスが小さな男の子を抱っこしていて、「パパ、人魚さんいなくなったぁ!」という声が聞こえる。
(バルトュスには子供がいらしたのね)
バルトゥスが我が子に注ぐ眼差しには、父親の愛情があふれていた。
集まっていた人の中に、逃げるように距離を取る者たちがいる。先日の騒動で妻と離婚する羽目になった貴族男性たちや、船上での離婚手続きに必要な書類作成に駆り出されて大忙しだった文官たちだ。
「まあ! あたくしの新しいパートナーが小船に乗ってるわ。なにをなさっているのかしら」
サロンメンバーの貴婦人のひとりが海を見る。気まずそうに逃げていく元夫の存在は目に入らない様子だ。
海には、客船の男性を乗せた小船があった。小船はどこかへ向かって離れていく……。
「姫、いらしたのですね」
フィロシュネーの姿を見つけて、サイラスが寄ってくる。
「船内でよからぬことが起きているようです。護衛を増やして、身の安全を第一になさってください」
「それは昨夜聞きました」
「毎朝繰り返しましょう。申し上げても効果が薄いようなので」
サイラスは『お見通し』という顔で、この時間までの顛末を教えてくれた。
「どこかのお姫様が人魚に音楽を聞かせたのだそうで、楽団が演奏を始めたのですよ」
「それはわたくしですわね。身の安全を第一に、自分の部屋のバルコニーで演奏したのですわ」
危ないことはしていないのだ。フィロシュネーは肩をそびやかした。
「……まあ、いいでしょう」
サイラスは諦めたように言って、話を続けた。
「まず、人魚は十人いたのです」
十人はいずれも上半身が美しい女性で、下半身は魚だったと説明してから、サイラスは「もちろん、美しいと言っても姫の美しさにはかないませんのでご安心ください」と付け足した。
「わたくし、自分以外が美しいと褒められて機嫌を損ねるような狭量なお子様に見えますの?」
『機嫌を取られた』――そう感じて言えば、サイラスは「姫は大人なのでしたね」と、また子供扱いな口調で言う。
(これは、突っかかるほど子供扱いされるわね。よろしい! わたくしは大人ですから、優雅に微笑んでスルーして差し上げてよ……!)
フィロシュネーは扇を広げ、「そうよ、うふふ。さあつづきをおっしゃい」と猫撫で声で促してあげた。サイラスは残念な生き物を見るような眼をしてから、視線を海に逸らして話をつづけた。
「人魚は最初、我々が血や油絵具や残飯で海を汚して挑発した、と怒っていたのです。ですが、空王青王両陛下が歌を歌われまして、人魚はうたを返しました」
海にあれこれ落としたのは恐らく《輝きのネクロシス》の仕業だ。フィロシュネーは「迷惑な方々」と思いつつ、首をかしげた。
「歌? 歌ったの?」
歌というのは、あの歌かしら。らーららー♪ と歌う感じのあれかしら。
「その歌です。お二人は仲良く肩を組み、有名な航海の歌『おれたち海賊、人魚に惚れた』をうたわれたのです」
『おれたち海賊、人魚に惚れた』は、その名の通り海賊が人魚に惚れた歌だ。歌詞は熱烈に人魚を讃え、求愛する内容となっている……。
「それ、『わたくしたちが海賊で、お兄様たちが人魚に懸想している』と誤解されないかしら?」
「陛下たちは『落ちたものは事故で落ちた、害意はなかった』と釈明する歌詞をアドリブで付け加えられまして、その歌が気に入った様子で、人魚は人間の言葉で歌い返したのです」
「どんな歌……?」
「人魚のうち九人は求愛を歓迎する、営みの場を用意するので……こほん」
言いかけてから、サイラスは言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。
「……仲良くする場を設けるので、人魚を愛する男性を連れてこいと……人魚は長命な種族で、女性しかいないらしく、生殖するときは陸地の男に協力いただくのが常だそうです」
なるほど、何を言いにくそうにしているのかと思えば生殖の営みの話――
フィロシュネーは納得しつつ、「残りのおひとりは男性お断りなの?」と問いかけた。
「おひとりはずっと昔に愛を誓い合った想い人がすでにいるのだそうですよ」
それはとてもロマンチックではないか――目を輝かせるフィロシュネーに、サイラスはちらりと視線を戻して問いかけた。
「空国の港に伝わる昔話を覚えていらっしゃいますか?」
「ええ。恋人の人魚と一緒に海の底に沈んでいって、途中で浮いて流れていってしまった男性のお話ですわね」
フィロシュネーは昔話を思い出した。
「それです。その男性が十人目の人魚の恋人だったようですよ」
あのお話は実際にあったお話だったのだ、とフィロシュネーが驚いていると、サイラスは足元を視線で示した。ふわふわと漂う死霊がそこにいる。
「あっ」
フィロシュネーは目を丸くした。死霊がこんなところに――それも、青国の預言者の部屋付近で見かけたあの死霊では?
「この死霊くんが教えてくれた話によれば、近くの島にその恋人の死霊がいるらしいのです」
「ねえ、あのう……あたくしの新しいパートナーは浮気をしにいきますの? ねえ……」
サロンメンバーの貴婦人がショックを受けた様子で周囲に尋ねている。真実を知った全員が視線を逸らして言葉を濁す船上は、気まずかった。
「シュネー、どうした? 人魚を見にきたのか、ふむふむ」
そんな現場にやってきた空王アルブレヒトと青王アーサーは「彼らは自分から人魚との関係を望んだのだ」と言って、貴婦人のこころにとどめを刺したのだった。
0
お気に入りに追加
280
あなたにおすすめの小説
婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました
kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」
王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。
だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。
全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
【完結】いてもいなくてもいい妻のようですので 妻の座を返上いたします!
ユユ
恋愛
夫とは卒業と同時に婚姻、
1年以内に妊娠そして出産。
跡継ぎを産んで女主人以上の
役割を果たしていたし、
円満だと思っていた。
夫の本音を聞くまでは。
そして息子が他人に思えた。
いてもいなくてもいい存在?萎んだ花?
分かりました。どうぞ若い妻をお迎えください。
* 作り話です
* 完結保証付き
* 暇つぶしにどうぞ
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
王命を忘れた恋
須木 水夏
恋愛
『君はあの子よりも強いから』
そう言って貴方は私を見ることなく、この関係性を終わらせた。
強くいなければ、貴方のそばにいれなかったのに?貴方のそばにいる為に強くいたのに?
そんな痛む心を隠し。ユリアーナはただ静かに微笑むと、承知を告げた。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる