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1章
31、罪を犯したのは
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時は少し戻り、甲の刻(十六時)。
ここは、どこだろう。
桃源郷だろうか。
とある男が、どこかわからない場所で意識を覚醒させた。
男は、大病を患っていた。
もう助からぬと言われて、実際「もう勘弁してくれ」とうなされるほどの苦痛に覆われた闘病生活を送り、弱り果てていた。恋人の女がずっと身を削り彼を看病してくれていたが、申し訳なくて堪らなかった。
哀れな女は、麻薬をそうと知らず彼に与えた。
彼もまた、最初は「この薬は奇跡のようによく効く。さすがは諸葛老師」と感激して希望を抱いたが、やがて現実に気付いた。
気付いてしまった時、彼自身よりも女が深く傷つき、ショックを受けていて、本当に申し訳ないと思った。
ここ最近はいよいよ終わりが近いとみえて、昼も夜もわからなくなっていた。
意識は途切れ途切れで、ふと浮かんでは沈み、気づけば時間が経っている。
そんな彼がこの時は、不思議な高揚感と、安心感と、体調の良さを感じていた。
麻薬に似ている。
しかし――――指一本すらもう動かせないと思っていた自分は今、臥牀の上で身を起こしていないか?
腕も脚も病み細っているが、そんな不調がどこかに飛んでいったみたいに感じる。
痛くない。苦しくない。身体が動かせる。不思議だ。
「教えてあげましょう」
とてもいい匂いがして視線を向けると、天女がいた。
「あなたの恋人は、罪を犯しました。あなたのためにです。そして今、処刑場で罪を問われています」
「なん、だと」
声が出る。
しゃがれていて、聞き苦しいが、喋ることができた。
ああ、そんなことより、天女がとんでもないことを教えてくれるではないか?
「罪を認めると、彼女は罪人として処刑されてしまうのですわ」
彼女が何をしたと言うのだろう。
男は「行かねば」と思った。
足を動かせば、動く。
「お、……おお……」
立ち上がることができて、歩くことができる。
「ありがとうございます、天女様」
天女は、人形を持っていた。
その人形をすいすいと揺らし、天女は「いいのです」と微笑んだ。
とても優しい微笑だった。
「ごほっ、ごほっ」
ぽたり、ぽたりと鼻から血が流れ、口からごぼりと血が零れる。
「う……やはり麻薬のおかげで苦痛がないだけで、体は限界らしい」
けれど、動ける。
歩ける。……走れる。
ならば、行こう。
俺を献身的に看病して尽くしてくれた、可哀想で愛しい女のもとへ。
こちらですわ、と天女が導いてくれるから、彼は走った。
そして、処刑場へとたどり着いた。
* * *
「ヨ゛ウ、リ゛ン……は、む゛じつ、ダ」
突然、処刑場にやってきた一団は、『紅淑妃』胡月妃とその侍女団だった。
それに、見るからに瀕死の、屍人みたいな男性がいる。
立って歩いているのが奇跡みたいな彼は桜綾の前に立ち、両腕を広げて、叫んだ。
残りわずかの精魂をふりしぼり、全身全霊を捧げ尽くすような声だった。
「俺が、や゛った‼ 罪を゛、犯しダのハ、オ゛レだ!」
血を吐きながら渾身の叫びを響かせて、ぐらりと全身を傾け、倒れた。
悲鳴をあげた桜綾がその体を抱きしめた時、彼はもう事切れていた。
「…………」
「い、いやアぁ。やだァぁ‼ ……アぁァアアアアア‼」
桜綾は泣きじゃくり、幼子のように首を振った。
そして、ついに言った。
「彼じゃ……ありません。彼は、悪いことを何もしてません。彼を罪人扱いしないでください」
女の瞳には、愛があった。
恨みも、憎しみも、どこかに追いやって、ただ「愛しい男の名誉を守りたい」という情念が燃えていた。
「私です……私が、やりました」
女は、罪を認めた。
* * *
「私です……私が、やりました」
突然の乱入者。そして、ようやくの告白。
状況に理解が追い付かない、そんな顔だった宮正たちは、その言葉にハッと顔を見合わせた。
彼女が『自分がやった』と言ったのだから、この『処刑遊戯』は終わりだ。
あとは彼女を拘束し、処刑すればいい。
数人が桜綾に近付こうとした時、羊の鳴き声が響いた。
「……めえええ」
愛らしい鳴き声は、緊迫した場にあまりにも不似合いだった。一声で「ふにょん」と気が抜ける、そんなのーんびりとした声だった。
しかも、それに続いて、彼らにとって無視できない声が響く。
「これはなかなか、心の痛む光景ではないか」
決して、大声ではなかった。
だが、声を聞いた人々にとっては突如太陽が落ちてきたような衝撃だった。
人々が弾かれたように一斉に振り返る。
そして、直前までの一切の混乱を忘れたかのように叩頭した。
皆がその人物が誰なのか知っていた。
「――皇帝陛下!」
処刑場の入り口には、皇帝がいたのだ。なぜか、桃色の服を着た散歩ひもつきの羊を連れて。
黒鋼のような髪の頭に冕冠をかぶり、筋骨隆々とした体躯に紫龍の刺繡が施された龍袍を纏い。
冕冠から垂れる旒(玉飾り)をしゃらりと鳴らせて、皇帝は美髯をしごいた。
「構わぬ、楽にせよ」
おおらかに言って、その瞳が人々を視る。
紺紺は気づいた。
以前と違い、皇帝の目元には隈がない。
睡眠不足が解消されている――
「めえぇぇえ」
「よし、よし、めえこ。お散歩は楽しいのう」
羊を撫でる皇帝は、改めて仰ぎみると風格がある偉丈夫だ。
以前より肌艶がよく、健康的になっていて、贅肉が削ぎ落とされた印象。
骨張った手は、武人のもの。
武を極めんとするものならずとも、肌で感じる闘気、覇気――、
父を思い出すような、温かみと威厳が同居する上位者の気配だ。
「黒貴妃に紅淑妃……朕の愛しい二輪花、麗しの妃たちが揃って、なんとも物騒な遊戯に興じていることよな。先見の公子の奏上により参ったが、『凄惨』という感想を思いついたぞ」
魅了の気配を消してかしこまる二人の妃、委縮しきった宮正たち、呆然とするばかりの冤罪被害者、愛しい男の亡骸を抱えてむせび泣く罪人。
そして、自分が任務を命じた『傾城』が扮する侍女。
全員を順に見つめて、皇帝は髭をたくわえた口元に鷹揚な笑みを浮かべた。
「妃と侍女は朕の財産であり、天下の万民はひとりとして代わるもののなき宝である。むろん、罪は裁かねばならぬが」
皇帝は、今回の事件を貴妃の裁量から取り上げて、自分が詳細を調査し直させ、裁くと宣言した。
「朕は宮殿内の些末事に口うるさくすることはなく、妃たちの自由にさせている。『好きにせよ』と――それは、朕の籠の鳥である妃らの不自由な生涯を哀れに思うがゆえの慈悲であった」
紺紺は、ふと霞幽が手紙に書いた文言を思い出した。
『好きにおし』……あれは、実は皇帝の影響を受けていたりするのかもしれない。
「めぇええ」
羊のめえこが緊張感をそぐ鳴き声を響かせる中、皇帝は黒貴妃と紅淑妃を睥睨し、威厳たっぷりに言い放った。
「しかし、朕の宝である人命をいたずらに奪う遊戯は、些末事ではない。今後は許さぬと心得よ」
そして、その視線は宮正たちへと注がれる。
「そなたらは皇帝の臣であり、妃の臣ではない。そのことを思い出すように」
もう、大丈夫そうだ。
ほっと気が緩んだ時、皇帝がぐるりと視線をめぐらせて、紺紺に目を留めた。
「そなたは疲れているようだな。怪我もしている。熱もあるのではないか? 休むがよい」
指摘された途端に、疲労感を自覚した。
全身がくたくたで、力が足元に吸い込まれていくみたいな虚脱感がある。
風邪の引き初めみたいな熱さもあって、瞼がどんどん重くなる。
――疲れた。怠い。眠い。
「は……」
自覚したのがいけなかったのか、紺紺はふらふらと脱力して、くたりと倒れこんでしまった。
――限界だ。
「むむっ。この場で休めとは言ってないのだが。仕方あるまい、医師を手配せよ。この娘を治療するように。できれば先見の公子には秘密に……いや、教えて反応を見るか……いや、朕が殺されるかもしれぬ……悩ましいな」
「めえぇぇ」
こうして事件は皇帝預かりとなり、幕を下ろしたのだった。
ここは、どこだろう。
桃源郷だろうか。
とある男が、どこかわからない場所で意識を覚醒させた。
男は、大病を患っていた。
もう助からぬと言われて、実際「もう勘弁してくれ」とうなされるほどの苦痛に覆われた闘病生活を送り、弱り果てていた。恋人の女がずっと身を削り彼を看病してくれていたが、申し訳なくて堪らなかった。
哀れな女は、麻薬をそうと知らず彼に与えた。
彼もまた、最初は「この薬は奇跡のようによく効く。さすがは諸葛老師」と感激して希望を抱いたが、やがて現実に気付いた。
気付いてしまった時、彼自身よりも女が深く傷つき、ショックを受けていて、本当に申し訳ないと思った。
ここ最近はいよいよ終わりが近いとみえて、昼も夜もわからなくなっていた。
意識は途切れ途切れで、ふと浮かんでは沈み、気づけば時間が経っている。
そんな彼がこの時は、不思議な高揚感と、安心感と、体調の良さを感じていた。
麻薬に似ている。
しかし――――指一本すらもう動かせないと思っていた自分は今、臥牀の上で身を起こしていないか?
腕も脚も病み細っているが、そんな不調がどこかに飛んでいったみたいに感じる。
痛くない。苦しくない。身体が動かせる。不思議だ。
「教えてあげましょう」
とてもいい匂いがして視線を向けると、天女がいた。
「あなたの恋人は、罪を犯しました。あなたのためにです。そして今、処刑場で罪を問われています」
「なん、だと」
声が出る。
しゃがれていて、聞き苦しいが、喋ることができた。
ああ、そんなことより、天女がとんでもないことを教えてくれるではないか?
「罪を認めると、彼女は罪人として処刑されてしまうのですわ」
彼女が何をしたと言うのだろう。
男は「行かねば」と思った。
足を動かせば、動く。
「お、……おお……」
立ち上がることができて、歩くことができる。
「ありがとうございます、天女様」
天女は、人形を持っていた。
その人形をすいすいと揺らし、天女は「いいのです」と微笑んだ。
とても優しい微笑だった。
「ごほっ、ごほっ」
ぽたり、ぽたりと鼻から血が流れ、口からごぼりと血が零れる。
「う……やはり麻薬のおかげで苦痛がないだけで、体は限界らしい」
けれど、動ける。
歩ける。……走れる。
ならば、行こう。
俺を献身的に看病して尽くしてくれた、可哀想で愛しい女のもとへ。
こちらですわ、と天女が導いてくれるから、彼は走った。
そして、処刑場へとたどり着いた。
* * *
「ヨ゛ウ、リ゛ン……は、む゛じつ、ダ」
突然、処刑場にやってきた一団は、『紅淑妃』胡月妃とその侍女団だった。
それに、見るからに瀕死の、屍人みたいな男性がいる。
立って歩いているのが奇跡みたいな彼は桜綾の前に立ち、両腕を広げて、叫んだ。
残りわずかの精魂をふりしぼり、全身全霊を捧げ尽くすような声だった。
「俺が、や゛った‼ 罪を゛、犯しダのハ、オ゛レだ!」
血を吐きながら渾身の叫びを響かせて、ぐらりと全身を傾け、倒れた。
悲鳴をあげた桜綾がその体を抱きしめた時、彼はもう事切れていた。
「…………」
「い、いやアぁ。やだァぁ‼ ……アぁァアアアアア‼」
桜綾は泣きじゃくり、幼子のように首を振った。
そして、ついに言った。
「彼じゃ……ありません。彼は、悪いことを何もしてません。彼を罪人扱いしないでください」
女の瞳には、愛があった。
恨みも、憎しみも、どこかに追いやって、ただ「愛しい男の名誉を守りたい」という情念が燃えていた。
「私です……私が、やりました」
女は、罪を認めた。
* * *
「私です……私が、やりました」
突然の乱入者。そして、ようやくの告白。
状況に理解が追い付かない、そんな顔だった宮正たちは、その言葉にハッと顔を見合わせた。
彼女が『自分がやった』と言ったのだから、この『処刑遊戯』は終わりだ。
あとは彼女を拘束し、処刑すればいい。
数人が桜綾に近付こうとした時、羊の鳴き声が響いた。
「……めえええ」
愛らしい鳴き声は、緊迫した場にあまりにも不似合いだった。一声で「ふにょん」と気が抜ける、そんなのーんびりとした声だった。
しかも、それに続いて、彼らにとって無視できない声が響く。
「これはなかなか、心の痛む光景ではないか」
決して、大声ではなかった。
だが、声を聞いた人々にとっては突如太陽が落ちてきたような衝撃だった。
人々が弾かれたように一斉に振り返る。
そして、直前までの一切の混乱を忘れたかのように叩頭した。
皆がその人物が誰なのか知っていた。
「――皇帝陛下!」
処刑場の入り口には、皇帝がいたのだ。なぜか、桃色の服を着た散歩ひもつきの羊を連れて。
黒鋼のような髪の頭に冕冠をかぶり、筋骨隆々とした体躯に紫龍の刺繡が施された龍袍を纏い。
冕冠から垂れる旒(玉飾り)をしゃらりと鳴らせて、皇帝は美髯をしごいた。
「構わぬ、楽にせよ」
おおらかに言って、その瞳が人々を視る。
紺紺は気づいた。
以前と違い、皇帝の目元には隈がない。
睡眠不足が解消されている――
「めえぇぇえ」
「よし、よし、めえこ。お散歩は楽しいのう」
羊を撫でる皇帝は、改めて仰ぎみると風格がある偉丈夫だ。
以前より肌艶がよく、健康的になっていて、贅肉が削ぎ落とされた印象。
骨張った手は、武人のもの。
武を極めんとするものならずとも、肌で感じる闘気、覇気――、
父を思い出すような、温かみと威厳が同居する上位者の気配だ。
「黒貴妃に紅淑妃……朕の愛しい二輪花、麗しの妃たちが揃って、なんとも物騒な遊戯に興じていることよな。先見の公子の奏上により参ったが、『凄惨』という感想を思いついたぞ」
魅了の気配を消してかしこまる二人の妃、委縮しきった宮正たち、呆然とするばかりの冤罪被害者、愛しい男の亡骸を抱えてむせび泣く罪人。
そして、自分が任務を命じた『傾城』が扮する侍女。
全員を順に見つめて、皇帝は髭をたくわえた口元に鷹揚な笑みを浮かべた。
「妃と侍女は朕の財産であり、天下の万民はひとりとして代わるもののなき宝である。むろん、罪は裁かねばならぬが」
皇帝は、今回の事件を貴妃の裁量から取り上げて、自分が詳細を調査し直させ、裁くと宣言した。
「朕は宮殿内の些末事に口うるさくすることはなく、妃たちの自由にさせている。『好きにせよ』と――それは、朕の籠の鳥である妃らの不自由な生涯を哀れに思うがゆえの慈悲であった」
紺紺は、ふと霞幽が手紙に書いた文言を思い出した。
『好きにおし』……あれは、実は皇帝の影響を受けていたりするのかもしれない。
「めぇええ」
羊のめえこが緊張感をそぐ鳴き声を響かせる中、皇帝は黒貴妃と紅淑妃を睥睨し、威厳たっぷりに言い放った。
「しかし、朕の宝である人命をいたずらに奪う遊戯は、些末事ではない。今後は許さぬと心得よ」
そして、その視線は宮正たちへと注がれる。
「そなたらは皇帝の臣であり、妃の臣ではない。そのことを思い出すように」
もう、大丈夫そうだ。
ほっと気が緩んだ時、皇帝がぐるりと視線をめぐらせて、紺紺に目を留めた。
「そなたは疲れているようだな。怪我もしている。熱もあるのではないか? 休むがよい」
指摘された途端に、疲労感を自覚した。
全身がくたくたで、力が足元に吸い込まれていくみたいな虚脱感がある。
風邪の引き初めみたいな熱さもあって、瞼がどんどん重くなる。
――疲れた。怠い。眠い。
「は……」
自覚したのがいけなかったのか、紺紺はふらふらと脱力して、くたりと倒れこんでしまった。
――限界だ。
「むむっ。この場で休めとは言ってないのだが。仕方あるまい、医師を手配せよ。この娘を治療するように。できれば先見の公子には秘密に……いや、教えて反応を見るか……いや、朕が殺されるかもしれぬ……悩ましいな」
「めえぇぇ」
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