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1章
2、どっかん、どっかん(2)
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馬で東に駆けること数日。
分厚い雲が月を隠していて先行き不透明な人生を象徴するような夜に、二人は国境近くの街に着いた。
「この辺りはもう当晋国ですよ。白家の迎えが場所を指定したので、参りましょう」
石苞は宿を取らず、街外れに向かった。
薄紅の花木が並び、地面に花雪洞が置かれていて、下からぼんやりと照らされているのが風流だ。
ここで、白家の迎えと落ち合うらしい。
「夜でも出店があるんですね。公主様、飴をどうぞ」
「ありがとう、石苞」
出店で買ってもらったサンザシ飴を頬張り、娘はにっこりとした。
この石苞は、自分を「逃がしてくれた」のだ。
五歳の娘にはわからないことがたくさんある。でも、お城は燃えていて、攻められていた。戦っていた。
……母も、厳しく接したのは娘のためで、娘を想って逃がしてくれたのだろうか。
そしてこの目の前の兵士は、おそらく本当は父のために残って戦いたかったのでは。――あの涙は、そういうことなのではないだろうか。
父と母は、崩御した?
なんて、口に出して質問することはできないけれど。
「……石苞、ありがと」
「二度もお礼を言ってくれて、公主様は礼儀正しくていらっしゃる」
「うふふ。私、石苞がすきだよ」
「ありがとうございます。光栄です」
この兵士は、味方だ。
優しくて、気を使ってくれて、守ってくれる人だ。
「飴、おいしいよ」
「よかったよかった。おれも自分の分を買いましょう」
飴を味わっていると、元気が出てくる。
贈り物をもらうのは好きだ。
嬉しいし、元気が出る。体が軽くなって、何でもできる気分になる。
強くなったみたい――以前、母に花釵を頂いた時に言って、笑われたことを思い出した。ちょっと恥ずかしい黒歴史だ。
「椅子がたくさんあるでしょう? 昼間は花を眺める人々が憩う場所らしいですよ。みんなしてお団子やサンザシ飴を食ったりして」
「宴をするの? 楽しそう」
「公主様、夜も遅いですし、お疲れでしょう。そこの長椅子に横になって眠っていても大丈夫ですよ」
「うん……でも、白家の方々にご挨拶したいから。それに、私、元気だよ。疲れてないよ」
贈り物のおかげだろう。嬉しくて、もらった瞬間に疲れはどこかへ消えてしまった。
夜闇はよく見通せるし、そういえば遠くから足音がするような――近づいてくる。
「綺麗な花を見ると心が洗われますし、美味しい食べ物は元気が出ますからね。『この場所で元気をもらってまた仕事を頑張ろう』って、皆が集まってくるのかもしれませんね」
石苞は、まだ気づいていない。
娘は首をかしげた。
「石苞、人がくるよ。お迎えがきたかも」
「おっ、いらっしゃいましたか……うん? これは……――」
人が来る方角を指で示すと、石苞はそちらを見て表情を変えた。
「……白家ではない! これは――」
「いたぞ! 公主だ!」
石苞が腰に佩いた剣を抜いたのと、武装兵の一隊が姿を見せたのは、ほぼ同時だった。
「すでに両陛下は弑し奉り、我らは新しい王のもとで国号を改めております。公主《こうしゅ》様におかれましては、ぜひともご両親のお供をしていただきたい」
武装兵は正晋国の甲冑を纏っていて、二人に剣や槍を向けてきた。その殺意が伝わり、娘はぞわりと鳥肌を立てた。
「公主様、お逃げください!」
「公主を逃がすな! 包囲しろ!」
刃と刃が衝突する、高い金属音が鳴り響く。
キィン、と。
「おおおおおおおおっ!」
左から右へと夜を裂くように剣閃を曳き、石苞が吠える。
己を鼓舞し相手を威嚇する雄叫びは、これまで穏やかに語り掛けてきた声とは、ぜんぜん違う。
雷霆のごとき振り下ろしが敵の兵士を血しぶきを生み、けれど石苞の鎧にも傷が増えていく。
多勢に無勢の不利は素人目にも明らかで、娘は慌てた。
――何かしなくてはいけない。
何もしないでいたら、石苞が死ぬ。自分も死ぬ。
そんな焦燥感が、じわり、じくりと胸を焼く。恐怖で凍えて震えていた指先に、火が燈る。
「ふぁっ」
指先に火がついた!
娘はぎょっとして自分の指を凝視した。熱くない。でも、指先が燃えてる。
手をぶんぶんしても、火が消えない。なあに、これ。
「グハ、ァッ……」
血に掠れた声が聞こえたのは、その直後だった。
ハッとして見れば、石苞の鎧が槍に貫かれて、血を流している。
痛そう、どころではない。止めどなく血があふれ、命が流れて――死んでしまう。
「ひっ……石苞!」
視界の隅で花びらが一枚、咲いていた枝を離れて宙に舞う。ひらり、はらりと地面に向けて舞い降りる様子は、ひどく緩慢に見えた。
「こうしゅ、さま。お守りできず……申し訳、ございません……」
石苞が余裕のない声で詫びてくる。
もう、ぼろぼろだ。
腕からも脚からも血を流して、今にも倒れてしまいそう。
――ここまでらしい。
死んでしまいます、ごめんなさい、と謝られている。
「せ、石苞……死なないで」
やだ。いやだ。
その時、恐怖で取り乱しそうになった娘の心に、いつか父が語った言葉が思い出された。
『いいかい』
『兵士は、君主のために命懸けで尽くしてくれる。だから、君主は「この人のために死ぬなら本望だ」と思わせる立派な態度でいないといけない』
――「この人のために死ぬなら本望だ」。
それで、死ぬ。
よくやったと褒めてもらって、彼の人生は終わるのだ。
父は「兵士とはそういう生き物なのだ」と説いていた。
「よし、今だ! 殺せ……!」
敵兵が決着がついたとばかりに歓声を挙げ、一斉に石苞に刃を向ける。
殺す気だ。
命を刈り取る予備動作のひとつひとつが明確に見て取れて、娘の喉がヒュっと鳴る。
――嫌だ。石苞を、殺さないで。
「……や、」
瞳の瞳孔が、きゅうと細まる。
叫んだのは、拒絶の言葉だった。
たった一言。「やだ」と。
「やあああああ! だあああああ‼」
幼い娘は、現実を拒絶する悲鳴をあげた。
立派に戦って死ぬ……、
そんな忠義の死なんか、いやだ。
よくやった、と褒めてその死を受け入れるなんて、いやだ。
それより、生きていてくれたほうがいい。
死なせたくない。
見ているだけ、受け入れるだけなんて、いやなんだ。
――私が、助けるんだ。
そんな強い望みが引き金となり――その指先に燈していた炎がぶわりと膨れる。
「ふぇっ」
間抜けな声が喉からこぼれるが、そんな声をかき消すように炎は暴れて、大きくなって、爆発した。爆発は、派手な音を連続させた。
どっかん、どっかん――爆発光と音に包まれた現場に、敵兵の悲鳴が連なった。
「なッ……!?」
「なんだあああっ!?」
娘を中心に突然巻き起こった眩い爆発光は、地上から夜を追い払うように苛烈にはじけて、全員の目を晦ませた。
音が止むまで、ほんの数秒。
その間に、天を覆っていた雲が風に流され、隠れていた月が現れる。
* * *
「こ……公主、様」
視力を取り戻した兵士たちが、一歩、後退る。
月を背に、母親譲りの艶髪を夜風になびかせて。
長衣の袖を翻して彼らを睨むのは、彼らにとって何の脅威でもなかったはずの、たったひとりの女の子。
彼らが殺害しようとしていた、たった五歳の公主様だ。
倒れ伏す忠臣を守るように庇って立つ姿は凛然としていて、冒してはならない神性を感じさせる。
――普通ではない。そう思わせる気配だった。
「退きなさい」
「……!」
幼い声が、愛らしくも威厳たっぷりに言い放つ。
その一言で、兵士たちは雷に打たれたように動揺し、数歩、後退った。
分厚い雲が月を隠していて先行き不透明な人生を象徴するような夜に、二人は国境近くの街に着いた。
「この辺りはもう当晋国ですよ。白家の迎えが場所を指定したので、参りましょう」
石苞は宿を取らず、街外れに向かった。
薄紅の花木が並び、地面に花雪洞が置かれていて、下からぼんやりと照らされているのが風流だ。
ここで、白家の迎えと落ち合うらしい。
「夜でも出店があるんですね。公主様、飴をどうぞ」
「ありがとう、石苞」
出店で買ってもらったサンザシ飴を頬張り、娘はにっこりとした。
この石苞は、自分を「逃がしてくれた」のだ。
五歳の娘にはわからないことがたくさんある。でも、お城は燃えていて、攻められていた。戦っていた。
……母も、厳しく接したのは娘のためで、娘を想って逃がしてくれたのだろうか。
そしてこの目の前の兵士は、おそらく本当は父のために残って戦いたかったのでは。――あの涙は、そういうことなのではないだろうか。
父と母は、崩御した?
なんて、口に出して質問することはできないけれど。
「……石苞、ありがと」
「二度もお礼を言ってくれて、公主様は礼儀正しくていらっしゃる」
「うふふ。私、石苞がすきだよ」
「ありがとうございます。光栄です」
この兵士は、味方だ。
優しくて、気を使ってくれて、守ってくれる人だ。
「飴、おいしいよ」
「よかったよかった。おれも自分の分を買いましょう」
飴を味わっていると、元気が出てくる。
贈り物をもらうのは好きだ。
嬉しいし、元気が出る。体が軽くなって、何でもできる気分になる。
強くなったみたい――以前、母に花釵を頂いた時に言って、笑われたことを思い出した。ちょっと恥ずかしい黒歴史だ。
「椅子がたくさんあるでしょう? 昼間は花を眺める人々が憩う場所らしいですよ。みんなしてお団子やサンザシ飴を食ったりして」
「宴をするの? 楽しそう」
「公主様、夜も遅いですし、お疲れでしょう。そこの長椅子に横になって眠っていても大丈夫ですよ」
「うん……でも、白家の方々にご挨拶したいから。それに、私、元気だよ。疲れてないよ」
贈り物のおかげだろう。嬉しくて、もらった瞬間に疲れはどこかへ消えてしまった。
夜闇はよく見通せるし、そういえば遠くから足音がするような――近づいてくる。
「綺麗な花を見ると心が洗われますし、美味しい食べ物は元気が出ますからね。『この場所で元気をもらってまた仕事を頑張ろう』って、皆が集まってくるのかもしれませんね」
石苞は、まだ気づいていない。
娘は首をかしげた。
「石苞、人がくるよ。お迎えがきたかも」
「おっ、いらっしゃいましたか……うん? これは……――」
人が来る方角を指で示すと、石苞はそちらを見て表情を変えた。
「……白家ではない! これは――」
「いたぞ! 公主だ!」
石苞が腰に佩いた剣を抜いたのと、武装兵の一隊が姿を見せたのは、ほぼ同時だった。
「すでに両陛下は弑し奉り、我らは新しい王のもとで国号を改めております。公主《こうしゅ》様におかれましては、ぜひともご両親のお供をしていただきたい」
武装兵は正晋国の甲冑を纏っていて、二人に剣や槍を向けてきた。その殺意が伝わり、娘はぞわりと鳥肌を立てた。
「公主様、お逃げください!」
「公主を逃がすな! 包囲しろ!」
刃と刃が衝突する、高い金属音が鳴り響く。
キィン、と。
「おおおおおおおおっ!」
左から右へと夜を裂くように剣閃を曳き、石苞が吠える。
己を鼓舞し相手を威嚇する雄叫びは、これまで穏やかに語り掛けてきた声とは、ぜんぜん違う。
雷霆のごとき振り下ろしが敵の兵士を血しぶきを生み、けれど石苞の鎧にも傷が増えていく。
多勢に無勢の不利は素人目にも明らかで、娘は慌てた。
――何かしなくてはいけない。
何もしないでいたら、石苞が死ぬ。自分も死ぬ。
そんな焦燥感が、じわり、じくりと胸を焼く。恐怖で凍えて震えていた指先に、火が燈る。
「ふぁっ」
指先に火がついた!
娘はぎょっとして自分の指を凝視した。熱くない。でも、指先が燃えてる。
手をぶんぶんしても、火が消えない。なあに、これ。
「グハ、ァッ……」
血に掠れた声が聞こえたのは、その直後だった。
ハッとして見れば、石苞の鎧が槍に貫かれて、血を流している。
痛そう、どころではない。止めどなく血があふれ、命が流れて――死んでしまう。
「ひっ……石苞!」
視界の隅で花びらが一枚、咲いていた枝を離れて宙に舞う。ひらり、はらりと地面に向けて舞い降りる様子は、ひどく緩慢に見えた。
「こうしゅ、さま。お守りできず……申し訳、ございません……」
石苞が余裕のない声で詫びてくる。
もう、ぼろぼろだ。
腕からも脚からも血を流して、今にも倒れてしまいそう。
――ここまでらしい。
死んでしまいます、ごめんなさい、と謝られている。
「せ、石苞……死なないで」
やだ。いやだ。
その時、恐怖で取り乱しそうになった娘の心に、いつか父が語った言葉が思い出された。
『いいかい』
『兵士は、君主のために命懸けで尽くしてくれる。だから、君主は「この人のために死ぬなら本望だ」と思わせる立派な態度でいないといけない』
――「この人のために死ぬなら本望だ」。
それで、死ぬ。
よくやったと褒めてもらって、彼の人生は終わるのだ。
父は「兵士とはそういう生き物なのだ」と説いていた。
「よし、今だ! 殺せ……!」
敵兵が決着がついたとばかりに歓声を挙げ、一斉に石苞に刃を向ける。
殺す気だ。
命を刈り取る予備動作のひとつひとつが明確に見て取れて、娘の喉がヒュっと鳴る。
――嫌だ。石苞を、殺さないで。
「……や、」
瞳の瞳孔が、きゅうと細まる。
叫んだのは、拒絶の言葉だった。
たった一言。「やだ」と。
「やあああああ! だあああああ‼」
幼い娘は、現実を拒絶する悲鳴をあげた。
立派に戦って死ぬ……、
そんな忠義の死なんか、いやだ。
よくやった、と褒めてその死を受け入れるなんて、いやだ。
それより、生きていてくれたほうがいい。
死なせたくない。
見ているだけ、受け入れるだけなんて、いやなんだ。
――私が、助けるんだ。
そんな強い望みが引き金となり――その指先に燈していた炎がぶわりと膨れる。
「ふぇっ」
間抜けな声が喉からこぼれるが、そんな声をかき消すように炎は暴れて、大きくなって、爆発した。爆発は、派手な音を連続させた。
どっかん、どっかん――爆発光と音に包まれた現場に、敵兵の悲鳴が連なった。
「なッ……!?」
「なんだあああっ!?」
娘を中心に突然巻き起こった眩い爆発光は、地上から夜を追い払うように苛烈にはじけて、全員の目を晦ませた。
音が止むまで、ほんの数秒。
その間に、天を覆っていた雲が風に流され、隠れていた月が現れる。
* * *
「こ……公主、様」
視力を取り戻した兵士たちが、一歩、後退る。
月を背に、母親譲りの艶髪を夜風になびかせて。
長衣の袖を翻して彼らを睨むのは、彼らにとって何の脅威でもなかったはずの、たったひとりの女の子。
彼らが殺害しようとしていた、たった五歳の公主様だ。
倒れ伏す忠臣を守るように庇って立つ姿は凛然としていて、冒してはならない神性を感じさせる。
――普通ではない。そう思わせる気配だった。
「退きなさい」
「……!」
幼い声が、愛らしくも威厳たっぷりに言い放つ。
その一言で、兵士たちは雷に打たれたように動揺し、数歩、後退った。
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