恋するクロネコ🐾

秋野 林檎 

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わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ (元良親王)…逢いたい。

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大人になっていく道へと、一歩前に進んだ翔兄。

だからだろうか…。
平蔵はそれから一度も現れてはいない。
平蔵は…安心したのかなぁ。
自分の前に立ちはだかる壁を乗り越えようとし始めた翔兄に安心し、もう手を貸す必要がなくなったとわかったから、平蔵は姿を見せなくなったのかなぁ。

平蔵。私だって、翔兄がこれから先、生きてゆく為には、私なんかより、早く大人にならなきゃいけないことはわかってる。だけど、その反面不安なの。

翔兄にとって、私は幼い頃の悲しみから、抜け出したきっかけだったから…その悲しみや辛さを乗り越えられる力を得た翔兄には、もう私の事が必要ないと思ってしまう。

たった一歩、たった2つの年齢差なのに、私よりずっと前に行ってしまった翔兄。

こんな気持ちだったから、イギリスでも頑張ってと翔兄に言えなかったのかなぁ。

イギリスでも頑張って…か。

そのひとことが言えないまま、クリスマスが過ぎ、そしてお正月が過ぎ、松宮さんのところに行ってから、もう一ヶ月近く経ってしまった。あれから翔兄は、イギリスでの新生活の準備で2度ほど渡英して、忙しい日々を送っていたが、何度も私の家に訪ねて来てくれた、でも私はいろんな理由を言って、翔兄に会わない様にしていた。

会いたいんだけど、会えば辛くて…何よりどんな顔で会ったらいいのかわからなかったから。




「はぁ~明日からまた学校か…」

ぼんやりと窓から空を見上げれば、ただでも暗い気持ちを、より重く抑えつけるように、灰色の雲が空を覆っている。

「何やってんだろう…私は」


思わず出た独り言だったのに、言葉が…返ってきた。
「何やってんだろうって?俺が答えてやる。おまえはバカで、いろんなことから逃げてるんだよ。」

その声はノックもなしに部屋に入ってきたお兄ちゃんだった。


「お…お兄ちゃん?!ノ、ノックもなしで入らないでよ!」

お兄ちゃんはムッとした顔で、扉を叩いた。

「今…ノックしても意味がないじゃん!」

「フン!ノックなどどうでもいい、バカ花音、なぜ翔太から逃げてる?」


「お兄ちゃんには…関係ないよ…」

「わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ (元良親王)

花音、お前はこの歌の意味がわかるか?
簡単に言えば、好きな人に逢いたいという意味だ!おまえの気持ち、そのまんまだろう。」


私は…唇を噛んで下を向いた。


ささくれた気持ちに、お兄ちゃんの言葉は辛くて、余裕がないままイラつく気持ちで叫んでいた。

「そうよ。その和歌の通りよ!でも翔兄はイギリスに行っちゃうんだよ。どんどん前を歩いて行ってるの。そんな翔兄に、私なんか必要ないもん!」

「ほんと…おまえはバカだ!必要ないって?!そんな事を言っていたら、一歩だって進めないぞ!まず一歩、お前も進め!翔太に会って、気持ちを言え!」

「バカはどっちよ!会って、イギリスに行かないでとでも言うの?」

「そうだ!好きだから行かないでと言え!たぶん、翔太は行くだろうが。」

「なに?それ…。私に当たって砕けろと…言ってるの?」」

「バカ!わからないのか?!なぜあいつがイギリスに行くのか?翔太はおまえと…」

「わかんないよ!バカだからわかんない!」
そう言って、お兄ちゃんの横をすり抜け、逃げるように外へ飛び出した。
お兄ちゃんの言葉を最後まで聞かないで…




真一は、右手で力一杯、壁を叩くと
「翔太はおまえとの未来の為に行くんだぞ…。バカ、ちゃんと最後まで聞いて行け。」

そう言って、小刻みに壁を叩き、その音が大きくなった時「くそっ~!!」と叫んでいた。




寒い…。
外は雪が降り出していた。
ふう~と手袋をしていない手の平に息を吹きかけ、空を見上げた。冷たい雪が顔に降り注いでくる。

Pコートを掴んで飛び出した来たのは正解だったなぁ…とぼんやり考えながら歩いていた。どこに向かって歩いていたわけではなかったが、足は学校へと向かっていたらしい。気がついたら、学校の門の前だった。グランドは薄っすらと雪が積もり、白い絨毯を敷いているようだった。足跡をつけながらグランドを歩いて行ったら、サッカーゴールの前で足が止まった。

冷え切ったサッカーゴールに、そっと手を伸ばしたら、触れた指先が冷たくて震えたが、だけど胸は正反対に熱く震え、あの日感じた思いが蘇ってくる。

あの雨の日、翔兄はこのサッカーゴールにもたれ泣いていた、大事な人たちをまた亡くすかもしれないという恐怖と寂しさ、おじいさんのためにどうしたらいいのかわからないジレンマ、そして実の父親の存在…押しつぶされそうな出来事にとうとう耐え切れなくて、ここで翔兄は泣いていた。


…その姿に私は恋をしたんだ。翔兄と知らずに恋をしたんだ。
上手に泣けない人がようやく泣けたという姿が、心のどこかで翔兄と感じたのかもしれない。

あの日の翔兄のように、サッカーゴールに凭れて空を見上げた。
雨ではなく、雪だったが、顔に落ちた時点で水になっていく感触は…あの不思議な出来事の始まりと…同じだ。

それは…
雨に濡れ小さくて痩せた黒い子猫が見せてくれた奇跡。

…ぁ…でも平蔵はどうして、自分の代わりに私を黒い子猫にして翔兄の側に…?
翔兄の側にいたから、本当の翔兄を知ることができたんだけど…私じゃなくても良かっただろうに…どうして?
   
平蔵の意図がわからなくて、どうしてと言うように
「平蔵…。」とその名前を口にした。



「にゃぁ~ん」


猫の声が聞こえたと思ったら…足元が暖かい熱に包まれた。
ハッとして足元を見ると、黒い子猫が私の足元に長い尻尾を絡ませている。

「まさか…へ、平蔵?」

と言って手を伸ばしたが、その手は黒い子猫に触れる前に、大きな手に腕を引かれ、雪で湿ったコートに抱きしめられた。

*訳
【これほど思い悩んでしまったのだから、今はどうなっても同じことだ。難波の海に差してある澪漂(標識)ではないが、この身を滅ぼしてもあなたに逢いたいと思う。】
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