163 / 233
第四話 闇の在処(ありか)
六章:ニ 闇の地:朱桜の巨木
しおりを挟む
はらりと頬に何かが触れる。六の君はその気配でぼんやりと目を覚ました。
既に辺りは明るい。ゆっくりと内庭へ顔を向けると、見事に花をつけた朱桜の巨木が視界に飛び込んでくる。
いつのまにか朱桜の花が咲く時期が巡っていたのかと思ったが、六の君はすぐにまだ夢の続きを彷徨っているのだと考え直した。
闇の地に朱桜は咲かない。敷地内に朱桜の木がないのだから、見ることは叶わない筈だった。
まだ目覚めきれずにいる六の君の頬に、ふたたびはらりと気配が触れる。
内庭からの緩やかな風が、赤い花びらを運んでくる。それは広廂を埋め尽くし、居室にまで舞い散っていた。
瞬きをしても失われない眩い光景。六の君はようやく横たえていた体を起こし、ふらつく足元を気にも留めず広廂まで歩み出た。
内庭を飾っている視界いっぱいの朱桜の巨木。故郷の花にも負けない美しさで、咲き誇っている。
(やっぱり、夢のつづき?)
六の君が匂欄にしがみつくようにして魅入っていると、「朱桜の姫君」と聞きなれた声がした。
麟華が誰かを呼んでいるのだ。華艶の美女以外に来客でもあったのだろうか。闇呪ほどの殿方であれば慕って訪れる女がいても不思議ではない。今まで自分が知らなかっただけだろう。あるいは妃であるという立場から、知られないように配慮されていたのかもしれない。
朱桜という愛称をいただく姫君。きっと美しい方なのだろう。知らずに吐息をつきながら六の君は何気なく声のした方を向いた。
「姫君!」
こちらに続く軒廊から麟華が身を乗り出すようにして大きく手を振っている。
「朱桜の君、具合はどう?」
六の君の答えを待たず、麟華はすぐに目の前まで駆けつけて来た。
「起き出したりして平気? 長く臥せたまま目覚めないので心配したわ。だけど、顔色は悪くないわね。朱桜の君、何か召し上がる?なんでも用意するわよ」
麟華は嬉しそうに畳み掛けてくるが、六の君には何が起きているのかわからない。
なぜここに朱桜の巨木があるのか、なぜ自分が朱桜と呼ばれているのか。
けれど、それ以上に気になることがあった。
これが夢のつづきでなければ、一番に確かめなければならないのは――。
「あ、あの、麟華」
ようやく声を発すると、麟華がぴたりと口を閉ざして耳を傾けてくれる。
「闇呪の君のお加減はいかがなのですか?」
麟華は驚いたように目を丸くして「まぁっ」と声を上げる。
「目覚めて一番に主上のことを気にするなんて、朱桜の君ったらなんて愛らしい」
「そ、そんなこと、当たり前です。だって、闇呪の君は私のせいで大変な目にあったのですから。私が鬼の坩堝になど出向いたせいで――」
決して鬼の坩堝に近づいてはならない。六の君はその言いつけに背いた。鬼に囚われ、全てが終わるのだと覚悟した瞬間、闇呪に救われたのだ。けれど、悠闇剣を抜くことができない闇呪は、その身に鬼を封じた。
六の君には想像のつかない苦痛が彼を襲ったに違いない。昏倒した闇呪の傍らで、六の君はひたすら快復することを信じて尽くした。
ようやく闇呪の容態が落ち着いてきたとき、張り詰めていた何かがふっと緩んだのだろう。気を失い、闇呪の快復を確かめることもできないまま、今まで臥せっていたのだ。
「それで、闇呪の君は? あの方はご無事なのでしょうか?」
「大丈夫よ。姫君の健気な看病のおかげで主上は完全に快復されたわ」
「本当に?」
「ええ」
六の君がほっと息をつくと、ふいに麟華の手が頭に置かれた。
「姫君、本当にありがとう。そして、ごめんさない」
「え?」
六の君には感謝される理由も謝罪される理由も思い当たらない。不思議そうに麟華を見上げていると、彼女に強く抱きしめられる。
「私達は姫君に寂しい思いをさせていたのね。――ごめんなさい」
一瞬にして麟華の気持ちが伝わってくる。自分が鬼に囚われた時、閉じ込めていた心の闇が明らかになった。きっと麟華にも知られてしまったに違いない。
「そ、そんな。違う、違います。麟華は悪くないし、誰も悪くありません。言いつけに背いた私が悪いんです」
焦って声を上げるが、自分を抱きしめる麟華の腕は緩まない。柔らかな心地の良い温もりだった。六の君はふと視界の端に朱桜の花を映して、はっと気付く。
「もしかして、それでここに朱桜の巨木を?」
尋ねると麟華の腕が緩む。嬉しそうな笑顔が返ってきた。
「姫君には朱桜の花がよく似合うわ。だからここにも咲かせるべきでしょ? それに、六の君なんてつまらないもの。姫君の愛称は朱桜の姫君で決まりよ」
「わたしが、朱桜?」
六の君――朱桜は思わず内庭の美しい巨木を見た。鮮やかな光景と自身の姿がうまく重ならない。自分にはもったいないと思えたが、麟華があまりにも堂々と豪語するので、不思議とためらいはなかった。
「ありがとう、麟華」
素直に微笑むと、再び麟華の腕が伸びてくる。
「朱桜の君ったら、愛らしい」
ぐりぐりと頭に頬ずりをする麟華の仕草に、朱桜は声をたてて笑った。
今は麟華の気遣いや思いを嬉しいと感じられる。どうしてあんなに孤独だと思ってしまったのだろう。闇呪と不釣合いであることを嘆く前に、自分にはもっと出来ることがあったはずなのだ。
妃であることにこだわる必要はない。ただ彼のために何かができれば良いのだ。
そして。
鬼の坩堝で、彼は自分を見捨てはしなかった。
それだけで充分だった。それだけで、朱桜はここに在ることができる。
前を向いて生きていられる。
既に辺りは明るい。ゆっくりと内庭へ顔を向けると、見事に花をつけた朱桜の巨木が視界に飛び込んでくる。
いつのまにか朱桜の花が咲く時期が巡っていたのかと思ったが、六の君はすぐにまだ夢の続きを彷徨っているのだと考え直した。
闇の地に朱桜は咲かない。敷地内に朱桜の木がないのだから、見ることは叶わない筈だった。
まだ目覚めきれずにいる六の君の頬に、ふたたびはらりと気配が触れる。
内庭からの緩やかな風が、赤い花びらを運んでくる。それは広廂を埋め尽くし、居室にまで舞い散っていた。
瞬きをしても失われない眩い光景。六の君はようやく横たえていた体を起こし、ふらつく足元を気にも留めず広廂まで歩み出た。
内庭を飾っている視界いっぱいの朱桜の巨木。故郷の花にも負けない美しさで、咲き誇っている。
(やっぱり、夢のつづき?)
六の君が匂欄にしがみつくようにして魅入っていると、「朱桜の姫君」と聞きなれた声がした。
麟華が誰かを呼んでいるのだ。華艶の美女以外に来客でもあったのだろうか。闇呪ほどの殿方であれば慕って訪れる女がいても不思議ではない。今まで自分が知らなかっただけだろう。あるいは妃であるという立場から、知られないように配慮されていたのかもしれない。
朱桜という愛称をいただく姫君。きっと美しい方なのだろう。知らずに吐息をつきながら六の君は何気なく声のした方を向いた。
「姫君!」
こちらに続く軒廊から麟華が身を乗り出すようにして大きく手を振っている。
「朱桜の君、具合はどう?」
六の君の答えを待たず、麟華はすぐに目の前まで駆けつけて来た。
「起き出したりして平気? 長く臥せたまま目覚めないので心配したわ。だけど、顔色は悪くないわね。朱桜の君、何か召し上がる?なんでも用意するわよ」
麟華は嬉しそうに畳み掛けてくるが、六の君には何が起きているのかわからない。
なぜここに朱桜の巨木があるのか、なぜ自分が朱桜と呼ばれているのか。
けれど、それ以上に気になることがあった。
これが夢のつづきでなければ、一番に確かめなければならないのは――。
「あ、あの、麟華」
ようやく声を発すると、麟華がぴたりと口を閉ざして耳を傾けてくれる。
「闇呪の君のお加減はいかがなのですか?」
麟華は驚いたように目を丸くして「まぁっ」と声を上げる。
「目覚めて一番に主上のことを気にするなんて、朱桜の君ったらなんて愛らしい」
「そ、そんなこと、当たり前です。だって、闇呪の君は私のせいで大変な目にあったのですから。私が鬼の坩堝になど出向いたせいで――」
決して鬼の坩堝に近づいてはならない。六の君はその言いつけに背いた。鬼に囚われ、全てが終わるのだと覚悟した瞬間、闇呪に救われたのだ。けれど、悠闇剣を抜くことができない闇呪は、その身に鬼を封じた。
六の君には想像のつかない苦痛が彼を襲ったに違いない。昏倒した闇呪の傍らで、六の君はひたすら快復することを信じて尽くした。
ようやく闇呪の容態が落ち着いてきたとき、張り詰めていた何かがふっと緩んだのだろう。気を失い、闇呪の快復を確かめることもできないまま、今まで臥せっていたのだ。
「それで、闇呪の君は? あの方はご無事なのでしょうか?」
「大丈夫よ。姫君の健気な看病のおかげで主上は完全に快復されたわ」
「本当に?」
「ええ」
六の君がほっと息をつくと、ふいに麟華の手が頭に置かれた。
「姫君、本当にありがとう。そして、ごめんさない」
「え?」
六の君には感謝される理由も謝罪される理由も思い当たらない。不思議そうに麟華を見上げていると、彼女に強く抱きしめられる。
「私達は姫君に寂しい思いをさせていたのね。――ごめんなさい」
一瞬にして麟華の気持ちが伝わってくる。自分が鬼に囚われた時、閉じ込めていた心の闇が明らかになった。きっと麟華にも知られてしまったに違いない。
「そ、そんな。違う、違います。麟華は悪くないし、誰も悪くありません。言いつけに背いた私が悪いんです」
焦って声を上げるが、自分を抱きしめる麟華の腕は緩まない。柔らかな心地の良い温もりだった。六の君はふと視界の端に朱桜の花を映して、はっと気付く。
「もしかして、それでここに朱桜の巨木を?」
尋ねると麟華の腕が緩む。嬉しそうな笑顔が返ってきた。
「姫君には朱桜の花がよく似合うわ。だからここにも咲かせるべきでしょ? それに、六の君なんてつまらないもの。姫君の愛称は朱桜の姫君で決まりよ」
「わたしが、朱桜?」
六の君――朱桜は思わず内庭の美しい巨木を見た。鮮やかな光景と自身の姿がうまく重ならない。自分にはもったいないと思えたが、麟華があまりにも堂々と豪語するので、不思議とためらいはなかった。
「ありがとう、麟華」
素直に微笑むと、再び麟華の腕が伸びてくる。
「朱桜の君ったら、愛らしい」
ぐりぐりと頭に頬ずりをする麟華の仕草に、朱桜は声をたてて笑った。
今は麟華の気遣いや思いを嬉しいと感じられる。どうしてあんなに孤独だと思ってしまったのだろう。闇呪と不釣合いであることを嘆く前に、自分にはもっと出来ることがあったはずなのだ。
妃であることにこだわる必要はない。ただ彼のために何かができれば良いのだ。
そして。
鬼の坩堝で、彼は自分を見捨てはしなかった。
それだけで充分だった。それだけで、朱桜はここに在ることができる。
前を向いて生きていられる。
0
お気に入りに追加
134
あなたにおすすめの小説
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。
星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。
グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。
それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。
しかし。ある日。
シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。
聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。
ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。
──……私は、ただの邪魔者だったの?
衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
【完結】夫もメイドも嘘ばかり
横居花琉
恋愛
真夜中に使用人の部屋から男女の睦み合うような声が聞こえていた。
サブリナはそのことを気に留めないようにしたが、ふと夫が浮気していたのではないかという疑念に駆られる。
そしてメイドから衝撃的なことを打ち明けられた。
夫のアランが無理矢理関係を迫ったというものだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる